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恵みをもぎ取る(※神に聞かれた祈り 2)

かつて、イエスが人として――あるいは「ユダヤ人」として――、村々や町々を歩き回っていた頃のことである。

そんなイエスをものの見事に言い負かし、「恵みをもぎ取った」人物がいた。

それは、ユダヤ人から見れば「異邦人」の、名もなきひとりの女性であった。
マルコの福音書に書かれた通りに言えば、それは「ティルス地方」に住む一人の娘の母親であり、「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」ということである。

そのギリシア人の母親は、イエスの噂を聞きつけて、イエスのもとにやって来て、足元にひれ伏して、懇願した。

いわく、「娘から悪霊を追い出してください」と。

ところが、ところが、

その時のイエスは、(あえて言うのだが)「バカ」だったのか、あるいは、「わざと」だったのか、その母親に向かって、こう答えている。

いわく、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」、と。

もし、こんな言葉を、「本気で」イエスが言っていたとしたら、当時のイエスは「正真正銘のバカ」である。それ以外の何者でもない。

しかし、「わざと」言っているとしたら――聖書を読めば、まず間違いなく「わざと」だということが分かるのだが――なんともまあ、いかにも「イスラエルの神」らしい、「人間の信仰を試みる」ためにこそ発せられたお言葉である。

ギリシア人の母親は、そんな「お言葉」をば、まったく完璧なほどに言い負かし、イエスから恵みをもぎ取ったというわけなのだが、

その話をする前にいつもいつも思うことは、「イスラエルの神」とは、どうしてこうも、「訓練好き」なのだろうか。

なにゆえに、いつもいつも、人の信仰をば「試したり」、「試そうとする」のだろうか。――そんな理由は、ほかならぬ「訓練を受けたことのある者」であれば、色々な意味で「分かる」のだが、ときおり、「人間的に、あまりに人間的に」言いたくなることは、「ホントに良い根性してやがんな」という正直な感想である。

がしかし、

このような「顔」を「イスラエルの神」が見せるときこそ、実は人間にとって、「最大のチャンス」なのである。もっと言えば、「異邦人」にとってこその、チャンス到来なのである。

それは、聖書の続きにも、こう書いてあるからである。

イエスは言われた。

「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」

ところが、女は答えて言った。

「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」

するとイエスは、答えて言った。

「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」

女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。…


私は、『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』という文章の中で、はっきりと書いている。

「聖書の実現」も、「預言の成就」も、どうだっていい、と。

もう一度言うが、私は「あえて」、そんなことはどうだっていい、と書いたのである。

なぜとならば、

「わたし」という「個人」にとって、「聖書が実現」しようが、「預言が成就」しようが、それが「わたし」という「個人のための救い」にならなかったならば、どんな「実現」でも「成就」でも、すべて、なべて、おしなべて、「フザケタおとぎ話」に過ぎないではないか。

これを「ギリシア人の母親」的に言いかえれば、当時の「イエス」が「ダビデの子(預言の成就)」であれ、なんであれ、「自分の愛する娘」のために、「悪霊を追い払って」くれないような人物であったならば、それは母親という「個人」にとっては、メシアでもなんでもない、あるいは「向こう三軒両隣にうろうろする人間」よりも冷酷な、「非情の人」でしかないというものである。

「まず、子供たち(イスラエルの民)に…」という「聖書の実現」の方が優先で、それゆえに、道すがら出会った「小犬(異邦人)」は救えないのだ――というのであれば、

そんな存在は、「神」であったとしても、「救い主(キリスト)」でもなんでもない。

「イスラエルの神」であったとしても、「母親の神」ではない。

仮に、「全民族の神」であったとしても、母親という「個人の神」では、ありえないのである。

それゆえに、

もしもあの時、

本当にイエスが「小犬」を見捨て、「子供たち」を優先していたならば、私はイエスなど、絶対に信じなかっただろう。

「小犬」が見捨てられていたならば、旧約だろうが新約だろうが、なんだろうが、聖書なんか一文字も信じないし、信じるに値しないものである。

たとえ身も心も「ユダヤ人」となれば、「イスラエルの神」に認められて、救われるのだとしても、そんな「ユダヤ人」になど、絶対に、絶対に、絶対に、なりたいとも思わない。

