「黒子のバスケ」脅迫事件 最終意見陳述4

"作者について"

ここまで考え至ってから、改めて自分の罪の本質とは何かを考えてみました。自分はヒントを裁判資料の中に見つけました。証拠採用された30代の男性の供述調書から引用します。

「警戒しながら生活を送っています」

「毎日不安を感じながら生活している状況です」

「私や私の家族などは不安な毎日を送っています。」

「私や家族の不安の無い生活を取り戻したいです」

この供述者はとにかく事件で不安を覚えたのでしょう。しかし同時にこの供述者がそれまでの人生で不安をあまり感じたことがないということも読み取れます。つまりこの供述者は心にしっかりと「安心」を持って生きて来た人物なのです。調書の中で供述者は自身の経歴についても供述しています。要約すると、

「中学でバスケ部だったので、高校でもバスケ部に仮入部しました。しかし練習の厳しさについて行けなくて、やめてしまいました。代わりに漫画研究部に入部しました。漫画研究部に入部したのは、中2の時にマンガ家志望の同級生がマンガを描いているのを見て、感化されてマンガを描くことに興味を持ったからです。高校卒業後は1年の浪人生活を経て上智大学経済学部に入学しました。在学中はゴルフ部でした。大学2年の夏にマンガ家になろうとして決意して大学を中退しました。その後は本格的にマンガを描こうと思い、家を出て独り暮らしを始め、生計はアルバイトとマンガ家のアシスタントなどで立てていました」

ということでした。特に凄い経歴ではありません。ただ大学中退については「思い切ったことをするなあ」との感想を持つ人は多いと思います。思い切ったチャレンジができるのは、やはり「安心」という生きる力の源を持てているからだと思います。

この供述者が誰だかはお分かりだと思います。「黒子のバスケ」の作者氏です。自分は「黒子のバスケ」の作者氏の経歴を詳しくは知りませんでしたが、これを見て、

「自分は標的を間違えなかった。」

と思いました。「生ける屍」であり「埒外の民」であった自分には部活に入ったり、中学の同級生から感化を受けてマンガを描き始めたり、ちゃんとした浪人生活を送ったり、大学でも部活に入ったり、やりたいことのために大学をさらりと退学して親元から自立してチャレンジしたりするという人生はありえないものだからです。

この事件は「黒子のバスケ」の作者氏から「安心」が強奪されたものの、犯人が無事に逮捕されて、被害者に「安心」が還付されたというのが本質だと思います。

自分は「反省も謝罪もない」と申し上げて来ました。これは今でも変わりません。反省も謝罪も自分がやらかしたことについて心から悪かったと思えなければできないものです。残念ながら自分にはそれはできません。自分はやろうと思えばもっともらしい詫び状をしたためることも、公判で嘘泣きしつつ謝罪をすることもできます。しかしそれはするべきではありませんし、そんなことをしても無意味です。それに中味がなくても詫び状を書いたり謝罪された事実が法技術的に自分に有利な情状にカウントされることに自分は耐えられません。

自分は小1の時にいじめられてから約30年間にわたって心の檻に監禁されていたようなものでした。大暴れして何とか脱出に成功して最近やっと自由の身になれました。ところが外に出た自分に誰も同情してくれず、自分をいたわってもねぎらってもくれません。それどころか脱出時に暴れたことだけを問題として取り上げられ、誰もが自分を非難し、自分に謝罪を要求して来ます。これが現在の自分の率直な心象風景です。自分は、

「確かに自分は暴れたよ。だけどその前に自分の30年の苦しみはどうなるんだよ。自分が普通の人と同じように自由の身でいたのに暴れたってのなら、それは自分が全面的に悪いよ。せめて自分を30年も監禁した奴らを批判してから自分のことを責めてくれよ」

と言い返したいのです。

自分は逮捕された日に取り調べを終えて就寝時間を過ぎた遅くに留置場に入りました。自分が入ることになった居室には3人が寝ていました。自分は平然と爆睡してしまいました。翌朝に同室の被収容者から自分は、

「あなたが留置場が初めてと聞いて驚いた。初めての人は不安でなかなか寝つけない。絶対にベテランだと思っていた。初めてであんな堂々とした態度は取れない。腹の据わり方が凄い」

と言われました。刑事さんからも「お前の腹は据わっている」という意味のことを言われました。自分は30年間ビクビクと天敵から逃れ回る小動物のように生きて来ましたが、本来は物怖じせず何でも楽しくやれた性格の人間だったのではなかったのかと今にして思い始めました。

自分だって認知が狂ってなければ努力もできたでしょうし、恋人や友人だってできたでしょうし、それなりの大学に入っていたでしょうし、それなりの仕事にも就けていたでしょうし、茫漠たる怨恨を抱くこともなかったでしょう。そうなっていれば絶対にこんな事件を起こしなどしませんでした。

