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東日本大震災津波・復興1年目(最初の1ヵ月)

災害対策本部の設置

  2011(平成23)年3月11日、岩手県議会の予算特別委員会が開かれていました。知事の出番は無い日だったので、私は知事公舎にいました。

 知事公舎の書斎で、デスクに向かって資料を読んだりしていました。付けていたテレビでは、NHKの国会中継をしていました。

 午後2時46分、部屋が大きく揺れ始めました。かなり強い地震です。しばらくして、揺れがさらに大きくなり、部屋全体が船のように揺れました。なかなか収まりません。経験したことが無い地震です。

 私は、「来るべきものが来た」と思いました。

 当時、大型の宮城県沖地震が、30年以内に99%の確率で起きると予測されていました。それだ!と思い、岩手県の沿岸部に大きな津波が来るのは確実、と考えました。

 私は、県庁秘書課に電話し、自分の無事を伝えました。

 公用車が知事公舎に迎えに来ました。知事秘書のスマホで、テレビのニュースを見ました。大津波警報が出ていました。

 気象庁による津波警報は、地震直後、津波の高さを3メートルと予測していました。

 実際の津波の高さは、はるかに高く、10メートルを越える所もありました。気象庁の装置が、複合的だった最初の地震を単一的なものと誤ってとらえ、マグニチュードも低め、津波高の予測も低めに、伝えてしまったのです。

 岩手県の沿岸部は、過去に何度も大津波に襲われていたので、ほとんどの場所が、3メートルを越える防潮堤に守られていました。

 気象庁の津波警報は、やがて徐々に修正されて、より高い津波の高さを予測していきました。しかし、その頃には停電が広がって、自家発電の無い所では、その情報をテレビで見ることができなくなっていました。

 津波の高さは3メートル、という情報が、沿岸部に広がったままになり、避難をしなくてよいと思った人が多かったと、後に報告されています。このことは、大変残念なことでした。

 岩手県庁が所在する盛岡市は、震度5強でした。県庁は、地盤が安定していることもあり、ほぼ無傷でした。岩手県全体が停電になっていましたが、県庁は直ちに自家発電に切り替えました。

 公用車で県庁に移動し、知事室に入り、防災服に着替えました。午後2時46分の発災と同時に、県の災害対策本部を設置したこと、午後2時52分に自衛隊に災害派遣を要請し、午後2時59分に消防庁に緊急消防援助隊の派遣を要請したことを確認しました。

 地震の大きさから、人命にかかわるような、かなりの被害が出るとの確信があったので、実際の津波の発生前に、自衛隊と緊急消防援助隊の派遣を要請したのでした。

 実際に津波の発生が確認されたのは、午後3時20分頃からです。テレビの各局が、津波の映像を映し始めました。県庁でも、防潮堤を越えるような大津波が、多くの個所で発生していることが分かってきました。

 午後3時45分に第1回災害対策本部会議を開きました。

 県の災害対策本部は、通常であれば、災害の現場の市町村から、電話やFAXで情報を得て、県の関係部局で共有し、必要に応じて国に報告するのが基本です。

 しかし、この時は、県庁から沿岸部の市役所、町村役場に、電話がつながらなくなっていきました。地震と津波が、固定電話のネットワークを寸断していました。携帯電話も、地震と津波、電源の途絶で、基地局が停止していきました。

 電話がつながっても、市役所や町村役場では、海岸の様子や津波の詳細が分からない、という状況でした。県の防災ヘリや県警のヘリが飛び立っていましたが、気象状況などで、リアルタイム情報を送れないでいました。

 現場の状況が不明なままでの第1回対策本部会議でしたが、私からは、とにかく「人命優先」、「見えないところや情報が来ないところに注意する」、「職員一丸となって取り組む」、と指示しました。

