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蒼井優~「己」を見せない寵児~

 初めて蒼井優さんに打ちのめされたのは、2011年2月でした。

 彼女はその頃、野田秀樹作・演出のNODA・MAP『南へ』(東京芸術劇場)という芝居に出演しています。この文章の本題ではありませんが、『南へ』は東京芸術劇場にとって、そしておそらくNODA・MAPにとって、ある特別な意味を持たざるをえない作品でした。

『南へ』の上演は2011年2~3月。すなわち、公演期間中に東北地方太平洋沖地震が発生しています。東北地方のみならず、首都圏でも各種公演が軒並み上演中止になり、上演再開の舵を切ることに大変な勇気が必要だった時です。『南へ』の上演再開が決断されたのは比較的早く、劇場の芸術監督でもある野田秀樹氏は早々の上演再開に踏み切った意図について声明を発表しました。

 この決定が英断か軽率かを判断するすべを私は持ちません。安全性はじめ多方面への配慮はもちろんのこと、『南へ』が火山観測所を舞台にしている、すなわち作中で「地震」を常に意識し続けなければならず、溶岩を「波」に見立てて避け方を説明する台詞さえある(※上演再開後、上演台本等に変更があったかどうかは未確認)という、基本設定だけをとってもそこに相当の重みがあるのは間違いない。もちろんそれを日々体現する演者にとってもそれは容易ではないこと。そんなことを当時も考えたような気はしますが、自分自身、2月に一度観た『南へ』を地震直後のその時に再見しようという気持ちの余裕はなかったと思います。

 さて、その『南へ』で蒼井優さんは、嘘をつき続ける少女・あまねを演じています。脅威だったのは、彼女の芝居に「奮闘する蒼井優自身」の痕跡が見えないことでした。

 野田秀樹氏の芝居は、しばしばキャストが「目に見える熱演」を迫られがちです。氏の演出の独特なテンション、イントネーション、そして芝居の核心・最暗部に近づくほどに要求される饒舌さゆえに、出演者の姿にはぎりぎりで勝負している「一生懸命」さが滲み出る。すなわち、「熱演しているその役者自身」が否応なく表にあらわれます。宮沢りえさんにせよ藤原竜也さんにせよ松たか子さんにせよ、そこに役者としての魅力が痛いほどに込められる。

 しかし蒼井優さんの芝居には、そんな「己」の臨界点のようなものが見えません。もちろん熱演です。相当に難しい役です。数十年来、私たちが、世界が解決できないでいる深刻な困難の語り部となり、その犠牲として最も重く理不尽な絶望を引き受ける役です。けれども劇中で恐ろしいほどの痛切さを見せながら、役者としての彼女の限界値を探り当てることができない。まだ彼女は手札をいくらでも秘めているような、誤解のある言い方ですが余裕を感じました。これが役者としての底知れなさということかもしれません。上演再開以後の『南へ』をどうにか観ておけばよかったのかな、と今は少し思います。

 この時から、ファッション(というかスタイル)アイコンとしての彼女も、映像作品で「可愛さ」を見せる彼女も、「蒼井優」の手駒の一個一個ではあっても、彼女にとってそれぞれはどれもとりたてて優位なパートではないんじゃないかと考えるようになりました。つまり、どの演技の手駒も彼女のパーソナリティにさほど張り付いたものではない。その秀逸さゆえに時に揶揄の的にさえなるような、彼女の象徴的イメージともいえる“ナチュラル”的なアイコンとしての姿はしかし、彼女にとっては与えられた役柄に必要ならば取り出す、引き出しのひとつにすぎないのではないか。『南へ』劇中の彼女の表情は、“ナチュラル”や“可愛さ”を見せるような自意識から遠く離れて見えるし、またそれらを「あえて隠している」ようにも見えない。「嘘をつき続ける少女」は、フラットに手駒としての「役柄」でしかなく、しかも手の内はまだいくらでも持っているような恐ろしささえ秘めていました。

 その引き出しのひとつでしかない、“ナチュラル”さを帯びたアイコンとしてのイメージが時折、彼女のパーソナリティと混同されつつ無邪気な揶揄の対象になるのは、そうした引き出しが雑誌や広告など、「役柄」であるよりも「蒼井優」として登場する媒体で表現されるためかもしれません。しかし本来、雑誌も広告も、そこにいる「蒼井優」は明確に与えられた「役柄」として、つまり蒼井優によって演じられた「蒼井優」であるわけで、見せているのはあくまで彼女の引き出しのひとつです。彼女の持つ引き出しのそれぞれが秀逸すぎるために、その背後に演じている「己」がいるはず、という基本を、見る者にするりと忘却させてしまうのかもしれない。


 昨年暮れにシアタートラムで上演された『グッド・バイ』でもまた、蒼井優さんが演じたのは『南へ』とは違うスタイルで嘘をつき続ける女性でした。

 序盤、黙って俯いていた蒼井優さんがひとこと河内弁を発した瞬間に、一気に舞台を支配してしまう凄み。相応の訓練と試行錯誤に裏付けられていることはわかるけれど、それでもやはり彼女の役者としての底はまだ見えません。その役柄のあまりのアクの強ささえ、彼女の上手さをいやがうえにも示すものになっている。そしてストーリーの進行によって、その河内弁さえ重層的な「嘘」の一部であったと知るとき、その背後には蒼井優さんという役者の持つ手札としての「嘘」の秀逸さもまた重なる、と安易に言ってしまいたくなるような。

 まだ『南へ』がその形を成していない頃、野田秀樹氏は彼女に宛てた手紙ですでに、「嘘つきの女の話を書きたい」旨を記しています。彼女に用意された、「嘘は真実よりも手間暇がかかるだろ/手間暇かけて偽物を作って神様に奉げる。でもそのかかった手間にこそ、私たちの誠意や祈りが籠められている」という台詞は、『南へ』のテーマとも絡んで、彼女の口から発せられるということに幾重にも意味を読み込みたくなるし、その意味はどこまでいってもすっきりとはつかめない。

 嘘を託したくなる役者、とかそれらしい言葉でまとめてしまいたくもなります。でも、蒼井優さんの見えない「己」は、そんな簡単なまとめ方を許さない。嘘をついているその「己」の痕跡を、うまくつかませてもらえないのだから。

 だからこそ、幾度も彼女の芝居を観てみたくなるし、この先彼女が稀代の舞台女優になっていく姿を目撃できることも、まだ手をつけていない蒼井優出演の映像作品がたくさん存在することも、このうえなく嬉しいのです。

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