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#1-6 寂しさの構造。

「一人で旅してて寂しい時とかないんですか?」

とよく聞かれる事がある。

一人で移動して、ご飯を食べ飲み、泊まる事が多いのは確か。

美味しいものに出会った時、素晴らしいい景色や瞬間に出会った時、確かに「もし今隣に誰かいたら共有できるな〜」と考える事ももちろんある。

が、究極の選択として、”一人旅と二人旅のどっちえを選ぶ?」と問われれば僕はノータイムで「一人旅」を選択する。一人だからこその気まぐれに動ける決定の速さ、それによって生まれるリズムが何より好みだからだ。もし二人ならそれは毎度相手の承認を得る作業が加わる。

先日、インスグラムのストーリー投票機能で「一人旅と二人旅、するならどっち?」という投稿をしたら意外と8:2くらいの割合で”ひとり旅”が多かった。

「繋がり」が多様化し前提になっている現代人の根源的渇きは僕たちが思うよりずっと「一人・孤独」に回帰しているのかもしれない。

その瞬間、その人と、その場所で生まれる自分中の衝動は極めて個人的なものだし、旅する期間が長いなら尚更そこには従順でありたいと思う。

ところで、なぜ人は"寂しい"と感じるのだろう?

幼少の環境やその個人の集団への意識によっても差はあるだろう。

寂しさを抱え取り込んで消化出来てる人間というのは何故か少し話すとすぐにわかる。どこか何かを悟っているというか諦めの境地が及ぼす「余裕」を感じる。

逆に、寂しさから逃げ、無理やり他者との予定などを入れ込んで予定の空白を嫌ってきた人間はどこか忙しい気配がある。予定を埋めることが目的となっている。

僕は”二人で感じる寂しさ”の方がよほど辛い事を自覚しているつもりだ。

二人でいるという前提が寂しさを残酷に浮き彫りにする。

そして何より一緒にいて楽しいのはやっぱり”一人上手”な人たちだよな〜と心から思いながら、夕暮れの高速を御殿場から静岡市内へと走らせている。

4/4更新 #1 -7 「写真家 天野裕氏のこと。」につづく。



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