自意識地獄

小さい頃から、自分の顔が嫌いで仕方なかった。神様が私の顔にだけ意地悪をして、他の人と全然違う変な顔を与えたんだ、と思っていた。

小学生の時、なんで私だけ人と顔が違うの?と母に質問してみんな違うのよと言われた時は、もうそういうレベルじゃなく違うの…みんながいわさきちひろの水彩画だとしたら私だけピカソの泣く女くらい悪い目立ち方しちゃってんの…と思って、もやもやしていた。

クラスでキラキラ輝いている子はみんな、なんとなく愛しやすい顔をしている気がして、私が人生を頑張れないのは顔のせいだと思い込み顔さえ違えばもっと楽しいと思う日々。本当は同じ顔なんてなくて、顔は人生の一要素だと今は気づいているけれど。

そんなもやもやは中学2年生の春に爆発しました。顔変えないと、整形しないと私は外に出ない、と泣き喚いて母を死ぬほどに困らせたのだ。母にもう少し我慢してみて高校生になってそれでも嫌なら顔を変えよう、と言われてなんとか外に出たもののみんながブスだと私を馬鹿にしてる、ブスだから心の中が読まれてる…と意味のわからない論理を展開し、ブスが自分のことブスだと思って卑屈になってると周りがわかってるんだと思ってその場にへたりこんでしまう日すらあった。

顔やカワイイにとらわれた私のことを変えたのは、中学生の時に初めて付き合った男の人だった。10も上の人で、今考えてみれば幼さを、若さを搾取されたな、と思うことばかりだけど、私が笑えば可愛いと言い、私が泣けば泣いた顔も可愛いと言い、何をしても可愛いと赤の人に言われたのは初めてだった。生まれて初めて身内以外から貰えるカワイイは本当に脳髄を刺激してるんじゃないかと思うくらい強烈だった。私はどんどんかわいいの沼にハマっていった。(今思えば、かわいいは私の顔に向けられていたのではなかったけど…)

それからはもうすさまじく、学校から帰宅したら制服を脱いで、机に化粧品を広げて自分の顔とにらめっこする毎日。
そんな毎日の中で気づいたのは、お化粧した顔で外に出ればかわいいと言われて過ごせるということだった。調子乗りは初めて付き合った人と別れた後にアクセル踏んで加速した。大好きな人にひどい振られ方をした後は、やたらめったらに外に出て、褒められないと落ち着かないという状態だった。
まあ、人は欲深いもんで、そうなったらまた元の思考、少しでもうまくいないことがあるとあの子が私より幸せそうなのは私より顔がいいからだ、なんとなく毎日が辛いのはこの狭い中で、一番顔がかわいいわけじゃないからだ、としか考えられなくなる。

高校は、大好きな人に会いたすぎて今受験勉強なんてしてる場合じゃない、と思って本来の志望校よりだいぶ偏差値の低いところしか受けず、ぬるっと合格して3年間通いました。
通っていた高校は私服で通える高校で、それを理由に受験した高校生活かわいく楽しみたい!人が多く、そりゃあ当たり前に私よりも毒のない、ただただ純粋にかわいい女の子たちばかりの入学式は愕然とした。私なんかよりかわいい人がたくさんいる、なんなら豚だ私はこの中では養豚場の豚だ。飼われて食べられる側だ…と絶望した。
けれどそれなりに可愛いと言われはじめていたため、もういい!私のこと可愛いと思う層だっているはず、好きなことするんだと気を大きくして、高校デビューよろしく憧れのピアスをあけてエクステつけて(謎のピンクのメッシュ入り)、本当は大好きだったパンク服を着て学校に通いました。
そうすると、かわいいだなんだとは関係なく、クラスにヤベェのいるぞ!の意味でなんとなく人に囲まれ、自分でいるだけで認められるという快感を知ることになった。
かわいい敵がたくさんいる中で、私が勝てることは私でいることなのだと思ってしまった。

まあ、その自意識に後の人生において、もう死んでしまうと思うほど振り回されるんだけども。
けれどもこの気づきみたいのは、私の1個の強い守りたい部分になっている。ひん曲がった気持ちのまま、自分を大事に大事に守ってきた。大事に守っている自分が人の求める自分に引っ張られそうになることもあった。
それでもなにより私の守る大事なものを同じく大事にしてくれる人に出会えたのは、自分自身にきちんと執着してきたからかもしれない。

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@taberutonemui

#こじらせ #エッセイ

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