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毒ガス検知器

@-:文字数:2920字

         聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、
        戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
                    テモテへの手紙 Ⅱ 3:16

 私が小学校の下学年生だった頃、父がメジロを飼っていたことがある。そのメジロは飼っているうちによく馴れるようになっていた
 夏のある日、いつものように学校から帰ってかごを覗いてみるがメジロがいない。ショックで大騒ぎとなる。あわてて駆けつける母。奥から顔を覗かせる他の兄弟たち。仕事から帰って驚く父。
 家庭中に寂しさがみなぎる。8人で囲む食卓にしてはしんとしている。いろいろと原因を推測してみても誰にも思い当たることがない。静かな夕食は気が重い。足取りが重い食事という表現でも創作したいほどだ。
 そんな静かな夕食の場に聞こえてくる甲高い耳慣れた声。うつむきかげんな顔が思わず上を向く。食事の手が休まる。席を立つ。黒山の人だかり(と言っても8人だが)となる2つの鳥かご。その中にはその日の朝みなが確認した時と同じように、何事もなかったかのように行ったり来たりする2羽のメジロがいる。
 狐につままれたように頭の中を飛び回るクウェスチョンマーク。
 その原因が分かるのには数日を要する。数日経って、同じような事件が持ち上がるのだ。そしてその事件の瞬間が目撃される。誰が目撃したのかは覚えていない。目撃者の言うことは家族から容易には賛同を得られない。信じられないことだからだ。目撃者が自分の過失の言い訳として話していると疑われる危険があるほどだったからだ。
 メジロが自分のくちばしでかごを開けて出て行った、と目撃者は言う。7人のそんな馬鹿なという不審に満ちた顔に取り囲まれる目撃者。確信をもって信じてもらおうと必死で話す。
 しかし、目撃証言の力は強い。だれが信じなくても、確信は少しも揺るぐことはない。時間が経てば同じような目撃証言が我が家を支配する。その瞬間を見るのにはそんなに多くの時間を要しない。そして、この信じられないような体験は8人すべてが共有するところとなった。
 2羽のメジロは裏山で夜遊びをしてストレスを発散して帰ってくる。かごの入り口につまようじか何かをつっかい棒代わりに立てておく。山から帰ってきたメジロは、かごに入ってからつっかい棒をつついて倒す。つっかい棒などなくても構わないのだ。飼い主の親切というものだ。そんなことでメジロと心が通うような気がしてくる。
こんな経験から、その後の私たちはよく小鳥を飼った。カナリヤ、ジュウシマツ、セキセイインコなどだ。

私が高校生の夏休みに、少し弱ったフクロウが山から庭に舞い降りてきたことがある。兄と2人で急ごしらえの小屋を作って飼うことにした。肉食ということで大事な鯨の肉のおすそ分けをする。鋭いくちばしでくらいつく。そのどう猛さにたじろぐ。そのフクロウはしばらくして死んでしまった。生物部員だった私は友人と話し合い、剝製にすることとなる。卒業してから一度だけその剥製を観に行った。生物室の中に飾られているのを見てほっとする。腐らないようにした手順がうまくいった満足感からくるものだ。

 1995年3月21日だったか、22日だったか正確には覚えていない。テレビの中で日本中の人々に注目された小鳥がいる。カナリヤだ。歌が上手だったわけではない。警察によるオウム真理教の家宅捜索の場面だ。地下鉄サリン事件が起こっていた。家宅捜索の場面には必ず警察に同行していたのがカナリヤだ。少しも楽しそうな様子ではなかった。
 この科学の進歩著しい現代において、もっとも信頼がおける毒ガス検知器がカナリヤと知った時のテレビの前の人たちは思わず失笑をする。家宅捜索の先頭を切って入っていくのはこのカナリヤだということがどことなく滑稽だ。事件そのものがマンガの世界から抜け出してきたようなのだったから、余計にその感じが強かったのだ。

 私の同僚がある時、水道施設の見学に行った時のことを話してくれた。事務所風の部屋に通されて、いろいろと質問をする。私などはそんなに質問することがあるのかな、と思うのだが彼女は真面目に多くの質問をしたのだろう。
 ふと見上げた場所に、金魚を入れた一つの水槽が目に入る。ゆったりと優雅に泳ぐ金魚。目をキョロキョロさせて愛らしい。口をパクパクしながら何事かを語ろうとしている、ようにも見える。
 「この金魚は上水道の源流が汚染されていないかどうかを知るために飼っているんですよ」
 水道局の職員がこともなげに話す。彼らの愛玩用に飼っているわけではないというのだ。
 「もし源流が汚染されていたら、この金魚が腹を浮かして知らせてくれるというわけです」
 水道局の毒物検知器は金魚だということになる。24時間体制の勤務をしてくれる。私はなにか検知器のような物があって毒物があると警報でもなるのかと思っていた。多分そのような機器もあるのだろうがもっとも正確で信頼性のある最終的な検知器としての機能をもっているのが金魚であるということに、近代科学への皮肉があるように思える。

 人間は口から入るものに対しては、徹底的に神経質だ。口から入るものに対する疑念を払拭するために、昔からいろいろな工夫をしてきた。日本では殿様が食べるものに毒が盛られていないかどうかを調べる御毒味係なるものが存在した。その係りに異常がないのを確認してから殿様が食事を始めるシステムだ。
 しかし本当に大切な問題にはなかなか神経質にはなれないものだ。私たちの生き方を決定するほどの重要な問題にもかかわらずだ。毒ガスに汚染されてしまっても、当の本人は気が付かない。周りの人が気が付いて伝えてくれても、本人はそれが当たり前になっているので耳を貸そうとはしない、などということになる。
 心の毒ガス検知器は何かを、私たち現代人は深く考えなくてはならないのだろう。私はそれは ”祈り” だと思っている。
 朝起きて祈る。紙から心が離れている時には、祈る言葉が出てこない。私はそんな時には用件だけを神に祈りとして捧げる。すると案外気楽に祈りの言葉を出すことが出来る。その積み重ねによって、少しずついろいろなことを神に祈ることが出来るようになってくる。そして気が付いてみると、祈ることが苦痛ではなくなってくるから不思議なものだ。
 そのうちに、聖書を読むことも苦痛ではなくなってくる。前の日までは読んでも読んでも何のことか分からなかった聖書の言葉が、実は自分の心の問題を指摘してくれていることに気が付く。聖書はその意味でも私たちの心の毒ガス検知器として大きな役割を担ってくれる。
 テモテの手紙Ⅱの3章16節は、私が教師になるに当たっての私の座右の銘とも言える箇所だ。私は生徒を正しく導くだけの能力を持ち合わせてはいない。しかし、この聖書の箇所は生徒を導く規範がどこにあるのかを教えてくれる。どうしていいか分からない時に、私は解決のヒントを聖書から探る。そして、祈る。祈ったら具体的で明確な解決方法がそっと与えられるものだとは言わない。



 


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