牛丼2

コロナウィルスがもたらした社会不安の受け止め方についての信仰的提案

信仰度★★★★☆

新型コロナウィルスの感染拡大とそれに伴う社会不安をどのように受け止めたらいいのか、天理教の「ほこり」の教理に触れつつ、一つの信仰的な提案を述べた記事です。

1.コロナウィルスがもたらした社会不安

新型コロナウィルスの感染の世界的な拡大に関する話題が連日飛び交っていますね。1人の人間としては、一日も早い収束を願うばかりです。

私がつとめている教会でも、先日、3日間に渡って、感染拡大の収束、それに早く平穏な日々が戻るよう、祈願の「おつとめ」がつとめられました。

おぢば(天理教教会本部)でも、この3日の正午に「新型コロナウイルスの感染拡大の早期終息等」を願ってのお願いづとめがつとめられたとのことですね。↓

https://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/information/2020/03/01/32043/
(天理教公式HPより「お願いづとめのお知らせ」の項)

さて、このコロナウィルスの一件、感染拡大に伴って私たち人間社会の間に「社会不安」というものがいくつもいくつも出てきています。

海外渡航者に対する配慮にはじまり、豪華クルーズ船隔離の一件、大型イベント・行事の相次ぐ中止、はびこる自粛ムード、そして経済の停滞と株価の暴落。

さらには、マスクや紙製品に関する風説が巻き起こったことで買い占め騒ぎに発展し、いよいよ日本人の生活の足元にまで不安が広がっている現状です。

これらの社会不安が私たちを覆い尽くす背景に、現代の私たちがさまざまな媒体を通じて、情報を大量に仕入れることができる、そういう時代を生きているという点がひとつ大きいですね。

コロナウィルスに関する情報が連日入ってくる。ところがその情報には正しい情報もあれば、間違っている情報もあり、また真偽の定かでない情報もある。そしてそれを受けて発せられる誰かの注意喚起も、これまた果たして妥当なものか判別することが難しい。

このような形で、誤った情報に振り回されてしまったり、また正しい情報であっても受け止め方や解釈を取り違えてしまったり、そのうえそれが幾重の人の口を伝って不安を必要以上に煽るような形になってしまったり、といったことが起きています。

病理としてのコロナウィルスに直接的に脅かされること以上に、とにかく大量の情報によって私たちは日々神経を悩ませられ、生活にもどんどん影響が出てきていますね。まさに社会不安そのものです。

2.有事によって露出した人の心

このような現状があって、平穏な日常の中では隠れていた、人の心の奥底が垣間見えてきています。

顕著な例が、トイレットペーパー不足の騒ぎですね。

この件、「製造元が中国のため今後品薄になる」という誤った情報がSNSを通じて拡散した結果起こったとされていますが、本当にこのデマを信じて買い溜めた人はそれほど多くはないはずです。これだけ情報化が進み、インターネットの活用に慣れ親しんだ私たち現代人です。その多くが適切に情報を取捨選択し、結果として、すぐにこれが誤情報であることが知らされました。ところが、現に小売りの供給を上回る形で、うんち紙は品薄になってしまいました。

慎重に情報を集めると、どうやら、自分はデマだと気づいていたが、デマを信じて買い漁る他の人を想定して、それに先んじて必要以上に確保しておこうという心理が働いた方が多くいたようです。

しかし結果としてデマを信じる人と同じ行動を起こしているというのは、なんとも皮肉なものです。紙の高騰は市場原理ゆえにこの際仕方のない事ですが、それを転売して不当に利益を得る人まで出てきました。個人の行動としては誤りでなくとも、その結果を社会全体でみると不都合が生じる。このような例をまた一つ生み出してしまったのです。人間の本性が見え隠れする事態が連日次々に出てきています。

しかし、これを「有事になると人間の本性が見えるよねー」と一笑に付してはい終わりとするのはうすら寒いですよね。私はそういう態度は好まないです。信仰者の端くれとして、もう少し前向きな悟りになるよう思案をしていきたいと思います。

3.ほこりの心は普段の心の延長線上にある?

