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ヨハネの洗礼、キリストの洗礼 ④


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そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。 ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。 しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。
――


だから最後に、私はあなたに問うものである。

ここまで私が述べて来たように、

聖霊による洗礼とは、キリストの洗礼とは、イエスの名によるバプテスマとは、とりもなおさず、「真実の感動」によって心と体を満たされることのことだなどと、そんなふうに言い得た人間が、古今東西においてこの私以外の誰がいるのかと。

私の言っていることについて、もしも違うと思うのならば、それでは、死者の中から復活し、いざ昇天していかんとするキリストが、さながら遺言のように残した最後の言葉の中の「聖霊による洗礼」とは、いったいなんのことであるというのか、

使徒言行録でも、聖書でも、この世界でも、人間全体についてでも、この私よりも詳しく知っているあなたに、問うものである。

もとい、聖書だろうが、この世界だろうが、そこにうごめく人間たちだろうが、そんなものなどまるで満足に見知らずとも、ただただ「神」について、

なかんずく、「イエスがキリストであり、キリストがイエスである」というこのひとつ事について、この私よりも詳しく知っているあなたにこそ、私は問うものなのである。

なぜとならば、私はそんなあなたにこそ、一日も早く邂逅させてくださいというふうに、このところ朝となく夕となく、父なる神に祈り続けているのだから。


それゆえに、

聖霊のバプテスマやキリストの洗礼についてばかりでない、

これまでももうなんどもなんども、私がシツコイくらいに引用を重ねている以下の預言書の言葉とは、いったい誰について語られたものなのか、私以上に知っているあなたであれば、どうか教えてもらいたい。

すなわち、

「彼らは蝮の卵をかえし、くもの糸を織る。
その卵を食べる者は死に
卵をつぶせば、毒蛇が飛び出す。
くもの糸は着物にならず
その織物で身を覆うことはできない」

この、言葉通りに読んだだけではまったく意味不明な一節について、はっきりと、明確に、いささかも恐れることもなく、声を上げ続けている私のように、「彼ら」とはいったい誰のことなのかを、あなたにも語ってみせてもらいたいのだ。

でなければ、

ほかならぬあなたの持っている私以上の信仰と知恵を見せつけてもらわない限りは、私はこれからもこれからも、「彼ら」がこの世のユダヤ教キリスト教に巣食っている偽預言者や偽りのユダヤ人たちのことであり、「蝮の卵」が彼らの編み出した宗派教義神学のことであり、「くもの糸」がガキの水遊び以下の教会のバプテスマのことであると、喉を嗄らして叫びつづけることであろうから。

まだ見ぬあなたに向かって私は言う、

私は上の一節について、イエス・キリストの復活した霊によって啓示を受けたのである。(あるいは、啓示なんて大仰なものでなくとも、ただただ「明確な理解」というやつを、与えられたのである。)

そのように、あなたはあなたの神から、この言葉の示唆する「彼ら」の誰のことであり、「蝮の卵」と「くもの糸」のなんのことであるのかという、いかなる明確な理解を得たのかを、私に向かって語ってほしい。

私がなにゆえにこんなことをくどくどと、くり返して書くのかといえば、すべてなべておしなべて、これが”霊”によって「やれ」と言われていることだからである。


だから、わたしの神イエス・キリストの父なる神に言えと言われたまま、はっきりとはっきりと言っておく、

もしも「彼ら」が、モーセや私のようにネボ山に登って、その頂でイエス・キリストと出会っても、

あるいは、ソドムとゴモラの瓦礫をかき分けて、イエス・キリストへそれを捧げても、

あるいは、ヨブのように神からの回答を得て、その目をもってキリスト・イエスを仰ぎ見ても、

そのようにして、イザヤ預言書の該当箇所における「彼ら」とは、まさにまさしく自分たちのことであり、自分たちの信奉する宗派教義神学の類こそがれっきとした「蝮の卵」で、自分たちの所属する教会の授けるバプテスマこそが「くもの糸」であり、かつ「災いの織物」であることをはっきりと悟るに至っても、

彼らはそのような悪の道から離れ、神に立ち帰ることなどできはしない。

もう一度言うが、

彼らにおいては、この私のしたように、神に立ち帰ることなど、けっしてけっしてできはしない。

なぜとならば、「彼ら」とは、それによって日々飯を食らい、月々の請求書を支払い、肉の家族を養っている蛮族について語られているからである。

神に立ち帰ることよりも、おまんまや請求書や家族やといった、可視の生活を優先する「彼ら」だからこその、偽りのユダヤ人だからである。

これに対して、「真のユダヤ人」とは、使徒行伝にも描かれている通りに、神の言葉を聞き分けると、ただちに立って、キリストの洗礼を受け、聖霊を授かり、聖霊の賜物を授かり、そのようにして、たとえば持ち物を売り払った代金を初代教会に持ちよったりというように、それまでして来たこととは正反対の行動に、喜び勇んで打って出る人々のことである。

