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香港で銀行口座を作りたかった

2年前、訳あって香港に銀行口座を作ろうと思い立った。以来、二度の挑戦をしているが宿願はいまだ成就していない。その顛末をここに記したいと思う。

私は2011年3月から2018年3月までの7年間、中国で生活していた。最初の3年は大連という中国東北部の都市で、次の4年は魔都・上海で。

大連では、日本のブログサービスの通報窓口などの仕事をしていた。大連は中国であるにもかかわらず、そのような日本向けのカスタマーサポートを請け負っている企業がたくさんある。業務の一環として、数え切れない誹謗中傷やエロ・グロ画像を目にした。会社には良いところも悪いところもあったが、何よりも社内のコミュニケーションがほぼ日本語で完結してしまうのが不満だった。

↑大連のランドマーク、旧横浜正銀行

中国語を使う仕事に就きたかったので、翻訳の仕事を探したところ、上海に事務所を構える翻訳会社が拾ってくれた。翻訳の仕事は経験者優遇がほとんどであるところ、未経験で採用してもらえたのは僥倖であった。

上海は大連に比べて物価が高い。上海で最初に住んだ部屋の家賃は、大連で住んでいた部屋の家賃の1.5倍ほどだったが、それでも郊外なので安い方だ。しかもその部屋は浴室に換気扇がなかったし、ベランダではノラ猫に出産された。

とはいえ、給料もそれなりに上がったので、上海に引っ越して1年もすると金銭的にそこそこ余裕が生まれた。そして、はてどう運用したものかと考え始めた。当時、中国の銀行の定期預金の金利は4%ほどと、日本に比べるとはるかに良かったので、定期預金口座に突っ込んでおくのも選択肢の一つではあった。とはいえ、多少リスクをとってでも高利回りを狙っておきたいという気持ちがあったし、資産を中国元に集中させるのは危ないという思いもあった。

あれこれ考えをめぐらせていると、大連時代に受けた資産運用セミナーを思い出した。私が当時働いていた会社が、資産運用のコンサルティングを手掛けるW社の社長を招いて社員向けに開催してくれたセミナーだった。いわゆる「自分年金」を作ろう的な趣旨のセミナーで、毎年いくら積み立てて年利〇%で運用できれば〇年後にはいくらになってますよ、という試算とともに、その会社が代理店として取り扱っている積立型の米ドル建て投資信託商品を紹介していた。定期預金よりは想定利回りがよく、リスクも高くはないとあって、当時の私には適しているように思えた。

早速、そのセミナーを受けたときにもらったノベルティーのボールペンを文具入れの中から引っ張り出し、上海にあるという支店に連絡を取ると、Mという担当の方が対応してくれた。

投資初心者で底辺現地採用であった私は、何か騙されたり、強引な勧誘をされたりするのではないかという心配を半分くらいは抱いていたが、Mさんは想定されるリスクも含めて丁寧に商品の概要を説明してくれたので、私は納得してサインをした。

さて、ここで登場するのが香港である。投信とは関係ない話だが、Mさんは雑談の一環として、海外で資産運用を考えるなら香港で香港上海銀行(HSBC)の銀行口座を作るのがいいと教えてくれた。その理由は、何よりも口座内での両替が割安であることだ。為替リスクを抑えたり、為替差益を得たりするのに有利である。W社は口座開設の支援もしてくれるという。

世界の金融センター・香港で銀行口座を作る。甘美な響きだ。とはいえ、当時の私にはまた遠い世界の話のようにも思えた。何よりも、投信を積み立てながら香港の方でゴニョゴニョする余裕はなかったのである。

状況が変わるのはその翌年、2016年のことだ。とある個人的な事情でまとまったカネが(もちろん合法的に)手に入ったので、その一部を今度は一括拠出型の米ドル建て投資に充てることにしたのだ。そこで問題となるのが、満期を迎えたときにどうするかだ。投資が米ドル建てなので、帰って来るお金も当然米ドルだ。日本の外貨建て口座に預けておくのも一つの手だが、どうせならより効率的に運用できる手段を使いたい。

そこで、1年前には遠い世界のように思えたHSBCの口座開設ががぜん現実味を帯びて感じられた。私は早速、Mさんにコンタクトを取った。

通常、外国人が香港のHSBCで口座を開設する際には二つの障害がある。第一に、現地のエージェントを介さなければ銀行側で受け付けてくれないことだ。これより数年前であれば個人でも比較的自由に開設できたそうだが、年々対応が厳しくなっているらしい。

