個人の思考はクラスタの論理に、またしても勝てないのか

先日、BLOGOSに「ついこないだまで「作品に罪はない」って言ってなかった?」という記事を書いた。
内容としては、「盗作疑惑のある勝海麻衣氏が出演しているCMを放送するなと批判している人がいるが、ピエール瀧氏の時や新井浩文氏のときには「作品に罪はない」と言っていたはずでは?」と、ご都合主義的な主張を批判的に見る内容である。

この記事に対する当たりがかなりキツイものだった。
曰く「勝海麻衣氏は盗作しているのだから、作品に罪がないとは何事だ!」というものである。
僕は文中にしっかりと「勝海氏が出演しているCM作品」と、主語を明確に書いたものの、読んだ人たちには「勝海氏の作品(絵)に罪はないと言っている」という内容であると読んだようである。
その中にはライターとして仕事をしている人もいるらしい。

こうした、内容をしっかり精読もせず、批判する人たちというものに、僕は何度も対面してきた。そしてそれは必ずと行っていいほど「ネットで是とされていることに対して疑問を呈したとき」である。

「勝海麻衣氏は盗作をしているのだから、CMに出ていることも批判されて当たり前」そんな当たり前に対し「作品に罪はないのではなかったか?」として「否」を唱えた。それが彼らには気に入らなかったのだろう。

批判の中に「ピエール瀧氏の作品に罪がないと言っている人と、勝海麻衣氏の出演CMを批判した人は同じではない」という物があった。もっと口さがない人は「こいつはネットでの批判をすべて同じ人がしていると思っているのか」などと主張した。

しかし、僕にはネットで記事に反応し、僕に批判の声を寄せてきた人が同じ人格であるようにしか思えないのだ。
批判にオリジナリティがなく、自らの論理的破綻も一切無視して、ただ一方的にこちらの意見を叩くだけの主張を行う。
その版で押したような批判に、個人としての主張を伝えようという意図も、またこちらの意見を汲み取ろうという意思も見えない。

さて、僕はそうした人たちを他にも知っている。
それは「サヨク」と呼ばれる人たちだ。

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