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(続)0930文化庁前

昨日の続き。美術家の山川冬樹さんと吉開さんの間で以下のやりとりがあったのを拝見していた。
「蒸し返すようですみません。一日経ってもどうして引っかかっている点があるので追記させて下さい。4本指を実際に立てて見せながら、部落差別について語られていましたが、僕はそれに強い違和感を覚えました。タブーだからではありません。もし当事者への尊重があれば出てこない仕草だと思うからです。」山川冬樹 @yamakawafuyuki
https://twitter.com/yamakawafuyuki/status/1179398543343308801?s=20
「なるほど。わたしは逆に、具体的に形をつくって伝えないと、知らない人には伝わらないのではないかと思いました。何度も繰り返したというのは、確かに当事者の方に不快な思いをさせていたかもしれません。気をつけようと思います。けれど仄めかして話すようにもなりたくないです。」吉開菜央/Nao YOSHIGAI
@naoyoshigai
https://twitter.com/naoyoshigai/status/1179562632317030405?s=20
「これは快/不快レベルの話ではありません。吉開さんはその場にいた当事者たちの尊厳を貶めたのです。あまり強い言い方をしたくありませんが、暴力的な振る舞いです。例えあなたにそのつもりがなくてもです。表現の自由を訴える前に、まずそれに気づくべきです。」山川冬樹 @yamakawafuyuki
https://twitter.com/yamakawafuyuki/status/1179662769018159104?s=20

0930の動画を見ると明らかなのだけれど、吉開さんはスピーチの時間を通して大きなゼスチャーを伴っており、指を4本立てて見せるゼスチャーを数度繰り返して、強調している。
https://youtu.be/q31Z2taCDS8?t=4891

これをもって彼女が「差別をした」と思うわけではない。ただ「粗忽」だな、と思う。
例えば、世界的にアジア人を差別する身体表現として「ツリ目」のゼスチャーがある。アジア人の身体特徴として細い目を意味するゼスチャーだ。そしてこれは、日本においては自分たちを「名誉白人」だと勘違いしているかのような日本人が、朝鮮人を差別するときにするゼスチャーでもある。
吉開さんは、これが国際社会で忌むべきとされるゼスチャーとご存じだろうか。ご存じだとして、このことについて公衆の面前で説明するときに、このゼスチャーを実際にやりながら説明するだろうか。「仄めかしたくない」彼女が「具体的に形をつくって伝えないと、知らない人には伝わらない」という理由で。

もし「ツリ目」はやらないけれど、「四つ」はやってもかまわないというなら、そのふたつの違いはなにか。
例えばそれは、「ツリ目」で傷つくマイノリティは存在するけれど、「四つ」で傷つくマイノリティはもう存在していない、という理由かもしれない。あるいは、「ツリ目」で傷つくマイノリティは慮る必要があるけれど、「四つ」で傷つくマイノリティのことは気をつかってやることはいらない、という理由かもしれない。もちろんどちらであっても、それは通用しない。それによって傷つくマイノリティが存在していて、慮る必要があるのが、実際だからだ。

想像してみてほしい。あるひとつのことには認識がありながら、別のひとつには無知なのであれば。想像してそれらの類似性を理解し、そこからさまざまなケースの中に、普遍的な差別構造が存在していることに気づかないだろうか。

放送界をはじめとした自主規制の中には過剰なものもあるだろう。その過剰さは「表現の幅」を不当に狭め、創作を抑圧することは想像に難くない。そしてその過剰さは、規制する側の萎縮でもある。表現者にしてみれば、不必要な誰かの萎縮を不当に押しつけられている気分にもなるだろう。自分は萎縮などせずに、自発的に創造を発揮したいのに、と。「表現の不自由展」が改めて見せたかったものの一面だ。だが、前記事からの繰り返しになるが、それらがつくられた経緯には、歴史的な理由がある。中には差別煽動を慎むためにつくられた規制もある。それがすでに陳腐化しているなら、議論を尽くして廃止すればよい。そのためには必要不可欠なのは、歴史から現在に至るまでの事実を集めた考察だ。つまり「知る」ことから始めなければならない。

それと同時に、過剰な自主規制が無くなることが、差別が無くなることとイコールではないことを理解して欲しい。規制の有無で、規制の有り様で、社会に存在する差別の姿をそのまま測ることは間違いだ。
本来なら、規制などせずとも誰もが差別の歴史を知り、その暴力性を理解し、マイノリティの尊厳を貶めない程度のリテラシーは携えた上で、表現行為にむかえればよいのだ。「表現の自由」のためにはそれが理想だ。それでも、時として意図せず「踏んでしまう」ことは無くならないだろう。
社会の表層がどれだけ変化したように見えても「差別」は無くなっていかない。それは社会の構造が変わっていないことはもちろんだが、「ひとの心」が変わっていないことに起因するのではないかと思っている。

