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鬼って、どうやって生まれたの? お坊さんが語る「仏教と鬼」【後編】

「鬼」と言うと、映画の記録的なヒットで話題となった「鬼滅の刃」(原作: 吾峠呼世晴/ごとうげこよはる)を連想する方も多いでしょう。仏教の中にも鬼はいます。そして「鬼滅の刃」は、かなり仏教(とくに浄土真宗)的なのです。『鬼滅の刃』と仏教の関係性にふれた前編に引き続き、後編となる今回は、浄土真宗における「鬼」について検証します。

そもそも鬼って何?


鬼の話は昔から多く語られてきました。そもそも鬼とは何でしょうか? まずは「鬼」という漢字の意味を見てみましょう。

古代中国では「鬼」という漢字には元々「死者のたましい」と「自然の神々」の意味がありました。やがて、自然の神々には「神」の字をあてるようになったため、「鬼」は「死者のたましい」を意味するようになりました。それでも「鬼」と「神」の区別は必ずしも明確ではなく、「鬼神(きじん)」の語も多用されます。

たとえば『論語』に次の一節があります。

季路、鬼神に事えんことを問う。
子曰く、未だ人に事うること能わず、焉んぞ鬼に事えん

(意味:孔子の弟子の一人、季路が神霊に仕えることをたずねた。孔子は「人に仕えることもできないのに、どうして神霊に仕えられよう」と述べた)

ここでは「鬼神」と「鬼」を区別せず、死者(とくに先祖)のたましいの意味で用いています。この場合の「鬼」は仕えるべき対象であって、恐ろしいものではありません(この一節について親鸞聖人が独自の解釈をされていますので、後ほどお話しします)。

ところが『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』には、非業の死に遭あった鬼(たましい)が仇の命を奪い恐れられたが、それを祀ることで祟りが止んだという記事があります。

このような鬼(鬼神)について、姿が見えるという考えと、姿は見えないという見方がありました。『詩経』には鬼の姿について詠んだ詩があります。

一方、『中庸(ちゅうよう)』にはこのような孔子の言葉があります。

鬼神の徳たる、其れ盛んなるかな。これを視れども見えず、これを聴けども聞こえず。物に体して遺すところあらず

(神霊のはたらきというものは、まことに盛大であることよ。神霊の形を見ようとしても見えず、神霊の声を聴こうとしても聞こえない。だが、神霊は一物も残さず、すべての物のもととなって、物を成り立たせる)

ここに取り上げたのはいずれも、仏教伝来以前の儒教の文献です。「鬼」について、時に尊く、時に恐ろしく、並外れた力があり、人には計り知れない存在と考えられていたようです。

日本語の「おに」はどういう意味?

鬼の字を日本では「おに」と読みます。ただし同じ字をあてていても、中国の「鬼」と日本の「おに」は、必ずしも同じではありません。

奈良時代に朝廷が編纂した史書『日本書紀』では、鬼は人に「恐ろしい」「不気味」などと思わせる存在です。たとえば、斉明天皇の遺体を運ぶ列を鬼が山上から見ていたという記事があります。ただし『日本書紀』には、鬼が人に具体的な危害をあたえたような記述がありません。

ところが、これとほぼ同じ頃に成立した『出雲国風土記』には、一つ目の鬼が人を喰くらったと伝えられています。日本では古くから、鬼は人を喰らうと考えられてきたのです。

やがて平安時代になると、人が鬼になる話が見られるようになります。『今昔物語』にこのような話があります。狩りに出ていた兄弟の兄を、鬼が喰らおうとしました。すかさず弟が鬼の腕を切って、兄弟は助かりました。実はその鬼は、兄弟の母親でした。

このように平安時代になると、人が鬼になり、人が鬼を刀などによって退治する話が語られています。

仏教用語の「鬼」は、餓鬼と一緒

仏典にはしばしば「鬼」の語が見られます。仏典の「鬼」は、インドの原語(サンスクリット語)ではプレータ(preta)です。プレータは元々「死者(のたましい)」の意味でした。そこで中国では、これを訳す時に同じ意味の漢字である「鬼」をあてました。

古代インドでは、プレータは供養を受けないと行き場のない霊(いわゆる無縁仏のようなもの)になると考えられていました。これに対して仏教は、プレータの世界(餓鬼道)を設定しました(これを設定した経緯についてはまだ解明されていません)。その世界は常に飢えているので、プレータは「餓鬼(がき)」とも訳されます。つまり仏教において「鬼」と「餓鬼」は同じものです。

