見出し画像

【押川剛;50歳からのキャンパスライフ】10 人生は、ポイント制じゃねえんだぞ!

慌しくしているうちに、すっかり秋だな! 3日は香川県で講演を行い(このときの様子はまたのちほど)、翌4日は、ちょっと疲れていたが大学の学祭に顔を出した。サイクリング部も店を出していたので、片付けくらい手伝おうと思ったのだ。しかしテントを解体して本部まで運んで……、50のおっさんにはきつかったぜ。

このときに「なんだこのヤロウ」と思うことが起きた。テントや骨組みを本部に戻す際、俺たちは決められた時間よりも一分ほど早く行ってしまった。すると実行委員の人間が、「一分早いですよ!」とキレ気味に注意をしてきたのである。たくさんの部活やサークルが動いている以上、時間厳守であることは分かる。しかしたった一分早いくらいで、鬼の首とったみたいにガタガタ言う必要があるだろうか。

実行委員は、その後もチマチマしたことをキレながら指摘してきた。ルール云々というよりも、自分の思うとおりに動かないからキレているように見えた。「北朝鮮かこのヤロウ」と言ってやろうとしたのだが、側にいた同級生の「ことなかれ」な空気を察して我慢した。

とはいえ、同級生はあとからぶつぶつ文句を言っていた。だったら面と向かって言いたいことを言えばいいのに、と俺なんかは思うのだが、最近の若い子は本当に摩擦がきらいだ。あんまり溜め込みすぎると、いつかヘンな形で暴発するんじゃないだろうか……と、おっさんはちょっと心配になった。

大学に入って気づいたのだが、ここでは「笑い」や「やさしさ」より、「怒り」のコミュニケーションに触れることが圧倒的に多い。もちろん、理由のある怒りなら分かる。失礼なことをされた、傷ついたというなら、大いに怒ったほうがいい。若いうちなら、「喧嘩」ですむ話だ。でも俺が敏感に感じるのは、「自分の思うとおりにならない」ことへのピリピリした怒りなのだ。健全じゃない分、ものすごい狂気を感じる。

学生だけの話ではない。教授や講師にもそういうひとがけっこういる。わざとか?と思うくらい、意地悪な講義の進め方、課題の出し方をする奴。学生に向かって意味不明な敵意を向ける奴。俺も、出欠をとらない講義で間違えて学生カードを記録してしまったとき(ピロンと音が鳴るのだ)、教授から「出欠はとらないと言っただろう! そういうのを馬鹿って言うんだ!」と皆の前でののしられたもんな。俺もいい年だから黙っておいたが、18の俺なら間違いなく、休講になるまで暴れたおしたはずだ(笑)

ツイッターにも書いたが、世の中が便利になったおかげで、ひとのコミュニケーション能力は大幅に低下したと思う。面と向かって直で話をするとか、足を使って何かを得るとか、そういう機会が圧倒的に減っているのだから、当たり前である。

だからといって、皆が満たされてハッピーに生きているかというと、そうでもない。むしろ我慢がきかなくなり、少しでも思い通りにいかないことがあると堪えられないひとが増えている。オフィシャルな空間でもかまわずに、ピリピリとした怒りを向ける。いや~な空気を出す。自分より弱い立場の者に対して、「笑い」や「やさしさ」をあげようとしない。

その上で俺がすごく感じるのは、「ポイント制」で生きている若者が多いなあってことだ。何をするにも、「見返りがあるならやる」「ないならやらない」。自分を気持ちよくさせてくれること(褒められる、認められる、物や金をもらえる)がないものに対しては、いともアッサリ切り捨てていく。逆に、クソみたいな内容の理不尽な教授の授業でも、「単位がもらえるなら、黙って受ける」。よく言えば合理的な生き方なのかもしれないが、俺には、ひたすらポイント集めをしているように見えてしまう。

最近、「座間9遺体事件」の被告に関する記事が、たびたびネットに上がっている。2017年に、神奈川県座間市のアパートで、切断された9人の遺体が見つかった事件だ。さまざまなメディアが拘留中の被告を取材しているのだが、動機など事件の核心にせまる質問をすると、見返りに金品を要求されるという。

11月4日の読売新聞(朝刊)には、以下のように書かれている。

記者が動機や被害者への謝罪の意思を尋ねると、「おやつ入れてくださいよ。ツナ缶15個」として、拘置所を通じて被告に食べ物を差し入れることを回答の条件に持ち出した。被告は「そうでないと、モチベーションが上がらない」などと要求した。記者は応じなかった。

また別の一文では、

(被害者を)誘惑する手法について、被告は、「人の雰囲気や勘でいく。相手の喜びそうなことを読み、楽しそうと思わせること」と語った。また、自分を「成果主義者」として、「昔からゴールに向けて頑張ってきた。ナンパも勉強も」と述べた。

とある。この生き方こそ、まさに「ポイント制」の象徴ではないだろうか。

もちろん、学生たちがこんな凄惨な事件を起こすとは思わない。しかし、ポイント制の生き方と怒りのコミュニケーションが交われば、トラブルにあう確率は高くなる。そしてトラブルに巻き込まれたとき、せっせと貯めたポイントカードを見せたところで、誰も助けてはくれない。

ラグビーのW杯が、なぜあれほど盛り上がったか。日本が連勝したからだけでなく、「自己犠牲」の精神をまざまざと見せつけられたからだ。もちろん彼らも、勝利というポイントを取りにいっている。しかしそれはチームのため、W杯で言えば日本のためであり、そのために命をもいとわない犠牲を払っている。こんな「自己犠牲」の姿など、今ではめったにお目にかかれない。だから、我々は心を打たれ、ガチで応援し、勝敗に涙した。

今後はますます、そういうホンモノの感動が求められるようになる。自己犠牲に基づくハードワークの先に、真の勝利や問題解決がある。己の見返りだけを求める「ポイント制」な生き方は、今すぐやめたほうがいい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?