 ここで昔の話をしますが、東日本大震災が起きるまで、日本の、戦後最大の災害は、1995(平成7)年1月17日の阪神淡路大震災でした。犠牲者は6434人。

 その日の朝、7時頃、外務省職員だった私は、出勤の支度をしながらテレビのニュースを見て、衝撃を受けていました。高速道路の高架が横倒しになり、ビルが倒れたり崩れたりしています。

 しかし、死者数は、「6人」と伝えられていました。

 あれだけの大地震が、死者6人で済むはずがありません。倒壊した建物の中で、人々がどのようになっているのか、その情報が、公的機関にほとんど伝わっていなかったのです。大規模な災害ほど、直後に得られる情報は極端に少ないということを、肝に銘じました。

 東日本大震災の直後も、同様だったのです。

 かなりの人数の方々が、津波にのまれたり、あちこちに取り残されているだろう。火災も発生するだろう。そのような判断を前提に、動く必要がありました。

 消防と警察の無線は、力強く現地の情報を伝えてくれました。救助を求めている人の情報、火災が起きている情報など、直ちに人命に影響する情報が次々に伝えられ、その情報に基づいてヘリや人員が急行します。

 一方、避難所の状況や、市町村の動きについては、引き続き、ほとんど情報が得られませんでした。

 県としては、得られた情報に基づいて、人命救助や消火活動を調整する一方、ほとんど情報が無い中で、食糧をはじめとする緊急支援物資の調達や、輸送手段の確保に着手しました。

 なお、県の災害対策本部会議は、マスコミ取材に開放し、その場で知事記者会見も行うようにしました。

当日の夜

 インターネットは十分使えました。ツイッターで検索すると、被災地の情報が断片的に入手できました。

 私もツイッター・アカウントを持っていたので、停電が長期化する見通しだとか、自宅で酸素吸入など電機が必要な療養をしている人は、自家発電で機能している県立病院に行けば良いとか、沿岸部と往来する道路は交通規制をしている場合があるので、警察の指示に従ってほしいなど、ツイートしました。

 これらの情報は県の対策本部に集約されますが、傍聴しているマスコミは同時には報道しませんし、県の広報部局からの正式な発表は少し後になるので、直ちに多くの人に知らせた方がよい情報は、私が私の判断でツイートしました。

 情報と言えば、○○県の△△の浜に、約□□人のご遺体が見つかった、というような、不確かな情報がテレビで流れたりしました。

 不確かな情報が流れるのは、何であれ、良くないことです。特に、人の命にかかわること、死亡者の情報については、不確かな情報は決して出さないようにしようと、県警本部長と打ち合わせました。

 県警本部長、県の警察本部長は、国の警察から派遣されます。県の公安委員会と国の警察の下にあるので、普段、知事とは直接のやり取りをあまりしません。

 しかし、非常事態の下では、知事と警察本部長の連携が大変重要です。

 死亡情報の件をはじめ、被災現場の安全、交通、様々な情報など、警察の力が大いに発揮されます。私は、警察本部長との打ち合わせを頻繁に行うようにしました。

 自治や消防を所管する総務大臣や、消防庁長官からの電話に出て、地元の状況や要望を伝えるのは、大規模災害時における、知事の重要な役割です。

 そのような電話のやり取りは、地元選出の国会議員など、政治関係者との間でも重要です。

津波被災現場へ

 3月12日、一夜明け、人命救助、行方不明者捜索、道路通行確保などが、本格的に動き始めました。

 道路通行の確保は、国、県、市町村、そして業者や地域住民が連携し、それぞれのマンパワーや重機をフル回転させて、作業を進めました。

 国土交通省は、東北地方整備局の下、各県に多くの人員と作業車両を有しています。私は、衆議院時代に災害対策特別委員を長く務め、被災した国道を復旧させるときの国交省の現場の本気度の高さを拝見する機会が何度かありました。