「自分の正しい認知を返せ!自分の30年の人生を返せ!」

と自分は言いたいのです。

自分は再来月に37歳になりますが、ちっとも37歳になる気がしません。ネット上で「黒バス脅迫犯のおっさん」などと呼ばれているのを見ましたが、自分は「おっさん」と呼ばれるのがどうも納得できないのです。これは「自分はまだまだ若いぞ!おっさん呼ばわりは早いわ!」という意味ではありません。37年も自分の人生を送った認識を持てないのです。過去を喪失したとまでは申し上げませんが、自分で人生の操縦桿を握れていた感じが全くありません。

このような心境の自分には反省も謝罪もできるはずがないのです。

自分が反省も謝罪もできない理由はあと3つあります。

「犯人には、多数の関係者に迷惑をかけたことや開催変更などに伴う膨大な労力をさかれたことなどをよく認識して貰い、反省して貰いたいと思います」

「犯人には、自分が犯した罪が引き起こした事態をよく認識して、償ってもらいたいと思います」

「犯人にどれだけ悪いことをしたか分からせて欲しいと思いますし、犯人自身にもしっかり反省して欲しいと思います」

これらは供述調書から引用した被害企業の方々の供述です。自分は悪いことと分かってやっていますし、迷惑をかけようと思ってやっています。自分は確信犯です。ですから「関係者がいかに迷惑したかを認識しろ」などと責められても、その迷惑は自分にとっては成果です。その迷惑が大きければ大きいほど「自分がやったことは無駄にならなかった」と思えて悪い気はしません。むしろ「別に大したことなかったわ」とでも言われる方がよっぽど自分はつらいです。

被害企業の方々は普通の人たちですから、自分が存在を賭すような感覚で事件を起こしたことを理解してもらうことは絶対に不可能です。特にマンガというコンテンツに絡む事件の性質もあって「オタクによるエスカレートしたいたずら」としか理解してもらえません。ですから被害企業の方々には軽い気持ちでいたずらをしてパトカーや消防車も駆けつける大騒動を起こしてしまった子供に対する説教と同じ理論で自分を批判するのです。

被害企業の方々と自分とでは事件についての認識に差があり過ぎます。自分は被害企業の方々に通じる言葉で謝罪することは不可能です。同時に被害企業の方々も自分に通じる言葉で自分を糾弾することは不可能です。これが自分が反省も謝罪もできないもう3つの理由の内の1つです。

自分はこんな事件を起こしつつも「本当に運が悪かった」とも思っています。これは「自分の脳内のスイッチを入れるスーパーマンみたいな人間が実在しちゃったよ。運が悪かったなぁ」という意味です。「スイッチが入っちまった。運が悪かった。ああ運が悪かった。運が悪かった」というのも自分の率直な心象風景です。「運が悪かった」と思っている人間が反省も謝罪もできるはずがありません。これも自分が反省も謝罪もできない理由の1つです。

さらにもう1つの理由を挙げれば、自分は自分を小虫と認識しているからです。「黒子のバスケ」の作者氏からすれば、自分は身体にまとわりつくうざい小虫くらいの存在だったと思います。その小虫から「うざい思いをさせて申し訳なかった」と謝られて果たして「黒子のバスケ」の作者氏は嬉しいでしょうか?小虫には殺虫剤を吹きかけて死骸を始末して終わりです。このように残酷なまでに力関係に差がありますから、自分には反省も謝罪も意味がないと思えるのです。

以上が自分が反省も謝罪もできない理由です。

ただ反省や謝罪の有無と再犯の可能性は全く別問題です。大多数の人たちは「コイツが外に出たらまた高学歴のマンガ家に同じことを絶対にするぜ。再犯の可能性は100%だ」と思っているでしょう。しかし自分は自信を持って「再犯はない」と断言できます。

自分が無惨な人生を送ってしまったのは認知が狂ってしまったからです。人生を振り返って、自分の認知を決定的に狂わせた8人の人間を特定できました。両親、小学校時代のいじめっ子で特に自分に大きなダメージを与えた3人、自分へのいじめへの対応が特に酷かった小学校時代の担任教師2人、小学校時代に通わされた塾で自分を理不尽な目に遭わせた講師の合計8人です。自分は恨むべき相手を特定できましたので、この8人をひたすら恨みます。自分には茫漠たる怨恨はもうありません。

それに自分は今回の事件でエネルギーを使い果たしてしまいました。犯罪をやるにもエネルギーが必要です。自分にそのエネルギーはもうないですし、刑務所で服役中に充てんされるものでもありません。

以上が自分が「再犯はない」と断言できる理由です。

自分は冒頭意見陳述で「責任は取りたい」などと申し上げましたが、これは実に思い上がった発言でした。自分は責任を取る能力はありません。ですから自分に残された選択肢は「責任を取らずに生きる」か「責任を取らずに死ぬ」の2つしかありません。自分は「責任を取らずに死ぬ」を選択します。これは完全に自分の恣意のみによってする自殺です。ただ自分の死によって事件で迷惑を被った方々が安心したり、溜飲を下げたりしてくれればいいと思います。

