「黒子のバスケ」脅迫事件 最終意見陳述5

"「無敵の人」"

自分が冒頭意見陳述で使用した「無敵の人」という言葉はマスコミ的にキャッチーだったようです。拘置所への収容後に複数のメディアが自分に接触して来ました。どのメディアからも自分は「無敵の人」というキーワードについてばかりを質問されました。また自分への取材はありませんでしたが「無敵の人」というキーワードを使った特集記事を掲載した週刊誌もありましたし、テレビ局の情報番組も取材に動いていると聞きました。

あるメディアの記者と拘置所で面会した時のことです。その記者は「無敵の人」に関する質問を一通りした後に遠隔操作ウィルス事件の話を持ち出して来ました。そして、

「片山(祐輔被告)も渡邊さんも『無敵の人』だよね」

とニヤニヤ笑いながら自分に言いました。自分は冒頭意見陳述の中で「無敵の人」を「失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間」と定義しました。報道によれば片山被告は同居する母親から「一刻も早く平穏な暮らしを取り戻したい」と言われて、その実現のために予定を早めて真犯人偽装メールを送ったとのことです。このような人物がどうして「無敵の人」に分類されるのか自分にはさっぱり理解できませんでした。面会を終えて居室に戻り、しばらく考えて、

「あの記者は『無敵の人』のちゃんとした定義などどうでもいいんだ。ただ話題になった事件をキャッチーなキーワードで括って、読者を分かったような気にさせる記事を量産したいだけなんだ」

という結論に至り、背筋が寒くなりました。その直後に別のメディアから女性アイドルグループに対する刺傷事件について逮捕直後で事実関係も判然としない状況で犯人を「無敵の人」と断定した上で、自分に見解を求める手紙が届きました。

犯罪の動機も犯人の来歴も十人十色なのは申し上げるまでもありません。犯罪の分析には個別具体的な検証が必要不可欠なはずです。その作業をサポタージュできる便利なキーワードとして「無敵の人」が濫用されることを自分は本気で危惧しています。

はっきり申し上げて「無敵の人」という言葉は、それ自体は大して意味がありません。

「無敵の人」という言葉は結果です。つまり現在完了形なのです。あるメディアからの手紙に「「無敵の人」に当てはまる人に言葉をかけるとしたら何というか?」という趣旨の質問がありました。「無敵の人」になってしまうまでの過程はそれぞれです。全ての「無敵の人」に対して普遍的に通用する言葉など存在するはずがありません。その人物が「無敵の人」になってしまった過程を個別具体的に検証し、それぞれに合った手当を施すことこそが必要なのであり「無敵の人」というキーワードだけ抽出して取り上げることは有害無益です。

尊大な口調で申し上げましたが、自分なりに社会が「無敵の人」に対処する方法を考えましたので申し上げさせて頂きます。

「無敵の人」は「浮遊霊」と重なり合うことが多いのですが必ずしもイコールではありません。「無敵の人」はそれだけでは無害な存在です。「罪を犯すことに心理的抵抗のない」ことと実際に実行することには大きな隔たりがあります。問題は「無敵の人」の中に「埒外の民」が混じっていることです。自分の主観と周囲の客観的評価が乖離していて、その原因が分からず茫漠たる怨念を抱え、努力の時機を逸したために体に中途半端にエネルギーを残しているというタイプの人間です。

「無敵の人」が「生霊」と化すかどうかは完全に運ですからどうにもなりません。「生霊」化を防ぐ方法は「無敵の人」が抱く対人恐怖や対社会恐怖を除去し「無敵の人」がそうなってしまった原因を究明して本人に納得させ、自己物語を肯定的なものに再編集させた上で「無敵の人」に生き直しを図らせることです。これは「無敵の人」が抱えた茫漠たる怨念を除去し成仏させる作業です。もちろんマニュアル的にどの「無敵の人」に通用する方法論など存在せず各個人に合わせた方法が必要です。

現在の日本社会は手間と費用と思いやりが必要なこのような方法を「無敵の人」の生き直しに施すことを許容しません。普通の人たちが普通に議論するといつも必ず「厳罰化と防犯体制の強化」という結論に至ります。

ある殺人事件の被害者遺族が講演で、

「犯人を生み出したのは我々社会である。だから対策として徹底した犯罪への厳罰化と被害者支援システムの構築、学校への警察官常駐制度の導入や防犯カメラの増設による防犯体制の強化が必要だ」

