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わたがしのこと 天理教のこと

こんにちは! わたがしと言います。

私は自分のnoteをエッセイ置き場として活用しています。

天理教を信仰する私が、日々の感慨のまとまりや、これは面白いぞと思ったちょっぴり良い話などを書き留めて投稿しています。

天理教の信者の方、天理教に何らかの関心がある方、宗教を信仰している人間がどんなことを感じているのか興味がある方、なぜかクリックしてしまった方、どうぞどの記事でもおひとつ読んでみてください。

この記事は、わたがし個人のプロフィール帳です。それではどうぞ。

自己紹介

まず自己紹介をさせてください。

私は天理教の教会に生まれました。長男で教会の跡取りです。家は曾々祖父の代から信仰しています。流行りの言葉で言うならば、宗教5世と言えましょうか。

妻が一人だけいます(一人だけ)。娘も一人。

今でこそそれなりに楽しく信仰していますが、かつてはこの信仰活動中心の生活をするかどうかで迷った時がありました。

大学を卒業するとき、一度社会に出てみるか、すぐに信仰生活を始めるかの分岐点がありました。社会に出てどうしてもやりたいことがあったので、かなり迷いましたが、親や教内の方々にすぐに道(天理教)につくよう説得され、結局私はそれなりの後悔を残しつつ、信仰の世界に入りました。

詳しいいきさつは別の記事で触れていますので、興味あればどうぞ。↓
読み飛ばしてもらってもまじで全然大丈夫です。

信仰生活をはじめて10年ほど経ちました。年月を重ねる中で通った私なりの信仰経験から、少しずつですが、天理教の教えはすごいかもしれないぞ?という思いが大きくなってきました。

天理教の教えについてざっくりと

天理教の教えをあえて一言で言い表すならば、
「陽気ぐらしに至る人間の道のり」と言えましょう。
(いろんな切り口があると思いますが、話が進まないのでいったんこれで)

天理教には親神天理王命という神さまがいます。人間世界を創造した親なる神さまです。天理教はその神さまの「人間の陽気ぐらしをするのを見てともに楽しみたい」という思いつきによってこの世界が始まったと説きます。

「陽気ぐらし」は天理教でいうこの世での極楽世界とひとまず思ってください。神と人々が共に和す真の平和世界というイメージで構わないです。

その神さまが、「中山みき」さんという女性の口を通して伝えた教えが、今日、天理教という宗教になっています。実際に起きている事は中山みきさんが神憑りにあって、その言葉や行動、書き物が教えとなっているので、中山みきさんが天理教の教祖ということになります。信者は中山みきさんのことを、親しみを込め「おやさま」と呼びます。

そのおやさまが
「人間は神様の思惑によって創造されたんだよ、目的があるんだよ」
「人間の体は神さまが貸しているんだよ、心だけが自分のものだよ」
「人間はこうやって幸せになっていくんだよ」

といったことについて教えてくれたものの総体が、現在教えとなって受け継がれています。教えの体系的な解説はもっと分かりよいものがたくさんあるので、そこに譲ります。


この教えにあまり触れる機会のない方に向けて、私なりにこの教えがすごいと思うポイントを挙げると

・教えのオリジナリティ
・日常生活に取り入れられる要素が多い
・現代科学に耐えうる教理
・根本的に個人の癒しではなく世直しの教え

などがあります。あくまで個人的な感想の域ですが少し羅列します。

・教えのオリジナリティ
 今日、世界には多くの宗教・宗派がありますが、その多くはキリスト教、イスラーム、仏教などの巨大宗教とそれらにルーツを持つ宗派です。日本に限定すれば、寺院の多くは仏教系で創価学会もルーツは仏教にありますし、昨今話題の旧統一教会やエホバの証人は、キリスト教系です。オリジナリティということでは神道と呼ばれる信仰も日本独自ですね。

