事の起こり

私は息子が障害を持っていることを知らなかった。
彼が壊れてしまうまで全く。

主治医にも支援センターの方にも[仕方のないことです。よくあるんですよ]とおっしゃっていただくが、もっと早く気付いていたらと思わない日はない。

息子は中学から私立の中高一貫校に通っていた。
家からはかなり遠く、片道一時間半。
それでも中学の頃は部活をしたり遊んだりとそれなりに楽しく暮らしていた。

高校になってからだ、だんだん雲行きがあやしくなってきたのは。

彼は中学の成績がまあまあ良かったため、特進クラスに入った。
高一の初めての三者面談の時、担任は言った。
「お前、このままだと国立なんて夢のまた夢、私立の難関高も難しいぞ」

今だから言えるが、その頃の彼の偏差値は私立の難関高には手が届く状態だった。国立でも京大阪大とかむちゃを言わなければどうにかなったと思う。
しかもだいたい高一だ。
これからどうなるかわかったもんじゃない。

それでも。

その頃の私は教師の言うことを真に受けた。
当然息子もだ。

我が家は夫が金融会社勤務で、息子が中二の頃から単身赴任で家にいなかった。
あの頃夫が家にいてくれたら。
夫は受験戦争を勝ち抜いてきた人なので、現実を見ることができただろう。

その日から息子は寝る間も惜しんで勉強するようになった。
文字通り[寝る間も惜しんで]

特進クラスの朝は早い。
八時には学校について早朝テストを受ける。

夜も遅い。
塾要らずが謳い文句のその高校は、六時間の授業が終わってからの補習授業が必修だった。
前述の通り一時間半の通学時間がある息子は家に帰りつくのが毎日22時だった。

入浴と食事をすませて、山のように出る課題を終わらせる。
それだけでも24時をまわるのに、彼はその上にその日の復習をしていた。

特性上、彼は人の話す言葉が頭に残らない。
メモをとり、文字を自分の目で読むことで理解することができる。

当然授業は教師が話し、黒板に要点を書くだけで進んでいく。
彼は、黒板の内容とともに教師が話す言葉の要点をノートに書き付けていた。
それを家に帰って読み直し、例題を解き直す。

ようするにほぼ授業の再現だ。

授業の進度が早くなるにつれ、寝る時間はどんどん遅くなった。

はじめのうちは成績が上がることの嬉しさで楽しくやっていた彼も、疲れがたまってどんどん不機嫌になった。

高二になる頃には、ほぼ寝ずに通学していたのだから、さもありなんという感じだ。

初めは黙認していた私も、さすがに睡眠時間が二時間になったあたりでやめるようにさとした。
その頃には、復習が終わらないと泣きわめいて暴れるようになっていたからだ。
「終わってない、成績が落ちる、先生に怒られる」
泣きながら半狂乱になる彼を抱きしめて、大丈夫だからと一緒に泣きながら繰り返すのがほぼ日課になっていた。

顔つきが変わり、どんどん痩せていく息子にどうしていいかわからず、私も眠れない日々が続いた。

そして

忘れもしない。彼が高二の11月1日。

次の日が模試のため学校が休みだった彼は、死に物狂いで勉強していた。

だが思ったように問題が解けず、例の言葉をわめきながら部屋の壁をなぐって穴をあけた。
それだけではなく、学校に行っていた娘の部屋のドアを殴り穴をあけたうえ、「楽ばっかりしやがってクソヤロウ!」と叫んだ。

私の頭のなかでプツリとなにかが切れた。

気付いたときには私は、彼の頬を叩き泣きながら「しっかりしなさい、ぱた!!(彼の名前(仮名)) りろ(娘の名前(仮名))は毎日あんたのことを心配してるんだよ!」と叫んでいた。

息子の仮名[ぱた]、娘の仮名[りろ]、続けるとパタリロ!
シリアスを崩していくスタイル。

運命の日はこうして始まったのである。続く。

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