なお仏教では、プレータ世界(餓鬼道)に落ちた者が供養によって救われるという話が説かれます。そのため、仏教にも「供養の対象となる死者のたましい」の観念が引き継がれていると指摘されています(「仏教は霊魂を否定している」と言われることがよくありますが、この説は近年見直されており、初期仏教の段階から「たましい」の存在を認めていた可能性が指摘されています)。

さらに仏典では、プレータとは人に危害を加える存在であると説いている例があります。たとえば漢訳の『法華経(ほけきょう)』には

「諸(もろもろ)の鬼あり。首牛頭の如し。或いは人肉を食らう」(鬼の頭は牛のようであり、人の肉を喰らう)

という記述があります。サンスクリット本の対応箇所では「人肉を食らう」とは書かれていないものの、プレータが人にとって恐ろしい存在であることをさまざまな表現で示しています。

このように、仏典における「鬼」には複数の見方が混ざっています。

仏典には、私たちが思い浮かべる鬼に近いものとして、羅刹(らせつ)、夜叉(やしゃ)、悪鬼があります。羅刹とはサンスクリット語のラクシャス(rakşas)の発音を、夜叉はサンスクリット語のヤクシャ(yakuşa)の発音を漢字にあてた言葉です。これらは人を喰らうなど危害を加える存在ですが、夜叉は仏法を守護する一員としても数えられることがあります。

また、仏典には「悪鬼」の語が見られます。ただしサンスクリット語の仏典では、「悪鬼」に直接あてはまる言葉がありません。たとえば漢訳の『法華経』には「悪鬼」の語が数カ所ありますが、サンスクリット本の対応箇所を見ると原語ではプレータpreta(餓鬼)であったり、ヤクシャyakuşa(夜叉)であるなど、さまざまです。どうやら、人に害をあたえる存在を文脈に応じて「悪鬼」と訳したようです。

親鸞聖人と鬼


 親鸞聖人の著述にも「鬼」が表れます。親鸞聖人は『教行信証』化身土巻(けしんどかん)で、鬼とは餓鬼であり、亡き人を指す場合もあり、あるいは魔物であり、はたまた神である(仏教では、神とは人間よりは上位ですが、迷いの世界の存在なので仏には及びません)、と述べられます。これは、鬼についてさまざまな見解があることを踏まえたものです。その上で、先ほど触れた『論語』の一節を次のように読み替えられます。
『論語』にいはく、

季路問(きろと)はく、〈鬼神(きじん)に事(つか)へんか〉と。子(し)のいはく、〈事(つか)ふることあたはず。人いづくんぞよく鬼神に事へんや〉」と。

 ここでは「鬼神に仕えるべきではない」と説かれています。これは、仕るべき対象は阿弥陀仏であることをほのめかしています。

 さらに『浄土和讃(じょうどわさん)』には、鬼に触れた歌があります。

 南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)をとなふれば 四天大王(してんだいおう)もろともに よるひるつねにまもりつつ よろづの悪鬼(あくき)をちかづけず

 お念仏を称えると悪鬼を近づけないと詠まれています。阿弥陀さまは、私たちを常に見守ってくださっています。だから私たちは鬼を恐れる必要がありません。

(文/編集委員・多田修)

『鬼滅の刃』のあのシーンに、実は浄土真宗の存在が? お坊さんが語る「仏教と鬼」【前編】はこちらからどうぞ!

【参考文献】
・植木雅俊著『梵文『法華経』翻訳語彙典』上・下(法蔵館)
・貝塚茂樹著『中国の神話』(筑摩書房)
・桂紹隆著「インド仏教思想史における大乗仏教 有と無との対話」(春秋社『シリーズ大乗仏教1大乗仏教とは何か』所収)
・子安宣邦著『鬼神論 儒家知識のディスクール』(福武書店)
・奈良康明著「餓鬼(preta)観変遷の一過程とその意味」(春秋社『大乗仏教から密教へ』所収
・馬場あき子著『鬼の研究』(筑摩書房)
・正木晃著『お坊さんなら知っておきたい「説法入門」』(春秋社)

※本記事は『築地本願寺新報』に掲載された記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。