という趣旨の発言をしました。自分はその遺族に、

「あなたはそうすれば宅間がやらかさなかったと本気で思っているの?」

と聞いてみたいのです。ある殺人事件とは2001年の池田小児童殺傷事件です。事件では8人の児童が亡くなりました。確かに学校に警察官が常駐していれば犠牲者の数を減らすことはできたかもしれません。しかし事件の発生そのものを防ぐことは絶対にできません。自分は犯罪被害者や遺族に「犯罪を防ぐためにはどうしたらいいか?」と聞くのはナンセンスだと思います。これは逆に考えれば分かります。犯罪者に向かって「犯罪被害者や遺族を救うために政治や司法や行政や社会やメディアは何をすべきだと思うか?」と聞くのと同じことだからです。

「無敵の人」は基本的に肉体的な死を望みこそすれ拒絶することはまずありません。死は地獄のような生からの解放だからです。懲役については個人差があります。ただの懲役より死刑を望むことだけは確実です。ですから犯行時に懲役を恐れて死刑になるまでのことをやってしまう可能性があります。加藤被告も著書の中でそのような意味のことを述べています。「無敵の人」にとって釈放とは刑務所からの解放ではなく社会への追放です。

しかし社会は「全ての人間が死刑を恐れ懲役を嫌がる」という前提に立っています。この前提に立たないと司法行政が成り立たないからです。これは敗戦後一貫して「僅かな被爆も許さない」というルールを採用して来た日本社会が、66年後のある日から「少しくらいの被爆は何の問題もない。むしろ騒ぐ方が悪い」というルールに変更されたことと同じ現象です。そういうことにしておかないと社会が回らないのです。ですから自分の「死刑は大歓迎だし、懲役も恐くない」という偽りのない言葉も、社会は「減刑を狙った嘘」と解釈するしかないのです。

自分は冒頭意見陳述で「人生格差犯罪」などと申し上げましたが、これは間違った認識に基づいた言葉であり、撤回させて頂きます。また負け組に属する人間が、成功者に対する妬みを動機に犯罪に走るという類型の事件は、ひょっとしたら今後の日本で頻発するかもしれません」とも申し上げました。自分は自分のことを負け組と認識していましたが、自分は負け組ですらありませんでした。ですからこの発言には当事者性が全くありません。よってこの発言も撤回させて頂きます。冒頭意見陳述を撤回させて頂く旨は既に申し上げていますが、特にこの2つにつきましては撤回を強調させて頂きたいと思います。

誤解を招いたのは自分の発言に非がありますが、若年労働者の雇用環境の問題や世代間格差の問題は動機とは全く関係ありません。「格差是正や富の再配分が適正に行われることがこうした自爆テロ的な犯罪に対する最大の抑止力だろう」というように、小泉構造改革批判に自分の事件を絡めて論じられるのは、自分としてはとても心外ですので、今後は改めて頂きたいと思います。

自分の事件を適切に表現する言葉は「欲望欠如型犯罪」です。これは「人生で正常かつ適正な欲望を持つことすらできなかった人間が最後に目に入った相手に不幸や損害をばらまくだけの行動に出るという犯罪類型です。これと対になる言葉は「欲望充足型犯罪」です。「お金や物が欲しかったから」という窃盗や詐欺や強盗や恐喝、「やりたかったから」という強制猥褻や強姦、「恋人とよりを戻したかったから」というストーカー、「火が見たかったから」という放火、「気持ちよくなりたかったから」という薬物事犯など違法な手段で欲望を満たす種類の犯罪です。これは普通の人の犯罪です。ですからこのタイプの犯罪者は死刑を恐れ懲役を嫌がりますから、厳罰化も防犯体制の強化も効果があります。

「欲望欠如型犯罪」を犯しかねない「無敵の人」の犯罪を抑止する方法は2つあります。ポイントは痛覚です。このタイプは完全に認知が狂っていますから普通の人の言葉は通じません。普通の人と共通しているのは肉体的な痛覚のみです。

まず事件を起こす前に「無敵の人」の社会からの退場を公的にサポートするという方法です。つまり公営の自殺幇助施設の開設です。「無敵の人」は事件を起こす前に必ず自殺を考えます。そして決行できない最大の理由は「痛そうだから」です。死ぬのが嫌なのではなく、そこに至るまでの肉体的苦痛が嫌なのです。

首吊り自殺は首と縄を固定する位置関係が垂直で、そのまま体が垂直に落下して吊るされれば首の骨が外れて、自殺者が苦痛を感じる時間は僅かです。しかし普通の首吊り自殺では絶対に不可能です。この快適な首吊りができる施設は日本全国で7ヶ所しかありません。死刑執行用の設備がある各地の拘置所です。自分は大罪を犯した死刑囚が苦痛の少ない死を提供できる設備の利用権を独占しているのは絶対におかしいと思います。「無敵の人」の死刑囚には罰どころかご褒美です。死刑囚に利用させるとしても、どうして罪を犯していない「無敵の人」による利用が許されないのでしょうか?