天理教はそれらの派生として生まれたわけでなく、おやさまが突如神っちゃってます。史実として人間中山みきさんは浄土宗の信仰が深かった事実がありますが、修行して悟りを開いた的な感じではないんですね。
天理教は「元の理」と呼ばれる独自の創世神話があります。これ見るだけでもかなり面白いです。内部で生まれ育ったので気づきませんでしたが、「元の理」の存在が天理教の独自性をかなり際立たせています。

・日常生活に取り入れられる要素が多い
 おやさまは、人間の姿をした「神さまの社(やしろ)」として50年間歩まれました。そこには人間の暮らしの上での手本が詰まっています。挙げればキリがないですが、例えば、

「菜の葉一枚でも、粗末にせぬように」
「すたりもの身につくで。いやしいのと違う」

『稿本天理教教祖伝逸話篇』-「112 一に愛想」-)

など、人間の身の周りにあるのは全て神さまからのお恵みだからと、物を大切にする心を説かれています。このようなことは明日から生活に取り入れられます。この教えは奥深いと同時に、その気になればすぐに実行できることが多いです。この点において、人々に開かれている間口は本来広いです。

・現代科学に耐えうる教理
 現段階での科学的事実と教義との矛盾の説明に心を砕くことは宗教の教えあるあるです。天理教にも一見すると確かに現代の科学や、経済合理性から外れるような気がする話が全くないわけではないですが、よくよく深掘りすると、長期的な視野や、前世-今世-来世を含めた視座に立つと、なるほど、確かにそうかもと思えることは個人的にはたくさんある印象です。

「人助けたら我が身助かる」
という言葉が天理教にはあります。一見するとそこに因果あんのかよ、と疑いたくもなりますが、もう少し教えを見ていくと、人間の誠の心をなによりも受け取って下さる神さまの介在によって、人助けに専心する中に、自分の心身が助かってゆくことは、ホントにあるなあと最近思うことが多いです。

また、現代科学の進歩によって、この教えって、自然科学的な現象で言うとこういうことだったのかーと、後追いで分かってくる事柄がいくつかあります。

この方のnoteとかそういう話の宝庫です。↓

天理教的には、「現代科学もまた親神様が人間の成長に応じて教えてきたこと」になるので、科学的手続きを踏んで観察される事実は教えから逸脱せず、むしろ、教えの正当性の証明になっていく、ということが言えます。

こんなこと言ったらいろんな人に怒られそうですが、このロジックはちょっとズルいぐらいに強いです。あらゆる思想対立を覆して和解させちゃう、そんなある意味で無敵の可能性を感じます。


・根本的に個人の癒しではなく世直しの教え

 これはある意味で最もすごい点かと思います。教えが個人の救済に留まらないということです。このことは、この教えが始まる時の最初の神さまの言葉から窺えます。

「我は元の神、実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」

『稿本 天理教教祖伝』 1頁

例えば、何か病気や困ったことが起きて、天理教を知り、教えによって助かる個人がいたとします。ここまでなら、その宗教の存在意義は助かった個人の内面から出ることはありません。人間全体の関心事には到底及ばず、それによって助かる人もいれば、そうでない人もいるということに留まります。数ある宗教の一宗派、ワン・オブ・ゼムに過ぎません。

しかし天理教の場合ここで救済が終わりません。個人の一時的な助かりは「手引き」という段階なのです。個人の救済の先にその者を神さまの手足として次の救済へと引き連れていくという段取りがあるのです。
神さまが陽気ぐらしの世界を建設する際に、その資材として「用木(ようぼく)」と呼ばれる人間を使うと説かれています。この「用木」が「手引き」によって前もって呼ばれた人間です。
すなわち、神さま自らが全ての救済の実務を請け負うのでなく、「用木」としての人間を使って、この世のすべての人間の心を順々に救済していくという構想があるのです。

おやさまによる書き物を見ると、その救済の段階がなんとなくわかります

たすけでもあしきなをするまでやない めづらしたすけをもているから
一寸はなし神の心のせきこみハ よふぼくよせるもよふばかりを

『おふでさき』第17号52,第3号128

とはいえ、世界から受ける認識は、未だワン・オブ・ゼムの一宗派です。私たちの「用木」としての力がまだまだ届いていないのです。せっかく呼ばれた用材も、勝手な心では用木としての機能を果たせません。

