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命の終わりを見届ける

信仰度★★☆☆☆

命の終わりを見届けることは、望んでできることではありませんが、しかし、いざ直面するとなかなか示唆的な体験だなと感じ入るものです。


…うわ、ちょっと重めな話?ブラウザバックやな。

そう思った方は猛省が必要です。私はこれから靴の話をします。3分で読めます。タイトルで釣った形になっていたらごめん遊ばせですm(__)m

「スリッポン」という間抜けな響き、好き


最近靴を買いました。たいそうなものではなく、GUのスリッポンです。

今つとめている教会での生活は、とにかくあっちこっちに敷地内を動き回ります。靴を履いたり脱いだりが多いので、履いた瞬間に一歩目を踏み出せるスリッポンは重宝します。お陰で常勝です。(何に)

サンダルでもいいような気がするのですが、日課の神名流し(天理教のうたを歌いながら街を練り歩く)に繰り出す際にも使いたいため、かかとのあるスリッポンが用を為します。

先代のスリッポンはちょうど一年前に買いました。買うときに、まぁ1年持てば良いかなぁと思って買ったのを覚えています。
初めは、ちょっと敷地内うろつくのに使うくらいと思っていましたが、履いた瞬間に一歩目を踏み出せる感覚が病みつきになって、用事で出かけるときにもかなり使い倒しました。酷使です。

一年経ち、靴底がはがれてきて、水たまりの水をシャットアウトできなくなったため、お役ごめんです。当初の思わくからしたら望外ともいえる仕事ぶりでした。

そんなわけで、先代スリッポンは持ち主に気に入られ、使い倒され、文字通り身を擦り減らして役目を全うし、その命を終えたのです。


「物は大切に」の意味範囲

先代スリッポンを捨てながら、ふとおやさまのお言葉を思い出しました。

「物は大切にしなされや。生かして使いなされや。すべてが、神様からのお与えものやで。」『稿本天理教教祖伝逸話篇』「一三八 物は大切に」より

「物は大切に」 誰もがその通りだと思います。では、どうすることが大切に使うということなのか。「大切に」の意味範囲について感じたことを書きます。

「丁寧に扱う」
これは一つでしょう。丁寧にいたわって使うことは長持ちさせることにつながりますよね。使う側の丁寧さ次第で物の寿命は伸びも縮みもします。

「生かして使う」
これはおやさまのお言葉通りです。どんな物も作られた意図があり、用途があります。こういう話はよく刃物が例に挙げられますね。包丁は食材を切るためであって、人を傷付けるものではないというあれです。
進んでは、「その物の特性をよく把握し、役目を新たに与える」ということも当てはまるでしょう。上記の逸話篇のお言葉は、おやさまが反故になった罫紙を用いてこよりを作り、それで一升瓶を入れる網袋をお作りになった時にお述べになったものです。もう捨ててもいいような物に用途を見出して、新たな形で命をお与えになる。さすがは人間創造の母親役、おやさま。

「使い切る」
消耗品にしか当てはまらない話かもしれませんが、私はこれも付け加えたいです。どんなに良いものでも、一度使ってあとは戸棚にしまうだけでは、埃をかぶってしまいますね。靴もやはり履かれ続けてこそです。
さらにいえば、使えなくなるまで使うことも「大切に」になるのではないでしょうか。持ち主の側から言えば、その物の役目を、役目の中で全うさせてやるということです。

まだ使えるけど捨ててしまおう、これはよくあることで、そこで毎回心を痛めている余裕など、私たちにはないのかもしれません。どうやら私たち忙しいので。しかし、持ち主になった以上、出来ることならその物の命の終わりを見届けてやりたい、そう思うのも正直なところです。欲張りですが。


また靴の話になってしまいますが、以前私が遠方へ一年間の布教に出ることになった時、教会の会長さんから革靴をもらいました。恐縮して「ありがとうございます。大事に使わせていただきます。」と言って受け取ったところ、

「いやいや、大事に使うな。履きつぶしてこい。」
そう言って去っていかれました。なるほど、それもそうだと思って毎日それを履きました。結局、一年間の布教生活の中では履きつぶせなかったので、今の教会に戻ってからも時々履いていました。そしてある日、布教に出るために履いた際に、靴底の穴に気づきました。一年間で終わった気でいるなよと靴に言われた気がしました。

またしても脱線して余計な話を書いた気もしますが、「物を大切に」が意味するところは、今挙げただけでも、「丁寧に扱う」「生かして使う」「使い切る」などの要素がありますし、そこに一層信仰が加われば「感謝して使う」ことも出てくるでしょう。今回は触れていませんが。
「物を大切に」の一口で表わされる「物観(ものかん)」は、もしかしたら想像以上に奥深いものかもしれません。

「物を大切に」という奥深い教え、そのほんの一端を、捨てやる靴を通して教わりました。役目の中でその物の命を全うさせてやる、これは物を大切にするうえで究極的な心がけだなと、そんなことを思ったのでした。



追記

さて、天理教では、私たちの身体は神さまからの借り物だという教えがありますが、この場合この身体も「物を大切に」ということに含まれるんでしょうかねぇ。

身体を丁寧に使う、身体を用途に沿って活かして使う、そんなことを考えるうちに、この身体を貸してもらっている訳とか、それを使う私たちの役目は何だろうとか考えるきっかけが生まれて、お道の教えは全て一つに繋がっているんだなぁと感じられるから面白いですね。

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