自分は憲法改正論者ですが、第9条ではなく第25条を改定すべきだと考えています。第25条の条文は、

「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」

です。はっきり申し上げまして、こんなものは完全に有名無実化しています。それにこの条文を守るための施策を行政が本気で行うことには、国民の大多数が猛反対するでしょう。生活保護受給者へのバッシングも凄いですし、民主党政権下での子供手当その他の直接給付政策への批判も凄絶でした。自分の考える第25条改定文案は、

「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を自力で営めなくなった際には、自殺する権利を有する。国は、自殺を希望するすべての国民に身体的、精神的に苦痛のない死を提供しなければならない」

です。苦痛なく死にたい自殺志願者が死刑になるために無差別殺人を犯す国と大罪を犯す前に苦痛のない死が自殺志願者に提供される国と果たしてどちらが住みよい国でしょうか?自分は「無敵の人」の一人として公営の自殺幇助施設の開設を国に要求します。この自殺幇助施設があれば自分は絶対に事件を起こす前に利用していました。事件による数々の損害は発生せず、自分も地獄のような生から苦痛なく解放されてWIN-WINの結果になっていました。

しかしこの自殺幇助施設の開設は不可能です。現在の日本の経済構造は奴隷待遇で働く底辺労働者を数多く必要としています。負け組に簡単に自殺されては底辺労働者が不足し経済が成り立ちません。だから財界はこの施設の開設に反対します。すると金融業界や財政再建派の元財務官僚の学者から「貧しくて身寄りのない老人にのみ利用させよう。福祉に頼られる前にとっとと自殺してもらって社会保障費を削減しよう。財政健全化の努力を市場にアピールして国債価格の下落を防がねばならない」という声が出ます。「無敵の人」の犯罪を防ぐための議論がいつの間にかお金の話になってしまうのが現在の日本の情況です。

もう1つの「無敵の人」向け犯罪抑止策は「無敵の人」が本気で嫌がる刑罰を導入することです。それは無期拷問刑です。無期拷問は死刑と同等の重い罰です。刑務所に服役する受刑囚は1日8時間の労役を科されます。この労役を拷問に変えるのです。「無敵の人」は痛みにとても敏感です。ですから「犯罪をしたら痛いぞ」となると、これは圧倒的な抑止効果があります。と申しますより「無敵の人」は肉体的苦痛しか恐れるものがないから、これしか方法がないのです。

しかしこれも実現は不可能です。受刑者への拷問という過酷な任務を課される刑務官さんたちの人権問題がありますし、欧米諸国の人権団体からもクレームが入るでしょう。

「「無敵の人」に効果があるアメは「肉体的苦痛を取り除いた死」であり、ムチは「肉体的苦痛を課され続ける生」です。

自分は「無敵の人」として「無敵の人」に効果的な防犯対策を提案しましたが、いずれも現在の日本では実現不可能です。そして社会の結論はやはり「厳罰化と防犯体制の強化」になってしまいます。

自分が起訴されている罪名は威力業務妨害です。最高刑は懲役3年です。複数件での起訴による併合罪の適用で最高刑は5割増しとなりますが、それでも懲役4年6ヶ月にしかなりません。威力業務妨害は法人に対する傷害です。一方で傷害の最高刑は懲役5年です。現在の日本は人より企業を大切にする国なのに、これは明らかに社会の要請と法律がかみ合っていません。威力業務妨害の厳罰化は絶対に必要です。最高刑を懲役15年くらいにまで引き上げるべきだと思います。法人に対する傷害である威力業務妨害が個人に対する傷害の3倍の量刑であることは、刑事司法が現在の社会の有り様を国民に見せつけるという意味で大切なことだと思います。こういうことを日本経済新聞はちゃんと社説に掲げるべきだと思います。

他にも「グリコ法の適用基準の緩和」とか「ネットカフェにおける利用者の身元確認義務づけ制度の中央立法化」とか「全ての郵便ポストに投函者を撮影できる防犯カメラの設置の義務化」なども自分の事件を根拠に主張できます。これはあれだけ嫌韓ネタを紙面に掲載しながら、東方神起の全面広告で紙面をすっぽりと包む荒業を披露した言行不一致な「韓FUN」発行元の産経新聞がやってくれるでしょう。