自分が「出所してから死ぬ」という趣旨のことを申し上げたことについてはネット上でも非難囂囂でした。自分は「留置場や拘置所でも死のうと思えば簡単に死ねる。今すぐ死ね」という趣旨のコメントを大量に見ました。しかし留置場や拘置所は娑婆の人たちの想像よりずっと自殺が難しい環境です。留置場は雑居房が基本です。留置担当官さんも目を光らせています。拘置所も同様です。さらに各居室に監視カメラがついていて、24時間体制で房内の収容者の挙動をチェックしています。自分は要注意人物と拘置所から認定されたようで、何かあったらすぐに対応できるようにするためか刑務官さんの詰め所のすぐ近くの独居房に配置されました。

実に自分勝手ですが自分はどうしても死ぬ前にもう一度だけ見たい風景があるのです。その風景を目に焼きつけてから死にたいのです。自分は犯罪者ですが人を殺めてはいません。ですから自分にも好きな死に場所を選ぶ権利くらいはまだ残されていると思うのです。

引き取り手のない遺体の処理には一体につき約20万円の費用がかかります。それは遺体が発見された場所の地方自治体が負担しています。自分の現在の所持金と出所時に支給される作業賞与金と合わせれば20万円くらいにはなります。遺体の処理費用に充当して頂くために、自分は必ずそれをポケットにでも入れて首を吊ろうと決めています。

自分が「とっとと死なせろ!」と叫んだことについても「渡邊はこの期に及んでも「人から死なせてもらおう」と考えている。自分で死ぬことすらするつもりもない。どこまでクズなんだ」という趣旨の批判が殺到しました。自分にそのようなつもりは毛頭ありません。ちゃんと自分で死にます。自分は批判されるべき立場ですが、こういう言葉尻を捕らえた批判は非生産的だと思います。

自分への量刑について申し上げます。自分は冒頭意見陳述で「自分は厳罰に処されるべき」と申し上げました。しかし「キモブサメンが成功したイケメンの足を引っ張った」という動機の認識が間違っていました。ですから誤認に基づいてなされた厳罰要求は撤回させて頂きます。

では現在の自分がどう考えているのかを申し上げます。

どうでもいいです。

現在の日本社会で最大の福祉施設は刑務所です。刑務所を終の棲家としている障害者やホームレスの老人は多いです。娑婆で福祉につながれず最後のセーフティネットとしての刑務所とつながっているのです。現に自分が勾留されている拘置所の独居房は、自分が今まで暮らした部屋の中では最も設備は上等です。

自分と致しましては量刑が重ければそれだけ刑務所というセーフティネットとつながっていられる期間が長くなるのですから大勝利です。もし執行猶予がついた場合はすぐにでも決めておいた死に場所に首を吊りに行けるのですから大勝利です。つまりどうなろうと自分としては大勝利です。

ただ自分に対して峻烈な処罰感情を抱く人は物凄く多いことだけは確かです。

「行く先々どこでもこんなに犯人逮捕を感謝された事件は初めてだ」

と自分を取り調べた刑事さんたちは口々に言っていました。司法はこの世論の要求に応えるべきだと思います。法廷最高刑は当然ですが、それだけではなく「未決勾留期間を刑期に不算入」とか「仮釈放反対意見の提示」くらいはあってしかるべきだと思います。

ただ申し上げましたように自分は刑務所の服役も受刑期間の長期化も全く恐くありません。ですから自分に厳罰を求める方々には、

「どうぞ渡邊が厳刑に処されたつもりになって喜んで下さい」

としか申し上げようがありません。ただ留置場にいた背中に見事な毘沙門天の墨が入ったヤクザさんから「あなたは絶対に刑務所でいじめられると思う」と言われました。ですから自分を憎む方々は、

「どうか渡邊が刑務所でコテンパンにいじめられますように。看守さんたちも渡邊が涙目になってても放置しますように」

とでも祈って頂ければよろしいかと思います。

万が一の誤解を招かぬために申し上げますが、自分は社会や被害企業の方々からの寛怒が欲しくてこの長文を書いているのではありません。人とのつながりを財産に例えるならば、自分は子供の頃から負債を抱えた人間が新たに数百万円の負債を抱えたとして、そのことに何か特別な感慨を持つでしょうか?被害者企業の方々の供述調書の「犯人を絶対に許すことができません」という言葉を見ても何の痛痒も感じません。その言葉に痛痒を感じるような人生、つまり自分が人とのつながりによる新たな負債を抱えるのが嫌だ」と思うような人生を送れていればこのような事件は起こしていません。

もちろん減刑を狙って書いているのでもありません。

自分はずっと動機について錯覚したまま取り調べを受け、供述しました。日本の裁判は調書中心主義を採用していますから、判決でも動機は「黒子のバスケ」の作者氏への成功への妬み」との認定がなされていることは分かっています。自分が供述したことは事実ですから調書の認意性については争いません。社会としても「努力もせずに成功だけを欲しがったクズの末路」という事件処理をしたいのでしょうし、司法の役目が見せしめの挙行であることは自分も分かっています。自分には「被告は動機について非合理な弁明を繰り返し云々」という判決文の一部が見えます。

自分としては仕方のないことですが、本当の動機ではなく間違った動機で断罪されることはとても残念でなりません。

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