なんどでも、なんどでも、なんどでも、声を大にして言いつづけ、書きつづけ、訴えつづけてやるが、

私が興味のある「イエス・キリスト」は、「わたしの神」であるかどうか、である。

「わたし」という、ちっぽけな、あまりにちっぽけな「個人」にとっての「救い主」であるかどうか、なのである。

それゆえに、それゆえに、

「個人の救い」以上に、「聖書の実現」や「預言の成就」やに重きを置く、いかなる 「教義」にも、「奉仕」にも、「信仰」にも、「行い」にも、「讃美歌」にも、「お説教」にも、「教会」にも――その他、ありとあらゆる「アーメン」にも、「ハレルヤ」にも、「ホサナ」にも――いっさい、いっさい、いっさい、いっさい、興味がない。

「まず、子供たち(聖書の実現、預言の実現)に…」というイエスなど、「わたしの神」ではないのだから、「まず子供たちに…」という「お言葉」に追随しているような「教会」や「レビ人」なんか、「正真正銘のおバカ様」でしかないのである。


だから、だから、

私は、いつもいつでも、イエスに向かって、たとえば以下のように言っている。

主なるイエスよ、あなたが、「子供たち」のために遣わされた者であることを、知っています。

あなたが、「まず、子供たち」のための「パン」であることも、よく、よく、よく、よく知っています。

しかし、私は「子供たち」として生まれたわけでもなく、「子供たち」の一人になるつもりもありません。

なぜとならば、私はかつて「小犬」として生まれ落ち、今の今まで「小犬」として生きてき、そして、かの日において「小犬」として、「わたしの神とあいまみえた」者だからです。

それゆえに、この命の尽きるまで「小犬」であり、この世の終わりまで「小犬」でありつづけるべき者であることを、知っています。

それゆえに、

「子供たち」に与える「パン」に比べたら、「小犬」たる「わたしのためのパン」など、いつもいつも、なんとなんと、ちいさな、ちっぽけな、ささやかなもので済むでしょうか!

「食卓の上からこぼれ落ちるパン屑」というたとえの通り、「わたしのためのパン」など、「パンそのもの」でなくてもいいのです。

「パン屑」だけで、十分なのです。

それゆえに、それゆえに、

「小犬たるわたし」なんかのために、わざわざエルサレムまで旅していただくにはおよびません。「小犬」の家の屋根の下にご足労いただくこともありません。その手を置いていただくことも、その唇をもって祈っていただく必要もありません。

ただ、道すがら、出会った「小犬」をば、憐れんでください。

あなたの足元にひれ伏して、憐れみを請い願う「小犬」に、「パン屑」をば恵んでください。

ああ、そんな「パン屑」は、「子供たちに与えるパン」に比べたら、どんなにかどんなにか、「ちいさな、ちっぽけな、ささやかな恵み」でしょう…!

「聖書の実現」や「預言の成就」に比べたら、「個人の救い」など、御目においては、どんなにかどんなにかどんなにか、「ちいさな、ちっぽけな、ささやかな恵み」でしょう…!


私は、こういう祈りをもって、「アーメン」と唱えた。

そして、ほかならぬ「小犬」のためにこそ「パン屑」を恵んだ「イエス」の、「憐れみと慈しみという名のために」こそ、祈りを聞かれたのである。

私が祈りを聞かれたのは、「わたしの神」に向かって、「わたしの言葉」をもって、「わたしごっこ」をして、祈ったからである。

いかなる「教会ごっこ」をして、「クリスチャンごっこ」をして、「ユダヤ人ごっこ」をして…、祈ったからではない。

それゆえに、

わたしの祈りは、いつもいつも、こうでなのである。

イエス・キリストはわたしの神である。アーメン。


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