自己という存在も、ツールの一つでしかないという話

感情や思考がニューロンの活動によるものとすれば、それは結局他の臓器の働きと変わらないのではないか?
SF被れのトンデモ理論ですが、腹が空けばご飯を食べ、疲れたら眠るように、ある特定の条件下では人は同じ結果に基づいた思考及び行動をするのではないか?という話。
伊藤計劃の『虐殺器官』でもテーマとして取り上げられています。

先日、ユニバーサルスタジオジャパンの特集が、ガイアの夜明けでやっていたのですが、大きなハプニングが無い限り、来場者数は上下5%以内で推測出来るとのことです。
もちろんそのカラクリは解説されていませんでしたが、USJが特別持っているものでは無いと思います。
それは大企業だけでなく、もっと言えば個人でも出来ることだと思っています。

思考傾向や行動理念が遺伝子によるものであれば、国や種族で大きく変わると思います。
それこそ猫と犬ぐらいに違うのではないでしょうか。
しかしどの国でも人は神を信じ、政治家は叩かれ、会社の上司はクソで、酒やタバコを嗜みます。
何故そうなるかと言えば、共通のシステムに則っているからです。

そのシステムの根っこに位置しているのが、ヒトの脳なのではないか?という仮説。


ちょっとおかしな文章が並んでしまったので別な話を。
人が心地良さを感じるのは「共感」意識が強く働いた時です。
共感とはどういう状態かを言えば「あたかも自分自身がその対象になっているかのような錯覚」です。
プロ野球の応援、アイドルやバンドのライブ、ゲームや小説、エンターテイメントのほとんどはこれらに当てはまります。
共感出来るのは、それだけミラーニューロンが強く働くという意味です。
興味のない娯楽というのは、想像が出来ないだけです。
宇宙旅行をしたい!と本気で思う人が少ないのは、お金とか技術よりもまず、想像力がそこまで働かない、未知の世界だから。

つまり多くの人から共感を得たいのなら、大多数が共感出来るようなシステムを作り上げること、あるいはシステムを利用してその入り口を広く設けること、だったりします。
「私、すごいでしょ/可愛いでしょ/頑張ってるでしょ/可哀想でしょ」なんて言っても誰も注目しないのは何故か?
それは「見ず知らずのアンタなんかより私の方がスゴい/可愛い/頑張ってる/可哀想」だからです。
自己高揚バイアスのようなものですね。

なので共感を得る、注目を得るためには、自己という存在を限りなく無くしていくことが大切です。

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最近ピアノを弾いていて感じるのですが、同じ曲の練習を何百回何千回と重ねていくと、自分が弾いているのかどうか分からなくなります。
「気付いたら曲が終わってた」
そんなことがよく起こるようになります。
あるいは、まるで自分の意識だけが観客席に座っているような感覚、
弾いているはずなのに聴いているような感覚になることもあります。
「理想の演奏が録音されたCDを流している」イメージです。
つまり弾いている自分というのが、意識から乖離してしまうのです。

単なる自惚れに聞こえてしまうかもしれませんが、これは実際に体験してもらわないとわからないことかもしれません。

逆に意識が残ったまんまだと、演奏としては堅いというか、垢抜けない曲になります。
音大生の演奏によくあるパターンです。
この場合は聴いている側が「ミスもなかったけど印象にも残らなかったので気付いたら終わってた」となってしまいます。


どんな分野であれ、人から注目を集めるには「キャラクター」を創る必要があります。
それはアイドル、マンガ、会社の社長、政治家、芸能人何でも一緒です。
他分野に渡って共有できる要素が多い人こそ、それに比例した注目を集めることが出来ます。
天才や実力だけでは注目を集めることは出来ません。
あくまで実力というのはツールの一つ。
フェイスブックやツイッター、日本語やプログラムと言った言語などと同じなのです。

日本語を普通に話せても、当たり前ですが日本では誰も注目しません。
みんな話せるから。
かと言ってスペイン語を上手く話せても、やっぱり注目されません。
何故ならスペイン語を話せてもメリットが無いから。

目標のターゲット層や大多数の人が、自分自身に何を求めているのか?

これを追求するのが注目の原理であり、結果にも繋がります。

ありのままの自分が注目されるのは、せいぜい犯罪ぐらいでしょう。

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