 この時も、ものすごい勢いで道路を開き、復旧させてくれました。そこに、自衛隊のマンパワーが加わって、沿岸部への道が開かれていきました。

 県庁では、消防と警察の関係以外の被災地情報は、依然として入手困難でした。

 そこで、人事課長に、沿岸市町村の数だけ、状況把握チームを編成してもらいました。全ての被災地市町村にそれぞれチームを派遣し、直接状況を把握して、県庁に戻って報告する、必要であれば何人か残って市町村を手伝うというチームです。

 私は、ヘリで上空から被災の状況を調査しました。

 陸前高田市や大槌町などは、中心部全体が津波に襲われて、建物がほとんど無くなり、その残骸が広がっていました。初日、県警ヘリから「陸前高田、壊滅」という言葉が伝えられていましたが、その意味が、この時に分かりました。

 半島の先など、リアス式海岸の津々浦々にある、小さな漁村も、それぞれ甚大な被害を受けていました。

 私は、大地震が起きた時から、「やられた!」という感じを持ち続けていたのですが、ヘリで上空を飛んだ時、「やられた!」という感じが頂点に達しました。

 何か、大規模な奇襲攻撃を受け、なすすべもなく、岩手の県土、街や村が破壊され、多くの犠牲者が出ているというイメージです。

 同時に、「これ以上はさせない!」という気持ちが強く湧き上がってきました。初戦では後れを取ったが、これ以上は負けない、破壊も犠牲も増やさない、むしろ巻き返す!という気持ちです。

 多くの方々が救助を必要としている、また、救援物資を大量に迅速に届ける必要がある、ということを対策本部に伝えねばならぬ、と思いました。

 県庁に戻った私は、災害対策本部に「人命最優先のオペレーションを徹底するように」と、あらためて指示しました。

 内閣府の防災担当副大臣が、関係省庁の若手と共に岩手入りしていました。県から国に、整理しておいた要望事項を伝えました。

 要望事項は、①燃料の確保と電力の早期復旧、②沿岸部への移動・輸送の確保、③生活必需品、医療品等の調達、④安否確認のための人員確保、⑤通信の確保、⑥腎臓透析患者の移送等、⑦早期復旧に向けた国の全面的支援、⑧災害廃棄物処理の支援、⑨自治体会計の特例、の9項目。

 翌13日に総務大臣が来県した時に同じ内容を要望しました。

 14日に総理大臣から電話があった時には、「燃料確保」の1点に絞って要望しました。

 重油、軽油、ガソリン、灯油という燃料が、県外から来なくなっていることが、最重要の課題でした。

 この日、2日目の夜、岩手県内の死者309人、行方不明者387人との報告。

 まだまだ、被災の現場に、私たちはたどり着けていませんでした。

消防、警察、自衛隊、海外救援隊

 岩手県には、自衛隊が最大時12,000人のべ約60万人、消防がのべ7,633人、警察が1,400人、派遣されました。

 大勢の自衛隊員と自衛隊の車両、全国各地の地名が入った消防車やパトカーが、被災地に続々と入ってきました。大変頼もしく、オール・ジャパンで助けに来てくれている、ということが肌で感じられました。

 警察については、県公安委員会から、警察庁に対する援助要求を行っていました。これに基づいて、全国の警察から、広域緊急援助隊が被災地に派遣されました。また、海上保安庁にも出動していただきました。

 海外からの救援隊も駆けつけてくれました。アメリカから144人、イギリスから77人、中国から15人です。

 海外からの救援隊については、消防庁長官から私に電話があり、岩手県内の被災地で受け入れられるか、と尋ねられました。私は、様々な困難は予想しましたが、一人でも多くの救助の手が必要である、国際的な救助は将来の友好・交流につながり、大きな復興の力になるであろう、と考え、即断即決で了承しました。

 海外からの救助隊は、大船渡市と釜石市に入ってもらうこととし、外務省が受け入れ事務を担当することになりました。

 最大の困難は、市役所のほうに、日本のマスコミの取材が殺到して、対応に追われる事態になったことでした。私は外務省に連絡して、マスコミ対応も外務省が受けるようにしてもらいました。