このように、教えの存在意義がそれを信じる個人の癒しのためにあるのでなく、人類の心の切り替え、人間世界の根本的な世直しにある教えであることは申し上げておきます。

中にいる私たちはまだまだですが、教えはどうやらすごい。他にも挙げればたくさんありますが、ひとまず四点取り上げてみました。


こんなことを感じる中で、天理教的な生き方の尺度、モノの考え方は、親神様の存在を信じる私たち信者だけでなく、親神様の存在を現段階で信じない人々にとっても、きっとプラスになる、たくさんの人間にとって価値のあるものだと思うようになりました。

だから、生身の信仰体験には至らずとも、その人が求めるならば、天理教の教えにアクセスできる窓口にならせてもらいたい。そんな気持ちで、時々noteとして投稿しています。

教えの凄さは何となく知ったけど、それを信じる自分は凡俗


といっても、この10年で、私の心の向きや人間性がガラッと変わるような劇的な経験は、、、おそらくありませんでした。
いや、繰り返しですが教えの凄さはいろいろな経験を通して教えてもらっています。でも、それを実際に身に行ってみてなんぼの世界。そこに至るのがなかなかに険しくもあるのです。

ですから、私の人間性はこの道を選ぶのにずいぶん苦心していた頃から、根本的な所では変わっていないと思います。未だに信仰に対して億劫になったり窮屈に感じたりする自分はいて、そんな自分を時になだめ、認めて生きています。この教えは確かにすごいと思いますが、それを思えば思うほど、それを信じているはずの自分が何もかも届いていないな、という隔たりを感じます。

だから、ぶれない信仰をお持ちの方からしたら、私のnoteは「何を今更」な話が多いことを断っておきます。あの頃の自分に対して、あの頃との断絶のないであろう自分が語り掛ける。こんなつもりで、基本的なことを、素朴な感情に乗せて記していきたいと思います。

このnoteで真に応援したいのは、あの頃の私であり、(これを言うことは少し勇気がいりますが)、天理教に限らずこの世界にいる宗教の信仰に関して苦しい思いを抱えている方、信仰集団に所属しながら自らの意思との折り合いがつかないでいる方、そんな方々を思い浮かべて、少しでも届いたらいいなと思っています。

今日のノイズが明日化ける可能性に賭ける

また、このnoteは学生時代の恩師との約束の実行でもあります。
私が信仰を決意する10年前、最後まで私の迷いを受け止めて、最終的な決断も見届けて下さった師(教外の方です)は、私に次のような言葉を残してくれました。

「つまらない日々でこそログを残すんだ。今書き留めなければ流れ出てしまうその時々の出来事とそこにいる自分自身を、その時に書き留めて残すんだ。今は取るに足らないものかもしれないが、そのログが時間を経て財産になることがある」

その後も、会うたびに「あの時伝えたことはちゃんと守っているかな?」と確認してくれます。
直近お会いした去年も同じことを言われ、どきっとしました。私のサボり癖を見透かされているようで。

一生のうちに一人でも師と仰げる人に出会えることのなんと幸せなことか。大学時代に培ったスキルは、私の実生活でそれほど役に立っている自信はありませんが、一人の師と会えたことで、まずまず元は取れたろうと勝手に思ってます。

そんなわけで、私のnoteは、天理教の信仰生活をしている私のログであり、そのほとんどは人生を進めるうえではノイズに過ぎないかもしれません。しかし、それがワンチャン(いつか行き詰った私を含め)誰かにとっての福音になるのだとしたら、こんなにワクワクした活動はなかなかありませんよね。

そんなわけで、noteをはじめて4年の契機に、プロフィール記事をリライトしました。かつて書いた初投稿兼プロフィールも置いておきます↓

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