第二に、開設を希望する本人が英語・中国語・広東語のいずれかで銀行の担当者とコミュニケーションを取れなければならない。かつて、物見遊山で香港に行った観光客がもののついでにと口座を作って帰ってくるケースが多くあったが、口座は放置するわ、連絡を取ってもコミュニケーションが取れないわで担当者が困り果ててしまう事態が多発したため、このような制限ができたと私は聞いた。

幸い、第一の障害はW社が解決してくれるし、第二の障害も中国語で飯を食っている私には問題にならない。さらに幸運なことに、中国では10月初めに国慶節の大型連休があるのだが、この期間は香港では平常運転で銀行の窓口も開いているので、口座を作りに行くには時間的に実に都合がいい。必要な書類をそろえ、あとは10月の訪港を待つばかりとなった。

フライトを間近に控えた9月末、見知らぬ番号から電話がかかってきた。知らない人間からの電話はいつだって不穏な呼出音がする。出てみると、W社香港の担当者U氏だ。U氏は私に以下のような事実を告げた。

・HSBCの口座にはパーソナル(普通の口座)・アドバンス(ええ口座)・プレミア(めっちゃええ口座)の3ランクがある。
・通常、外国人が開設を申し込めるのはアドバンスだが、最低20万香港ドル(約280万円)入金していないと月に120香港ドル(約1700円)の口座維持費が発生する。
・ただし、アドバンスの口座を開設してから数か月後に、最低入金額が安いパーソナル口座にダウングレードすることができる。
・これまでは書面を郵送することでダウングレードを申請できたが、HSBCの突然の方針変更により、10月より本人が再訪しなければ申請できないことになった。

つまり、私は約280万円を常に香港の口座に預け入れておくか、数か月後に再訪するか、口座開設を断念するかの三択を迫られたのだ。金銭的にも時間的にもそこまでの余裕がなかった私は、泣く泣く口座開設を断念した。

マネーロンダリング対策だの、事情はよくわかる。しかし、なぜこのタイミングなのか。私は天を仰ぐほかなかった。

香港へのフライトはすでに手配していた。今さらキャンセルももったいないので、単なる旅行を楽しむことにした。W社香港に非はないのだが、お詫びにということで資産形成に役立つ海外生命保険セミナーを私一人のために開いてくれた。それはそれで有意義だったが、やはり無念さが残った。あと、上着を忘れたうえに空調がきつかったので、寒かったな、という記憶が残った。

次に挑戦を決意するのは、これからおよそ1年と半年後、2018年6月のことだ。私は上海の会社を辞め、フリーランスの翻訳者として活動を始めていた。フリーランスと横文字で言うとかっこいいが、無職を体よく言い換えたようなものだ。時間などいくらでも作れる。香港など何度でも往復してやるわ、ただしLCCでな。ついでに上着を持っていく準備もばっちりだ。

私は再びU氏にコンタクトを取った。U氏の返信は次のようなものだった。

・口座開設条件が以前より厳しくなっており、アドバンスの口座を開設してから2か月以内に20万香港ドル(約280万円)を預け入れなければならない。口座開設から3か月が立てば、最低入金額5000香港ドル(約7万円)のパーソナル口座にダウングレードできる。

すなわち、約280万円入金しなければ、いくら時間があっても口座開設ができなくなっているのだ。無職には時間はあるが金はない。こうして二度目の挑戦も断念に追い込まれた。

マネーロンダリング対策と脱税対策が世界的な流れとなっていることを考えると、今後も外国人の口座開設は厳しくなっていくのだろう。香港だけでなく中国も年々対応が厳しくなっていると聞く。

それに、中国化が急速に進んでいる香港がいつまで世界の金融センターとしての地位を保っていられるのかもわからない。もしかしたら、私があこがれているHSBCの口座は砂上の楼閣に過ぎないのかもしれない。しかし、砂の上に立っている物件も、住んでみれば意外と快適かもしれない。見渡す限りのサンド・ビューが楽しめることだろう。

次回、「血と汗と涙を流して280万円貯めたら500万円拠出しろと言われたでござるの巻」でお会いしましょう。


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