 大船渡市と釜石市は、その後、日本にある関係国の大使館とのつながりを構築し、交流を続けています。

 最大のマンパワーと卓越した任務遂行能力を持つ自衛隊に、うまく救援活動をしてもらえるかどうかが、災害初期対応の成否を左右する最重要事項だったと言えます。

 岩手県には陸上自衛隊の駐屯地があり、その連隊が所属するのは、青森県青森市に本部がある第9師団です。第9師団は青森、秋田、岩手の3県を担当しています。その第9師団が、岩手県の救援を担当することになりました。

 3月12日の早朝には、人員約2,000名、車両約500両が、岩手県沿岸部の被災地に入っていました。

 岩手県では、岩手県庁12階の講堂を第9師団に提供し、師団司令部に青森市から移って来てもらいました。陸上自衛隊の師団司令部を移動させ、県庁に設置するのは前代未聞、空前にして今のところ絶後ではないかと思います。仮設の陸上自衛隊通信アンテナが、岩手県庁に据えられました。

 自衛隊の師団司令部と、県の災害対策本部が、県庁という同じ建物にあることで、県と自衛隊の連携はものすごく密接になりました。朝や夜の、県の対策本部会議に、自衛隊の師団長はじめ幹部が出席できるので、情報の共有や連絡が大変スムーズになりました。

 これを考えたのは、自衛隊出身で、岩手県の防災危機管理官になってもらっていた越野修三さんです。その後も、越野さんは、岩手県と自衛隊を一つに結び付ける役割を果たしてくれました。

 自衛隊に、何をやってもらうのか、どこまでやってもらうのか、手探りで決めていったところがあります。

 例えば、初動における、道路通行の確保、がれきの片づけは、その道路の管理者や土地の管理者の役割で、国交省や県、市町村、民間の業者や一般の方など、ほかに担い手がいて、自衛隊の仕事ではない、という判断もありました。しかし、岩手県だけで最大1万2,000人の自衛隊パワーがあれば、大変助かります。

 そこで、私たちは、人命救助、行方不明者捜索を、自衛隊の役割として、そのために必要な道路通行の確保やがれきの除去も、自衛隊にやっていただく、と整理しました。

 もともと岩手県内に所属する、消防職団員、警察職員の活動が、そもそも基本です。初動において、県外からの応援が、まだ到着しない頃は、全てが地元の職員、団員にかかっていました。 

 岩手県内の消防職員、消防団員、警察職員は、被災地勤務の人たちは自分の持ち場で、被災地以外の勤務の人たちは被災地の応援に、全力を尽くしていました。

 その中で、痛恨の犠牲がありました。

 沿岸部に勤務する消防職員8人、消防団員90人、警察官11人の方々が、避難誘導や救助中に津波に襲われ、殉職されたのです。

週明けの動き-体制の構築

 3月14日、週明けの月曜日。県内の各団体に、知事からの協力要請メッセージを出しました。翌15日には、内陸部の市町村長に県庁に集合してもらい、沿岸被災地支援への協力体制を構築しました。岩手の総力を結集すべき時です。

 この内陸部の市町村長との会議で、①犠牲者のふるさとへの思いを継承する、②被災された方々の幸福追求権を保障する、という二大原則を発表しました。

 早い段階で、分かりやすい原理原則を、皆で共有することが重要、と考えました。全身全霊を込めて、言葉にしたものです。後に、復興の基本原則と位置付けられました。

 16日から19日までに、ヘリや車で、私は全ての沿岸被災市町村を訪問しました。

 それぞれの市町村長と面会し、県と市町村が力を合わせることを確認しました。燃料の確保と、ご遺体の火葬場所の確保、この二つが市町村共通の悩みでしたので、事前に国との調整を済ませ、対応策を市町村に伝えました。