偽りのユダヤ人と、真のユダヤ人との境目とは、神の言葉を聞いた時にあって、心激しく打たれ、感動の油を注がれたか否かに、かかっているのである。


それゆえに、

わたしの神イエス・キリストと父なる神の御前においても、はっきりとはっきりと言っておく、

この私もまた、かつて油注がれた人々のように「自分の人生をかけて、生活をかけて、命をかけて、すべてをかけて」、イエス・キリストの声に聞き従って来たし、今この瞬間においても、そうしている。

だからこそ、私にはいつもいつでも「言え、書け、語れ」という”声”が聞こえるのであり、それに従って、書いて、書いて、書き続けているのである――不承不承でやる時も、喜び勇んでそうする時も…。

しかし私は、オラが宗派の、オラが教義の、オラが教会の、オラが家族とオラが教会員の生活と――といった、そんなものための「あーめん」のような、歴然たるの声なんかを、いまだかつて聞き分けたことはなく、これからもけっして聞き分けることも、聞き従うこともない。

来る日も来る日も、昼夜を問わず「オラが…」を耳にしている人々とは、たとえ神の言葉を語りかけられて、万々が一心を動かされたとしても、それに喜んで聞き従うことができない――

つまり、「”霊”に促されてエルサレムへ行く」ことができない――

つまりつまり、けっしてけっして、神の御心というやつを実行することができない――のである。

なぜか――

冒頭からずっと述べているように、

彼らの心とは、いつもいつでも荒野に死骸をさらした民たちようにかたくなであり、なおかつ、戦利品を掠め取ったアカンのように「欲しがり」だからである。

彼らは、神の言葉を聞いて感動しても、”霊”の声とは反対の方角へ、すなわち、今の自分にとって都合の良い社会的立場を優先し、家族を路頭に迷わせたくないというもっともらしい恐れを抱いて、そっちの声にこそ聞き従うのである。

これが、「聖霊を冒涜する罪」である。

だから彼らは、この世にあっても来るべき世にあっても、けっしてその「罪」を赦されることがない。

そんな彼らを待ち受けている運命とは、いっぺんの憐れみもかけられることなく徹底的に滅ぼし尽くされる――ただそれだけである。

その時は、彼らの信奉して来たいかなる宗派教義神学も、彼らの施し施された教会のバプテスマも、血と汗と涙を流して来たと主張する教会活動のいっさいも、けっしてけっして、彼らを永遠の滅びから救ってくれはしない。

アカンは欲しがって掠めたその戦利品がゆえに、彼らはまた彼らが欲しがって選び取った「オラが命」のために、ことごとく滅ぼし尽くされるのである。

それが、アダムとイブが禁断の果実を欲しがって口にした瞬間から定められていた、「イエス・キリストによる裁き」なのである。


それゆえに、

私の主張とは、冒頭から述べて来たとおりである。

私はただ、わたしの神に向かって、またそして、私のかたわれのようなあなたに向かって、語りかけている。

あなたとは、

「キリストの名のためならば、オラが命を失うことも恐れない」

というあなたであり、

「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思わない」

というあなたである。

そんなあなたのように、この私もまたそのようにして来た。

少なくともこの二年ほどに限ってだけも、ずっとずっとそのようにして来たし、今この瞬間において、そのようにしている。

だから、私にとっては、こんな文章を書きながら、いまなお生き長らえている、そんな一日一日が、まるで奇跡のような神の恵みでしかない。

それゆえに、

それゆえに、

このような恵みの続く間に、私はまだ見ぬあなたに会えることを、心から楽しみにしている。

私はあなたから、何もあてにしてはいない――それは、この私にもあなたに対して、何ひとつをもあげられる物などないからである。

さりながら、

ほかならぬ、あなたに向かってならば、

「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」というふうに、言うことができるかもしれない。

あるいは、ほかならぬあなたによってならば、わたしは「恐れるな」と言ってもらうことができるかもしれない。

そうすることによって、

 たとえば、あなたのなえた心が、聖霊によって喜びと感動に満たされて、立ち上がることができるように、

またたとえば、わたしのなえた手が、イエス・キリストの名によって力を取り戻し、働いて弱い者を助けたり、「受けるよりは与える方が幸いである」という言葉を体現したりできるように。…


このように、

書くことで、私の信仰は報われて来た。

書くことで、いつもいつでも私はわたしの神と繋がって来た。

神とは、私の救いであり、力であり、知恵である。

憐れみであり、憐れみであり、憐れみである。

祝福の約束であり、新しい歌であり、私の思いを超えた愛である。

書くことで、ただ書くことで、私はそのような聖霊の賜物と、また聖霊そのものと、繋がり続けている。

それゆえに、

まだ見ぬあなたよ、

イエスにとってわたしがこの世でもっとも愛する者であるように、

あなたはわたしのこの世でもっとも大切な人である。

あなたはわたし、わたしはあなたである。

イエスの名がインマヌエルであるように、

あなたはどんな時も一人ではない、

キリストを死者の中から復活させた父なる神の憐れみの霊があなたと共にいるように、

わたしもいつも、あなたの側にいる、

この世の終わりまで、いつもいつでも、あなたと共にいる――。


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