さて、この一件で垣間見えた「人を出し抜いて得をとろう」という心(雑)。そういった少し残念で愚かしい心、確かに有事だからこそ発露したのでしょうが、何もないところから突然そんな心が生まれたとは私は考えません。

持ってたんですよね、もともと、私たちは。

それは平時には隠し通せていた心かもしれない。ですが、やはりどこかで「人より賢く立ち回って人より得をしていこう」とか「誰かを出し抜いてやろう」という心を働かせて私たちは生きています。その毎日の積み重ねがあるから、その延長線上に悪い意味での「人間の本性」と揶揄されるものが出てきてしまうのだと思います。

生存戦略と言えばそれまでです。知恵を使って、益を得るのは何も悪くないし、神さまもダメとは言っていない。実際に指をくわえているだけで食えるほど、生きることは甘くはない。

しかしそれが度を超すところに問題が生じます。

天理教の神さまは人間の心の自由をお許しになりましたが、どこまでもそれは人間がお互いに助けあって仲良く暮らすために許された自由です。自由に使えるあまりに感謝をわすれて勝手が過ぎたり、さらには他の人間の心を傷つけたりする心づかいを「ほこり(埃)」と例えて、そのような心はなるべく使わないよう、使ったとしてもよく反省するよう戒められました。

「ほこり」の道は無数にありますが、ひとまず八つに分けて教えられています。すなわち をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまんの八つです。公式サイトにほこりの説明がありますのでよかったら見て下さい↓

https://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/oshie/hokori/
(天理教公式HPより「教えについて」の「ほこり」の項)

これらの心はどんな人間も知らず知らずの間に使ってしまうのですが、それもそのはずで、これらほこりの基となる心づかいは、生きていくうえで自然に芽生えたり、人間が生きていくうえで必要だったりするものです。

どういうことかというと、例えば運転中にお腹が減ってきた時、ふとすき家の看板が目に入るとねぎ玉牛丼を食べたくなるのは、自然な心ですね。それ自体が「ほしい」のほこりではありません。ところが、いざ入店して500円玉を握りしめてねぎ玉牛丼を注文する傍ら、隣のおっさんが880円のうな牛を食べているのを見て、それをくれと頼んだり、奪ったりするのは値を出さずに欲しがる心ということでほこりですし、誰もがそれはいけない心だと分かるものです。ですが、そのうな牛を奪おうとする心は、さっきお腹が減ってねぎ玉牛丼を食べたくなった心の延長線上にあるのです。

我が子が可愛いと思うのは自然で大切な心だけど、他人の子を傷つけてでも我が子を可愛がるのは行きすぎですよねという話で、犯した罪を憎むのは良いけれど、自分の好き嫌いの物差しだけで人を憎むのは行きすぎですよねという話です。

これらの心づかいは地続きなので、どこで線引けばいいか、どこからがほこりなのかは神さまのみぞ知る領域ですが、その判断基準をあえて挙げるとすれば、「自分の心づかいや行動で泣く人がいるか」「その利益は誰かの不幸の上に成り立っていないか」というところだと思います。

4.うんちまみれにならないために

さて、ひるがえって今回のトイレットペーパー騒動。
日ごろ述べている通り、目の前の現実は、私たちの心通りちょうどいいように現れてきます。生活用品が分け合えない状態は、私たち人間が日常的に取り分を上手に分配できていないことの現れではないでしょうか。
そうして日々私たちが積み重ねたほこりの心があるラインを越えて、それに対する神様の「残念」の思いから起こっている今回のことと見受けます。

だからと言って、ケツをうんちまみれにしてまで、トイレットペーパーを譲り合おうという提案をしているのではありません(それもまた良きですが)。

そうではなく、これからはそんな事態になる前に、お互いに、分け合う心を磨いておいた方がいい(そうすれば次の有事には困らなくて済むようにきっと神さまがうまいこと分配してくださる)ということです。天理教の考え方を申せば、人間に降りかかる災厄は、神さまの人間に対する残念の思いのあらわれであり、はやく自分たちが生み出された意味を得心して、陽気ぐらしに向かうようにという催促であります。ですから、こういうことを目の当たりにした以上は、立ち止まって今までの生き方を振り返る機会と捉え、各々が生き方の方向を修正することが、いわゆる「災厄」に対する前向きな受け止め方となります。

他人の行動や愚かしい社会事象を批評する一方で、真に顧みるべきは、日々の私たち自身なのではないでしょうか。

私もこれを機に思い当たるところをいろいろと反省して少しづつ行動に移し始めました。分かち合う心、案外にも日頃の気安さや忙しさから忘れがちです。偉そうなことが言えた者ではないのですが、くれぐれも、トイレットペーパーがないからといってすき家の紙ナプキンをごっそり持って帰ることのないように、お互い様やさしい心を持ち寄ってこの難局を乗り越えていきたいものですね。

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実は、今回のコロナウィルスの一件を受けて、今一度おふでさきを勉強して記事にしようと思った(今回の記事はその前半部分)のですが、ここで区切りがいいので、また別の記事にして近々公開しようと思います。

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