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アンビバレントさに留まることから――『乃木坂46のドラマトゥルギー 演じる身体/フィクション/静かな成熟』刊行

 新著『乃木坂46のドラマトゥルギー 演じる身体/フィクション/静かな成熟』(青弓社)を刊行しました。

 本書は、「演じる」をキーワードにしながら、アイドルというジャンルを生きる人々について、あるいはその職能の“理解されにくさ”について考えるものです。

 ここでいう「演じる」とは、しばしば芸能人に対してあてがわれがちな、「偽りの姿/真の姿」というような単純さで捉えられるものではありません。2010年代の女性アイドルシーンにあっては、オンとオフとが互いに侵食し合うようなメディア環境を駆使してきたことも相まって、パフォーマーとしての〈表〉の領域と、「プライベート」としての〈裏〉の領域とを峻別しうるような捉え方は、的を射たものではなくなっています。

 また、アイドルはいくつもの場所、いくつもの位相のアイコンを「演じ」続けることを職能としますが、そうした役割はひとつのスペシャリティとして世に理解されにくく、どこまでも非熟練的な存在として規定されがちです。アイドルが日々おこなっている「アイコンの上演」という実践をどのように捉え、職能として整理できるかが本書の大きな論点のひとつです。専門性、スペシャリティについての固定観念を相対化する企てとも言いうるでしょう。

 そのための媒介として乃木坂46の、舞台演劇への志向を中心にした活動を扱ってゆきます。

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 他方、「アイドル」がネガティブなイメージを負っているのは、ジャンル内にどうにも抜き難い問題点を抱えているためでもあります。2010年代のアイドルシーンは、実践者自身の絶えざるパーソナリティの上演が消費対象となり、そうしたパーソナリティの上演を駆動させるために、しばしば恣意的に当人たちの疲弊を促すような仕掛けを繰り返してきました。また、「恋愛禁止」という風潮に代表される(「恋愛」の規制そのもののいびつさと、異性愛規範を絶対視するような発想の再生産とが絡まり合った)抑圧性は、ときおり醜悪な破綻を招いています。あるいは、ふとした局面で当事者たちに無頓着に差し向けられるエイジズムは、社会全体が抱え込む旧弊の写し絵のようでもあります。

 アイドルシーンが持て余すこれらの難点に批判的な目を向け続けることも、本書の企図するところです。

 上述したような問題点を抱えていることもあって、女性アイドルという存在はそれらの抑圧的な環境に、受動的に隷属するだけの存在とみなされることも少なくありません。本書でも引用しましたが、「男性に操られる」のみの者たちとしての表象も繰り返されます。先に記したようなアイドルシーンの難点が、社会全体のジェンダー的な不均衡や差別性を映し出すものであるゆえに、そうしたイメージが投影されやすくもある。

 けれども、そこに生きる人々を、単に主体を剥奪された存在として解釈し位置づけてゆくならば、それはむしろ当人たちがこのフィールドのなかでおこなう文化実践の意義を等閑視し、彼女たちの“主体性”らしさをないがしろにしてしまうことにもなりかねない。だからこそ、彼女たちが「アイドル」という立場を背負いながら続けている営為の意味を考えたいのです。

 とはいえ、本書でもふれるように、自らのキャリアを模索するための能動的なふるまいが、シーンの抱える抑圧を温存することと共振してしまうケースもまた多分にあり、彼女たちの実践が仮に“主体的”といえるのだとしても(「見られる」職能の人々である以上、常に客体化される契機を帯びているため、100%の「主/客」で捉えることは適切ではないわけですが)、そのありようはきわめて複雑です。

 無頓着にこのジャンルへの、ないしは乃木坂46への賛美を謳うのではなく、しかしシーンが抱える問題性をもってジャンル総体への極端な否定をするのでもなく、それらを繋ぐアンビバレントな位置を引き受け、そのやっかいさに留まって考えることから、まずは始められないだろうか。それが本書のとろうとしている姿勢です。ただしまた、乃木坂46のいとなみのうちに、上記したこのジャンルの難点をいくばくか解消する契機を見出せるのではないか、とそこにはささやかに期待を込めて書いてもいます。

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 昨年のエントリでそのあたりに関連した話を書いた折――思えばこの時すでに本書のキーワードを記してもいましたが――、ある若年期の刹那に注目が集中しがちなこのジャンルの中で、人がごく自然に成熟していくことの魅力やライフスパンへの想像力を乃木坂46は体現しつつあるのではないか、と綴りました。

 明快で強力なコンセプトを作品に宿しているとか、具体性の強い主張やメッセージを発しているとかとは違って、「ごく自然な成熟」は固有の特性として取り出してみせるのが難しい。けれども、ある表現者の生のあり方の発露が、常に「強さ」や具体的な問題提起・メッセージとして現れるわけではなくて。少しずつ人生を歩んで成熟していること、その姿をナチュラルにみせていくこと。それがトータルの表現の中でみえることもまた主体性の発露でありうるし、闘争やファイティングポーズとは違う仕方で自分たちを示すことが自然な場合だってあるはずです。そうしたこともまた、ひとつのエンパワーメントのあり方たりえるのでは、という話をしました。

 本書全体を通して、それがいかなることなのかを具体的に示す試みをしています。

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『乃木坂46のドラマトゥルギー』は総体として、乃木坂46の舞台演劇への志向に重点を置いて構成されていますが、それはやがて「アイドル」のパフォーマンスがどのような実践なのかを読み解くこと、またアイドルの身体が「演じる」ことの意味を捉えるための問いへとつながっていきます。

 演劇ないしパフォーミングアートにおいて、何が演者の身体における優位点となるのかはそのつど大きく異なります。本書で最初に扱う演劇作品と最後に扱う作品とは、役者の身体の固有性の点で、ほとんど対極の性格をもっています。たとえばそうしたいくつもの位相を捉えることは、最初に書いたような「アイコンを演じる」というアイドルの職能を把握することへも接続されていくはずです。

 このジャンルを捉えるための言葉を少し精緻にする、本書がそのためのきっかけになればいいなと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

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