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世界の消滅 百年の孤独

2021年、2歳児は手洗いの遊びをする。
「てをあらいましょう みずだして せっけんつけて ごしごしごしごし ながして たおるで ぱんぱんぱん」

洗面台のおもちゃがあって(衝撃)、手洗いの遊びをする。

「おねーさんも こっちきて」
「てをあらいましょう みずだして せっけんつけて ごしごしごしごし ながして たおるで ぱんぱんぱん」

手洗いの遊びは続く。
「おとーさんも もういっかい」

彼女の親が私の友人で、新居に遊びに行ったときのこと。
「てをあらいましょう みずだして せっけんつけて ごしごしごしごし ながして たおるで ぱんぱんぱん」
「てをあらいましょう みずだして」
 
素晴らしい衛生教育。
未だかつて地球全土をしらみつぶしに探しても2歳児が率先して大人に手洗いを勧めることはなかっただろう。
エンドレスに続く手洗い。陽がかたむきはじめ、そろそろお暇した方がいいように思われた。

「おねーさん こんどはこっち」
きれいな音楽が流れるおもちゃやら、体を動かすゲームやら、2歳児はたくさんの遊び方を知っていて、珍しいおねーさんもいて脳内がヒートアップしていた。手を洗う! 音楽! 体操! 手を洗う! 音楽! 体操!
 
私は2歳児に興味津々でいつまででも遊んでいたかったが、家庭の邪魔をするわけにもいかない。
「そろそろお姉さん帰らないと」
ふっと荷物を取りに部屋を出て、彼女の眼の前から大人たちが消えた。

「ふあああああああああああ
ひぎやああああああああああ」
 
彼女は膝を折って天を仰ぎ、ボロボロと涙を流しこの世の終わりかのように泣いた。大人には出せない声量で嘆いた。叫んだ。時々「この瞬間、一生忘れないだろうな」と思うことがあるけど、私はあの世界の終わりのような2歳児の泣き方を忘れないと思う。

実際、世界は消滅した。大人たちが私と一緒に遊んでいる世界が、一瞬にして、私にはわからない何かによって消滅した。世界の消滅は悲しいことだった。あるものが消える、自分の思いと異なることが起こる、それは悲しい。
 
でも大人は、いつか全てが砂塵に帰すことを知っている。今この瞬間が存在するかどうかなんてわからなくて、遠い未来からするとないかもしれない。あるのは今自分に見えている世界だけ。それもいつかは消えてなくなる。
 
そうわかっているのに、何故頑張って生きているのか? 「いつかなくなるから」は頑張らない理由にならない。『百年の孤独』では同じことが繰り返し、消滅が予言された街でウルスラは頑張り続けた。もっとも、消滅の予言は彼女の知るところではなかったが。

ある京大生が死んだ。彼は凡人には信じられないほど生きる闘志を轟々と燃やし、がんと戦って死んだ。彼は死がわかっていた。緩和ケアを提案されるほどに。なのに、それでも、何故、頑張って生きたのか?
 
パートナーが久々に出社している。2人ともテレワークだと、常に互いは存在する。でも家を出た途端、私の世界からは消滅した。いくらかの確率で本当に消滅する。いつかは完全に消滅する。それでも、何故、一緒にいるのか。
 
今の一瞬しか確実に世界が存在していないとして、仕事で疲れてるのやりきれんな。やりがいのある仕事は疲労とお金を生む。明日はボーナス日。でもやりがいも疲労もお金も消える。

頑張る理由は「ウルスラが頑張ってたから」くらいしかないのかもしれない。そんなことを考えていたら今日という一日も消滅する。おやすみなさい。

≪終わり≫

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