他人の粘膜に触れたら、他人のことを理解できるのかどうか問題

大好きな漫画に、ねむようこ先生の午前3時のシリーズがあります。デザイン会社の働く人々の話。特に、シリーズ第二弾の午前三時の危険地帯にでてくるあきほちゃんの言葉は、本当にそうなのだ。

読んでほしいから詳しいあらすじは書かないでおく。

主人公たまこの友達のあきほちゃんが自分の彼氏がたまこと惹かれあってることを詰めるシーン

男だから、女だからなんて、不確定で普遍的でないことは言いたくないけれど。女として自分の体の中に男を迎え入れた瞬間から、自分こそが相手の絶対的な理解者だと勘違いする瞬間はある。(わたしにとって、粘膜とはビビるほど弱くて、体の中で一番ウィルスに侵されやすいところで、そんなところお互いに知り合うなんて…と思い込んでいるからかもしれない。)
自分にとって一番弱い部分に、他人の一番弱い部分が入ってくるというのは、アドレナリンが出るような感覚を覚える。
その一方で、思いがけないセックスの後、馴れ馴れしい態度を取られて人の粘膜の中に入ったからって知った顔すんなよ、粘膜って心じゃねーから、お前のことなんて考えてねーからなんてひねくれたりすることもある。

なんでそう思うのかの理由はよく分からないけど、コロコロ寝たあとの気持ちが変わる度に結局は粘膜の問題?粘膜がこの人はやめときなよって言ってる??と思っていた。

だがしかし、結局このシーンでなによりもぐっと思わされるのことは、どんなに粘膜なんて当てにならないいうことだ。
あきほちゃんは何度も重ねて確認して、この人にとって私が一番で、この人のことを一番知っているのは私だと思っていた。のにもかかわらず、あんまりにもあっさりと一瞬にして、離れられてしまうのだ。

読む度にじゃあ私が粘膜でしてるコミュニケーションってなんなの?!セックスだけども!セックスだけども!と絶叫したくなる。
それでも粘膜のコミュニケーションで得られる気持ちは何物にも変え難いなんて悲しすぎる、と思っていた。
けれども、最近気づいたら。きっと私は粘膜を通して相手を値踏みしてるんじゃなくて、自分の気持ちを値踏みしてる。本当か本当じゃないか、愛か愛じゃないか、相手のことなんかおかまいなしで、自分の粘膜から気持ちを汲み取ってるんじゃないか。

他人の粘膜で他人はわからない、わかるのは自分のことだけだ。

#エッセイ #マンガ

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