だれもが「自由」であるべきだ。そしてその自由を守り切るためには、どのような「質」を自身が携えなければならないだろう。野放図にしていてそれが叶うわけではない。

あのとき、吉開さんのスピーチを途中まで聞いてこれはまずい、と思った。この方は無為に差別を垂れ流してしまうだろう、と。そこで自分は吉開さんの上手に立っていた集会の呼びかけをされた島貫泰介さんのそばまで移動した。そして小声でスピーチをさせてくれるように頼みそのまま待った。その過程で間近で、ゼスチャーを何度も目にすることになった。そこで自分が感じたのは、不快とか傷ついたとかという以上に薄気味の悪さのようなものだった。本人には意図はない中で表される過去の卑劣な憎悪の上塗りのようなものを見ていた。あっけらかんと、無邪気に、社会の中でこれが繰り返されてきたのだ。そうやって差別はいつまでも無くならなかったのだ。

折り悪くというか、関西電力の原子力利権に絡む高浜町との問題で、これが同和利権だという話がツイッターに流れまくっている。そして、それに乗じた部落差別のデマが、もっともらしく重ねられている。部落差別はこうやっていつまでも消えて行かない。そのことを今夜は目の当たりにしている。部落差別が無くなったなどと思っているひとは、インターネットを開けばよい。そこにいくらでも差別は転がっている。
その中で、「そうやっていつまでも何も変わらないように被害者としての逆脅迫をし続けるのが解同のやり口です。」と書いてきた無知蒙昧な差別者のツイートが目の前を流れていった。
https://twitter.com/miyaderatatsuya/status/1179771160982179840?s=20
解放同盟を批判しているのであって、差別の話をしているわけではないという詭弁が通るわけはないのだが、とにかくここに書かれた「逆脅迫」という言葉の暴力性を考えて欲しい。
こうやって被差別者は口をつぐまされてきたのだ。部落が社会に抵抗するときに、こういう言葉が声を上げることを躊躇させ、抵抗を無効化して見せてきたのだ。
差別を「知らない」ひとが増えることで「差別が無くなる」わけではない。「知らなかった」ひとが、差別デマに出会いそれに喚起されあらたな差別者になる。できれば出会う前に「知る」ことができていれば、デマに流されることも少ないだろう。部落差別をタブー視して来た社会は、積極的に語らないことで差別の本質を直視することを避けてきた。そして被差別者の苛烈な抗議をやっかいに思い、それを避けてきた理由として押しつけてきた。考えてみれば不誠実なのだ。あらゆる差別の口実は、被差別者のせいにされる。

解放同盟の過去にまったく問題が無かったなどとは思っていない。そしてそれと対立していた共産党(全解連)にも。自分の伯父は解放同盟の中のひとりだった。そして父は、どちらかいうと共産党寄りのひとだった。彼ら兄弟の緊張関係を見て育った自分には、なかなか解放同盟と共産党の諍いを直視できないまま来てしまった経緯がある。我が家では、解放運動は家族兄弟に亀裂をもたらす厄災のようなものであったのかもしれない。だが、それでもどちらもが部落が貶められた尊厳の回復を願っていたことに間違いはない。

「アートのひとたち」という呼びかけ方は、考えてみればずいぶん失礼な物言いでもある。それでもやはりそう呼ぶしかいまは仕方ないだろう。自分が目にする限り、アートの側から、あの夜のことを受けて誠実に言葉を繰り出してくれているひとはあまり見えない。島貫さん、山川さんや、匿名であそこに参加されていた幾人の方の反応に、すこしの心強さを感じている。できれば、登壇した著名なアーティストたちのコメントくらいは聞いてみたい。藤幡さんについては、以下のようにツイートしておいた。
https://twitter.com/BLKMDDYRVRII/status/1179786114753650691?s=20

ここからは余談。あの夜自分は、しゃべりに行ったわけではなかった。呼びかけの島貫さんが前回開催時に機材などが足りていなかったことからある筋へ助力を求められた。それはすぐに自分の近いひとたちのところに届いた、つまり反差別のカウンタープロテスターたちのところだ。MC JOEがそれをキャッチし、それを知らされた自分は機材(スピーカーやマイク)を提供するためにあの場へ行った。スピーカーをセットし音の調整の裏方のつもりで。MC JOEは集会の最後にコールをしたひとだ。
路上で動いてきたものたちの瞬発力は、身体を張ることだけではなく、言葉でも理屈でも、素早い。0930の場でリレーされるスピーチの中に「差別」の観点が足らないのではないかと感じ、即座にスピーチでそれを指摘したのも、やはり路上のカウンターのひとりだった。

今回のことで「差別」に関心を持った方は、どうかちらりとでもヘイトスピーチが街に表出する現場に行って、自分の目で社会に垂れ流される差別と、それにプロテストするカウンターを見て欲しい。直近は、10/13に吉祥寺。
これは「少女像」が受けた災難の核に触れることでもある。在日朝鮮人を貶め、嫌韓を煽る差別扇動団体が、街に出てくる。「#1013吉祥寺ヘイトデモを許すな」というタグをツイッターで検索すれば、詳細がわかるはずだ。

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