 この週の間に、応急仮設住宅を建設する基本的考え方を整理し、全国最速で着工しました。

 3月16日の災害対策本部会議で、関東大震災後の「復興院」のような組織が国に必要だ、と述べました。翌日掲載した地元新聞がありましたが、後に「復興庁」として実現するこの考えを、全国で初めて示したことになります。

 このころ、政府の現地連絡室が岩手県庁内に設けられ、各省庁から担当者が派遣されて来ました。当時、岩手県には財務省出身の副知事がいて、その副知事と各省庁担当者とのミーティングを毎日開くようにしました。

 副知事には、「何をすべきか、答えは現場にある。国の『復興院』事務総長になったつもりで、各省庁担当者を通じ、事務レベルで政府を動かすように」と指示しました。

被災者一人一人への配慮

  人口約27万人の岩手県沿岸部で、3月13日のピーク時、54,429人が、住む家を失って、避難者になっていました。

 私が最初に被災地入りした時に、避難所の様子も見ましたが、多くの課題がありました。まずは、避難所での食事と衛生への配慮を強化しました。

 岩手を担当する陸上自衛隊第9師団が、県庁内に司令部を移してきた時、避難所一つ一つや、避難所以外で生活する人々に対しても、物資が行き渡るように自衛隊の協力を求めました。被災者一人一人に、被災地の家一軒一軒に寄り添うような対応を、師団長にお願いしました。

 避難所での避難生活は過酷でしたので、希望する被災者の方々には、内陸部の市町村にある宿泊施設に一時的に移ってもらうほうがいいと考え、その手配に着手しました。

 日本では、避難所は、そもそも一晩様子を見る程度の避難を想定していて、長期にわたって寝泊りすることを想定していません。居住、と呼べないような生活を何週間、何か月も強いるのは忍びないと思いました。先進国標準の避難生活を実現すべき、と考えました。

 被災者の皆さんのほとんどは、行方不明の身内の捜索や、壊れた家屋の片付けなどのために、避難所に留まることを選びましたが、約1,600人の方々が内陸の宿泊施設で過ごされました。この、ホテルなど宿泊施設への避難は、2016(平成28)年の熊本地震の時に、大々的に活用されました。

学校、漁業、市町村行政への対応

 最初の沿岸市町村入りで、私が特に憂慮したことが三つありました。

 第一に、児童生徒の安否確認など学校本来の役割に加え、避難所としての役割も求められていた学校現場の危機。

 第二に、ほとんどの漁船や養殖施設が失われた、漁業関係者の絶望的状況。

 そして第三に、被災した沿岸部の市町村の、行政能力補完の必要性です。

 学校と漁業については、電話で直接事情を伝え、発災後二度目の週末に、文部科学省と農林水産省の政務官に、それぞれ現地入りしてもらいました。学校現場には、人や財政面で国が支援することになりました。漁業については、漁協を核とする漁業再生支援につながりました。

 防災関係以外の省庁で、政務三役が東日本大震災の被災地入りしたのは、この時が最初でした。どのように被災地に関わるべきか、各省庁が決めかねていたところがあり、被災の現場から働きかけていくことの重要性を再認識しました。「答えは現場にあり」です。

 被災地の市町村の行政支援については、岩手県で市町村課長の経験がある総務省職員に岩手入りしてもらい、総務省の全面協力を得ながら、応援職員の派遣、通信手段の確保、壊れた住民情報データの復旧など、支援体制を強めていきました。

人事異動の問題

 3月11日は、発災前の午前中に定期人事異動の内示があり、それを予定通りに実施すべきかが問題になりました。

 人事異動は組織の成長であり、その成長力を災害対応のパワーアップにつなげたいと考え、予定通りの異動実施を決定しました。実際には、沿岸部の被災地から内陸部への異動はある程度延期され、内陸部から沿岸部への異動は予定通り実施されましたので、沿岸の県職員体制が二重になり、手厚くなりました。

