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僕のアイデンティティが生きていればいい。

僕は、僕の写真が無断転載されてもあんまり気にならないと思う。

もちろん相手に対して思うことはあるんだろうし、お金に換わっているならそれなりの対応が必要だと思う。

でも「自分が撮った写真が他人のものとして扱われること」自体が気に障ることはたぶんない。

まあ幸か不幸か、現時点でそういう事は起きていない。

でも自分にそういうことが起きたらどう思うだろうとシミュレーションしてみても、「これからもそんな写真が撮れるといいですね(笑)」としか思わない。

他人の成果物をリソースにするということは、供給元に命を握られているのと同義だ。

して、僕はそういった人たちに「じゃあ撮ってみろよ(笑)」と嘲りと同情の混ざった視線を向けるのだ。


そして最近、僕はどうしてそう思うのか理解できた。

僕にとって写真は「僕のアイデンティティを形成する要素の一つ」でしかないのだ。

僕はよく#nowplayingをよくポストするのだが、これはSNSにおけるアイデンティティ形成のためのものだ。

わかりやすく言うと「こういう音楽好きだから同志集まれ〜〜〜」みたいなかんじ。

写真ポストもその類なのだ。

僕にとって写真は作品ではなく、僕が「美しき世界」をどのように見ているかとか、写真に起こす時どんな色が好きかとかそういった、僕のアイデンティティの一端なのだ。

それに同調してくれる人が見つかるといいと思ってSNSをやっている。

つまり、僕にとって写真そのものは「切り取らせていただいた美しき世界(≒他人が作った音楽)」でしかない。

そして、大切なのは「それ(シャッターを押した瞬間、その音楽)を選んだ自分」なのだ。

だから他人が我が物顔で僕の写真を濫用しようと、僕のアイデンティティは毀損されない。

僕は「これからもそんな写真が撮れるといいですね(笑)」とニヤニヤしているだけでいいのだ。


僕はこの世の色々を理解できたのが割りと遅めだったので、いまだにこうやって点と点が線で繋がる瞬間がちょくちょくある。

これもネットの海に投げ込む以上、誰かの思考の一助になるといいなと思う。

そして、これからも美しき世界を愛する同志が増えるといいなと思う。

ありがとうございました。

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