自分は長文を書きましたが大手メディアにかかると「最後まで被告から被害者への反省と謝罪の言葉はなかった」の一行で片付けられてしまいます。その程度の事件報道しかやる気がない大手メディアが司法記者クラブ特権で傍聴席を占拠しているのはおかしいと思います。

内容をスルーされるだけならばまだいいのです。自分は大手メディアが「被告が長々と喋ったこと自体がけしからん」という議論を始めないかと少しだけ危惧しています。自分の初公判についての各紙の記事を見ましたが、行間に「被告の分際で喋るな」というニュアンスを強く感じました。無罪主張という例外を除いては「被告は法廷で反省と謝罪以外の言葉を喋る資格はない」というのが市民感覚というものなのでしょう。「犯罪被害者や遺族の立場を何よりも重視する」という自らのスタンスを強調する論者の「犯行動機の解明に司法や捜査機関が必死になるのは詮ないことだ。加害者が自己中心的な論理を開陳することにより、それを聞かされる被害者と遺族は再び苦しめられ、傷つけられる。それよりもとにかく迅速に厳罰に処せ」という趣旨の主張にほとんどの日本人は賛成すると思います。新聞の現状を考えれば「被告人による冒頭意見陳述など百害あって一利なしだ。被告人は罪状認否と被告人質問で聞かれたことだけに答えればよい。必要なことは最終弁論で弁護人が主張すればよい。被告人による最終意見陳述もあくまで簡潔に被害者と遺族に謝罪と反省を述べるか無罪主張をするかだけにとどめるべきだ。長く見積もっても5分以上の時間は必要ない。遠隔操作ウィルス事件の片山祐輔被告による冒頭虚偽陳述に日本中が騙されたことを司法は教訓にしなければならない。裁判は被告人の講演会ではない。裁判所には被告人に余計なことを喋らせない毅然とした訴訟指揮が求められる」というような内容の社説が載ることぐらいはあってもおかしくないと思います。もし自分のせいで未来に登場するかもしれない饒舌な被告人の法廷での意見陳述に支障が出るような事態を招いてしまったら実に申し訳ないと思います。

自分の罪を現在の日本の社会構造の中で位置づけてみたいと思います。

現在の日本が採用するネオリベ的な経済、社会政策は即ち強者への富の傾斜配分システムです。この政策は同時に希望や意欲や知識や人間関係も強者に傾斜配分します。こうして物心両面における格差が拡大し、客観的には搾取されている状態の人間が急増します。搾取されている人間は主観的に不幸になり、不満を持つ可能性があります。そしてその不満をシステムにぶつけて来る可能性があります。そうするとシステムの維持に支障を来す恐れがあります。そこでシステムは搾取されている人間の無害化を図ります。無害化には以下の3種類の方法があります。

・客観的には搾取されているが、主観的には幸福な人間=オタク

・客観的に搾取されていて不満も持っているが、その不満をシステム以外の場所にぶつける人間=ネトウヨ

・客観的に搾取されていて不満も持っているが、ただひたすら自分を責める人間=「努力教信者」即ち潜在的な自殺志願者

これらはつまり孤立気味の人間の「浮遊霊」化回避のための2種類の薬と「浮遊霊」化してしまった人間の社会からの退場方法です。これらはシステムにより供給されたものだったのです。これらは同時に負け組に許された身の処し方の全てです。人生ゲームで負け組ルートに入ってしまうとゴールはこの3ヶ所しかないという意味なのです。

オタクは趣味やイベントで不満や不幸を紛らわすタイプです。いわゆる狭義のオタクだけではなく「パンとサーカス」のサーカスに熱中するタイプの人間を全て含みます。システムが巧妙なのは、このサーカスの木戸銭すらオタクから徴収していることです。オタクは完全にシステムの養分です。

ネトウヨは不満をシステム指定のゴミ捨て場に捨てるタイプです。ゴミ捨て場は「反日国家」や「売国奴」です。昨年に某閣僚が舌禍事件を起こした頃に電車で自分の隣に座っていた中年女性グループが、

「麻生さん本当にかわいそう。変な因縁ばかりつけて来る中国と韓国には本当にいつも腹が立つわ」

という内容の会話をしているのが聞こえて来て唖然としました。自分は、

「おいおい麻生にクレームをつけたのはアメリカのユダヤ人の団体だろ。どうしてそれがそうなるんだwwww」

と思いましたが、あらゆるニュースをこのように捉える国民が大多数ならば、システムとしては確かに搾取も統治も世論誘導も楽だろうなと思うのです。ネトウヨ化した国民はシステムのコントロールから離脱して暴走することがあります。その例が反フジテレビデモやTPP反対派のネトウヨです。

