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あるテレビ番組を見ていて感じた違和感

写真は何年か前に行った海外のどこかの街でのスナップ。海外に行くと時差ぼけで大抵朝早く目が覚めてしまうのでジョギングに出かける。当てもなくとことこ走っていると日本であまり会わない風景に出会ったりするので立ち止まって写真を撮る。この目覚める前の見知らぬ街の空気がとても好きです。早く行きたいものです。と言うかこの飛行機の利用率が世界中で9割減とか本当に異常な数字です。

この数字の話なのですが今朝あるテレビ番組を見て違和感を感じました。
新型コロナの影響で全国に緊急事態宣言が出されそれが全国で解除された状態がナウなのですが、これから第2波・第3波が来てもなるべくこの緊急事態宣言のようなものは出さずに「経済を止めない」を前提にやっていく方向らしい。この四半期で経済を止めたダメージが25兆あってこのままだと年間100兆になるとか医療費は日本全体でも年間14兆なんだからここにお金を惜しみなくかけて経済を止めないことが大事なんだと語る経済の専門家が出演していました。
数字から言うとそうなるんだと思うのです。医療費を7倍にしてでも経済を止めない方が計算式としては妥当であると。

この3月に緊急事態宣言が出されるか出されないと言う時に日本人の頭の中にあったのは”経済的合理性”ではなくて「自分または家族、知り合いが死ぬかもしれないと言う恐怖」だったと思います。パニックに陥っていたと後の時代の人は言うかも知れません。2週間後はニューヨークやイタリア、スペインのようになると言われて信じて皆が強制力のない”自粛”で引き籠もったのは死への恐怖からだった。幸にしてそうはならなかった。でも毎日何人もの人が死んだのも事実です。毎年インフルエンザなどでそれ以上の人が死んでいるとかもそうなんでしょう。経済で人が死ぬのだという言説もあり事実それで自殺した人も確かにいる。でも街を普通に歩いていて感染して自分が死ぬかも知れないと言う恐怖はその数字を遥かに超えるものでした。
NY知事が支持されたのは数字を具体的に指し示した説得力であると同時に「死者の数は単なる数字ではない。その向こうに多くの一人一人の苦しみ悲しみがあるのだと言うことを忘れてはならない」と言う死んだ人一人一人に想いを馳せようとしたことではないかと思うのです。

決して「ある程度死んでいい。それも計算して経済とのバランスを取るのだ」とその経済の専門家が言っている訳ではないのだとわかっています。よく「オリンピックの経済効果は」だの「コロナの経済損失は」と莫大な数字が出ます。でもその計算式がどう言う根拠によるものかきちんと明示されているのを見たことがない。いや明示されているのかも知れないが僕たちにはどうせわからない計算式だから教えてもしょうがない、または僕たちも知ろうとしていないのでしょう。でもそこには人の「死」が数字に換算されて入っていることがままあるのではないか?第2次世界大戦の経済的ダメージ計算式には間違いなく入っているのでしょうが、その前に「太平洋戦争開戦すべきかどうか?」と言う決定の時に満洲・中国・大東亜共栄圏が構築できたときの経済的メリットとこのまま撤退した時の経済的損失の計算が行われたと思われるのです。そしてその時に兵隊になり戦地に行き死ぬ日本人の経済的価値はいくらと計算されていたのでしょうか?国はそのような時に国民の死はゼロ換算にしたのではないでしょうか?

僕らはコンテンツ屋なので本質的に「人の心を動かしてナンボ」の商売をしています。だから「自分や家族・知り合いが死ぬ恐怖」と言うこれ以上ない心が動かされる要素に想いが行きすぎているのかも知れません。
合理性とは科学であって冷徹に全てを数字で置き換えた上で次の行動を決定する。しかしそこには「死」のリスクも数字に置き換えていることを忘れてはならない。
ここ数ヶ月の世界中の行動規範のもとになっていたものは「死への恐怖」であったこと、そしてそれはやはり数字、死者数に置き換えることが人間にはできないようになっていることを覚えておかないとならないと思うのです。
「元の豊かさを取り戻す」または「より豊かに」を目標に経済活動を再開し世界を進めていくのか?それとも「一人でも死ぬ人(経済を原因とすることも含めて)を少なくする」ことを悩みながら経済活動の縮小はやむなしとするのか?
これはただのテクニックの問題ではなく、経済性の追求という高度資本主義を進めてきた人類への大きな問いなのではないか?とも思えるのです。

(と人類なんていう大きな締めになってしまいましたがSNSでは拡散せずに僕をフォローしてくれている奇特な方だけにお知らせがいくような“つぶやき”といったものにさせていただきます)

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