命をかけた祈り ②
――
わが神よ、どうかわたしをわが敵から助け出し、
わたしに逆らって起りたつ者からお守りください。
悪を行う者からわたしを助け出し、
血を流す人からわたしをお救いください。
見よ、彼らはひそみかくれて、わたしの命をうかがい、
力ある人々が共に集まってわたしを攻めます。
主よ、わたしにとがも罪もなく、
わたしにあやまちもないのに、
彼らは走りまわって備えをします。
わたしを助けるために目をさまして、ごらんください。
万軍の神、主よ、あなたはイスラエルの神です。
目をさまして、もろもろの国民を罰し、
悪をたくらむ者どもに、
あわれみを施さないでください。
――
わたしの神イエス・キリストよ、キリスト・イエスの父なる神よ、
昼となく夜となく、わたしの命を突け狙う敵の手から、わたしを救い出してください。
わたしを滅ぼそうとする者が、自らのたくらみとたばかりによって滅ぼされますように。
滅ぼされてもはや永久に、この地の面から姿を消しますように。
わたしの神よ、
わたしはこれまで、死者の中から復活したキリストの声に聞き従って、イエスがキリストであり、キリストはイエスであることを書き表して来ました。
わたしは「イエス・キリスト」を宣べ伝えるようにしながら、その実、己の私腹を肥やし、自らを肥え太らせるためだけに無辜の人々をだまし、あざむき、かどわかして奪い取る、この世のユダヤ教キリスト教の偽預言者と偽りのユダヤ人たちとによる「死に至る罪」の数々に光を当て、明るみの下に引きずり出して来ました。
わたしが居なくなったら、いったい誰が、それを引き継ぐのでしょうか。
わたしが居なくなったら、彼らはいよいよ自分たちこそが正しかった、自分たちこそ神に選ばれた者だと、奢り高ぶって物を言い、高慢にふるまって、イエスでもキリストでも父なる神でもない彼らの偶像を神として礼拝し、そのように人々にも強要し、そのようにしてバビロンはますます富栄え、しかりしこうして、その富と力と繁栄に目のくらんだ者たちが毒麦のように地の面にはびこって、殺戮し略奪と収奪をほしいままにするでしょう。
わたしの神よ、イエスを死者の中から復活させた父なる神よ、わたしが滅びてしまったら、彼らはあなたがわたしよりも自分たちを憐れんだのだと言って、その開いた墓のような喉と、蝮の毒をみなぎらせた舌をもって、知りもしないあなたの名を語り、よりいっそうの「聖霊を冒涜する罪」に手を染めていくことでしょう――
それでいいのでしょうか。
わたしの神よ、イエス・キリストよ、「人々の前で天の国を閉ざし、自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」彼らの上には、どうかいっぺんの憐れみをすら施さないでください。
「離れ去れ、バビロンから離れ去れ」という神の言葉に聞き従ったわたしをこそ、憐れみ、憐れみ、憐れみぬいてください――たとえ食卓の上から落ちたパン屑であっても、その家の犬は喜んでそれを食べるのですから。
わたしの神、キリスト・イエスの憐れみの霊よ、
わたしの敵の手にわたしの身を引き渡さないでください。どうか弱りきった心を守り、うなだれた霊を助け起こしてください。
わたしが居なくなったら、この世のユダヤ教キリスト教の正体とは「バビロン」のことであるという神の知恵を、いったい誰が受け継ぐのでしょうか。
ミイラ取りがミイラにならないように、「彼らの編んだくもの糸は着物にならず、彼らのかえした蝮の卵を食べる者は死に、つぶせば中から毒蛇が飛び出す」という預言の言葉を説き明かす使命を、誰が担うのでしょうか。
またそして、来る日も来る日も飢えと渇き、骨を凍らせるような寒さと、苦熱かきまぜるような暑さとに悶え苦しんでいる、より貧しくされた貧しき者、より乏しくされた乏しき者のための憐れみと慈しみは、誰が祈り求めるのでしょうか。
わたしの神よ、キリストを死者の中から復活させた憐れみ深き父なる神よ、
わたしが居なくなったら、かつて悪魔の炎によって焼き尽くされたわたしの同胞たちのための「憐れみの器」には、いったい誰がなるのでしょうか。
わたしが居なくなったら、「ソドムとゴモラの跡地」をさまよい歩き、草も木も焼き尽くされた焼け野原の底をかき分けるのは、誰の手がやるのでしょうか。
非対称な、あまりに非対称な威力によって踏みにじられた、ちっぽけな、あまりにちっぽけな霊魂たちのその破片――その破片を掴み出すためにこそ、恐ろしい破滅と崩壊の、可視と不可視の瓦礫を掘り起こす生存者たちの後ろ姿を、真っ黒にすす汚れた顔を、手のひらを、あなたは憐れみ、愛し、慈しむ神です。
わたしが敵の手に渡されて滅ぼされてしまったら、そんな後ろ姿をば、誰が、あなたの目の内に映し込んだりするでしょうか。
わたしが居なくなってしまったら、この時代のこの国の、「金、健康、時間、家族、友人」ばかりを追い求める者たちが、可視不可視の亡国の果てをかき分ける黒い顔をば、あなたに見せたりするでしょうか。
「金、健康、時間、家族、友人」ばかりに目を血走らせ、神であるところのイエスもキリストも父なる神も知ろうともしない者どもが、いよいよその嘲笑の舞と、冷笑の哲学をもって、あなたを冒涜しないで済むでしょうか――「神などいない、神など死んだ、人だ、この世界は人が支配するのだ」、と。
それでいいのでしょうか。
わたしが居なくなってしまったら、誰が警告を発し、警鐘を鳴らすでしょうか――「金、健康、時間、家族、友人」ばかりに心奪われて、神を知ろうとしない人間とは、とりもなおさず、「豚の群れ」である――バビロンからやって来るレギオン(悪霊)は、豚の群れの中にこそ乗り移る――そのようにして、その群れ全体は崖から海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまう ――と。
わたしが居なくなってしまったら、誰がその身をもって宣べ伝えることができるでしょうか――この時代のこの国にあって、イエスの名前は「憐れみ、憐れみ、憐れみ」であることを――この世のユダヤ教キリスト教の諸教会なんかではなく、今も昔も永遠に生きるキリストの霊だけが「人の罪を赦す」権限を持ったただひとりの存在であることを――それゆえにイエスはキリストであり、キリストはイエスであることを。
わたしが居なくなってしまったら、誰がその人生を用いて説き明かすのでしょうか――「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さない」というあなたの言葉の内に、「わたしは自分の憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を、慈しむ」というあなたの霊感(名前)の宿ることを。
わたしがこの時代のこの国に造られた、「バビロン」のために犠牲になったわたしの無二の友のように居なくなってしまったら、いったい誰が、「思い出さない」と言った神の言葉の内に、「けっして忘れるな」という神の思いが込められたということを――
わたしの神よ、わたしの神イエス・キリストよ、
「命をかけないところに命はない」というあなたの言葉に従って、わたしは命をかけてここに祈るものです。
「お前がやらなければ誰がやる」というあなたの言葉に聞き従って、わたしは命をかけてここに答えるものです。
わたしがやります、
わたしを遣わせてください、
それゆえに、
わたしを滅ぼそうとする敵の手から、わたしを助けてください。
わたしを滅ぼそうとする敵のたくらみから、わたしを憐れみ、救い出してください。
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