 また、国土交通省に戻る予定だった県土整備部長が、理事という肩書きで県に残れるようにしました。退職する予定だった防災危機管理監にも残ってもらい、同様に退職予定だった秘書広報室長にも理事として残ってもらいました。それぞれに、共に戦い続けてもらうことを懇切にお願いしました。

 この三人と知事と二人の副知事を合わせて、県のトップが6人いるような、厚みのあるトップマネジメント体制になりました。

一週間後の黙祷

 この年の2月に、ニュージーランドのクライストチャーチ市で大地震があり、岩手県出身の留学生が犠牲になり、岩手県出身のクライストチャーチ住民が被害にあっていました。

 地震発生1週間後にニュージーランド首相が被災地入りして黙祷をするということがあり、私からの指示で、岩手県庁でも同時刻に館内放送を合図に黙祷していました。

 この時の事を参考に、東日本大震災1週間後に、岩手県内で一斉の黙祷を呼びかけました。私は、宮古市田老の防潮堤の上に立ち、自衛隊、消防、警察、地元関係者らと共に黙祷を捧げました。

 目を閉じると、穏やかな波の音や海鳥の声が聞こえ、いつもと変わらない岩手の海岸なのに、目を開けると、壊れた建物の部材や、家の中にあったものが、泥にまみれて折り重なっているのが延々と続き、その落差が信じられない思いでした。

 その後、年度の変わり目である4月1日、発災1か月後の4月11日などの節目に知事メッセージを発し、県の災害対応も復旧、復興に向けて新しいステージに入っていくという流れを作っていきました。

4月7日の余震

 4月7日、宮城県沖を震源とする、マグニチュード7.2の大きな余震が発生。岩手県内では、奥州市や一関市に、3.11の本震以上の被害が生じました。15日に奥州市、一関市の被害状況を視察しましたが、多くの家屋に修理が必要でした。

 この地震の被害についても、「東日本大震災」による被害として、沿岸部の津波被災地と同様に扱うよう国に求め、そのような扱いになりました。

4月11日「がんばろう!岩手宣言」

 4月11日、3.11から1か月。私は、釜石市内の避難所で、「がんばろう!岩手宣言」を発表しました。

「がんばろう!岩手」宣言

 3月11日の東日本大震災津波から1ヵ月が経ちました。

 岩手では、大勢の方が犠牲となり、行方不明となっている方も数多くいます。また、多くの方が家を失うなどして、避難生活を強いられています。

 岩手は、これまで、明治、昭和の三陸大津波や、カスリン、アイオン台風、チリ地震津波、岩手・宮城内陸地震など、何度も大きな自然災害に見舞われてきました。しかし、先人は、決してくじけず、これらの苦難を乗り越えてきました。今回の大災害も、岩手の豊かな自然のもと育まれてきた自立と共生の心があれば、必ずや克服することができます。

 宮沢賢治は、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉を残しました。

 私たち岩手県民は、皆で痛みを分かち合い、心を一つにして、被災された方々が「衣」「食」「住」や「学ぶ機会」「働く機会」を確保し、再び幸せな生活を送ることができるようにしていきます。また、犠牲となられた方々のふるさとへの思いをしっかり受け止め、引き継いでいきます。

 どんなに長く厳しい冬が続いても、暖かい春は必ず訪れます。

 全国、そして世界中からいただいたお見舞いや励ましを糧に、県民みんなで力を合わせ、希望に向かって一歩ずつ復興に取り組んでいくことを誓い、「がんばろう!岩手」をここに宣言します。

平成23年4月11日

岩手県民を代表して 岩手県知事 達増 拓也

 また、同じ日、第1回「岩手県 東日本大震災津波 復興委員会」を開催しました。

 県内各分野の代表と、科学・技術の専門家が集結して、県の復興計画の策定が始まりました。かつて岩手県出身の後藤新平が、関東大震災の復興院総裁となって行ったことを参考に、科学技術的な必然性と、経済社会的な必要性に基づいて、復興計画を策定すべきと考えました。

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