自分はネトウヨと申し上げてますが、つまりは不満をシステム以外にぶつける人間のことです。ですからシステムに悪影響がなければ不満のぶつけ先は「反日国家」や「売国奴」でなくてもいいのです。例えば原発反対運動を徹底批判しているワーキングプアであることを売りに論壇デビューした社会評論家はまさにネトウヨです。この人物はいわゆる狭義のネトウヨではありません。しかし境遇への不満をシステムではなくシステムへ異論を唱える人間にぶつけるその言論活動は、まさにシステムが想定したネトウヨの行動そのものです。

日本のネオリベ的な経済・社会政策は世界のグローバル経済体制の確立という不可逆的かつ不可避的な歴史の一環として行われています。自分はグローバル化と国民のネトウヨ化は必ず一体で進行するものだと考えてます。グローバル化にさらされた国家は必ずそれ以前より国家体制を強化します。グローバル化によって生じた格差に由来する国民の不満を抑え込み、グローバルな経済競争に勝利するために企業の負担の軽減と国民への不利益配分を、国民の反対を押し切って迅速に強行する必要があるからです。しかしグローバル化とは国境の撤去です。国家体制の強化と国境の消滅という矛盾した事態が同時に進行しています。

グローバル経済体制のルールでは勝者が日本人である必要はありません。金儲けの機会は外国人にも平等に開かれていないといけません。しかしこのルールを日本人が受け入れることはできません。システムもこのルールの施行を強行すれば、国民がシステムに向かって怒りと不満を一気にぶつけ始める事態になることを理解しています。

システムは日本人にも受け入れ可能なグローバル化とは何かを考えたと思います。そしてルールに「ただし中国人と韓国人は除く」というただし書きをつけるという妥協点を見出して、そこへの着地を目指しているのが現在の状況だと思います。つまり日本式グローバル経済体制のルールは「勝者が日本人である必要はないが、中国人と韓国人であってはならない。金儲けの機会は外国人にも平等に開かれるべきだが、中国人と韓国人は参加させてはならない」というものだと思うのです。そして「グローバル化の果実をシェアするサークルに中国と韓国を参加させてはならない。中国と韓国の参加を阻止するために日本の国家体制の強化が必要だ」という論理で矛盾を糊塗するしかないのが現在の日本だと思うのです。

ここ数年で日本の世論の憎中嫌韓化は一気に進みましたが、これは日本側の事情によるところが大きいと自分は分析しています。つまり今までケンカを売られても鼻で笑って対応していた日本にケンカを買う理由ができたのです。それは世界の中で日本の経済的地位が低下したからです。「海外の反応」まとめブログに日参しているアニメアイコンのネトウヨが唱える「世界一温厚な日本を怒らせることは、支那朝鮮の悪行がそれだけ酷いのだ。世界中が「あんなに穏やかな日本ちゃんを怒らせるとは、チャイナもコリアもどんだけの悪さをしたんだ。許せん!」と日本を支持してくれている」という説は間違いです。日本人は温厚ではありません。日本人に金がなくなったので、日本人は余裕がなくなってケンカっ早くなっただけなのです。

「努力教信者」は広義の「努力教信者」とは違います。申し上げて来た通り日本人の大半は「努力教信者」です。そういう意味でオタクやネトウヨも「努力教信者」です。ここで申し上げている「努力教信者」とはオタクにもネトウヨにもなれず、不満を「努力教」の教えに則って処理するタイプの人間を指します。「努力教」は全ての現象を故人の努力量の多寡のみに帰結させて世界を理解する教えです。ですから負け組になってしまって、その境遇に不満があっても「自分自身の努力が足りなかったから」と原因を理解します。そして自分をひたすら責め続けます。そのような人がどうしても耐えられなくなった時に社会から退場する手段として自殺を選択します。格差社会についての本に「もし、完全なる機会均等社会が実現したら、結果の差はすべて純粋に個人的な能力に帰せられる。しかしそれはそれで非常に過酷な社会ではないかと思えるからだ。おまえの成績が悪いのは(略)ひとえにおまえの頭が悪いから(略)ということになっています。言い訳がまったくできないのだ」という記述がありました。日本は「努力教」の普及によりアファーマティブアクション抜きで「非常に過酷な社会」になりました。

自分が公営の自殺幇助施設の開設を求めるのは、「努力教信者」が自殺による社会からの退場を選択した時に国が苦痛のない死を与えてあげることこそ人道的な政策だと思うからです。少なくとも国が死刑囚に苦痛のない死を与えることよりは人道的なはずです。

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