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不思議という旅路


――
主の御使いは、「なぜわたしの名を尋ねるのか。それは不思議と言う」と答えた。
マノアは子山羊と穀物の献げ物を携え、岩の上に上って主、不思議なことをなさる方にささげようとした。マノアとその妻は見ていた。 すると、祭壇から炎が天に上るとき、主の御使いも、その祭壇の炎と共に上って行った。マノアとその妻はそれを見て、ひれ伏して顔を地につけた。 主の御使いは再びマノアとその妻に現れることがなかった。マノアはそのとき、この方が主の御使いであったことを知った。 マノアは妻に、「わたしたちは神を見てしまったから、死なねばなるまい」と言った。 だが妻は、「もし主がわたしたちを死なせようとお望みなら、わたしたちの手から焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物をお受け取りにならなかったはずです。このようなことを一切お見せにならず、今こうした事をお告げにもならなかったはずです」と答えた。
――


『余生という終幕』という文章を書いて、それをもって辞世ならぬ「辞note」の言葉とした。

そのようなことをしておきながら、なおこんな文章を書いているのは、例によって「書け」と言われたからにほかならない。

それゆえに、ほかのだれのためでもない、「書け」というお方と、自分自身にむかって書いているばかりである。


「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。」

――このように、いささかの疑いもなく確信できるということは、実に幸せなことである。

「幸せ」という言葉選びが、ここでもっとも相応しいものとも思えないのだが、とにもかくにも、そのように心に信じ、そのように書き表せるということは、自分以上の力によって支えられ、強められていなければ、とうていなし得る業ではない――それだけは、はっきりとはっきりとはっきりと、断言できるところである。

それゆえに、

私は今、この地上で誰よりも「幸せ」な人間だと、そのように天を仰いで公言してもはばからない――事実、そうなのだから。

というのも、

「幸せ」なる私がためには、今日、新しい小説のアイディアまで「与えられた」からである。


がしかし、

はっきりと言っておくが、それの完成したところで――いつの事になるか、今はまだ皆目見当もつかない――このnoteにおいて発表するつもりは、いっさいない。

あるいは、この世のどこにも、ついに披露しようとすることのないやもしれぬ。

そうでありながらも、

「もし主がわたしたちを死なせようとお望みなら、わたしたちの手から焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物をお受け取りにならなかったはずです。このようなことを一切お見せにならず、今こうした事をお告げにもならなかったはずです」

という言葉のとおりで、

もしも「主が私を死なせようとお望みなら、新しい小説のアイディアなど、いっさい与えることはなかったはず」である――と信じている。

また、

「なぜわたしの名を尋ねるのか。それは不思議と言う」

という言葉のとおりで、

今日明日に死にゆくような人間のために、「イエス・キリストの新しい名」をばそっと耳打ちしたりすることもなく、

「わたしのための新しい名」をば、イエスがわたしのためだけに付けたりすることもなかったはずである。


それゆえに、

私の余命は、「新しい小説」をしたためる日々となるであろうと、今日、よくよく分かったのである。

「主の憐れみと慈しみは、朝ごとに新しい」

という言葉の、間違いも疑いもなく真実であることを、私は「今日」という恵みの日に、新たに体験した――ほかならぬ、この身をもって。

このような経緯(いきさつ)があって、

「今日でも、明日でも、いつ死んだっていい」と考えていた私は、

もう少しだけ生きようと――いや、生きねばならないのだと、思い立った。

さながら食卓からこぼれ落ちたパン屑のように与えられた「新しい小説」のアイディアとは、それほどまでに、佳美しきものであったから――。

あと、

五年だろうか、十年だろうか――

別に何年かかったってかまいはしない――

とにかく完成させること、書き上げ、描き切ること――


おそらくは、

その小説の完結が、人生の完結である。


それゆえに、

不思議という旅路を急ぐ必要なんか、どこにもないのだ。



令和五年六月五日 
無名の小説家

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