#1-4 "迷惑"の幸福論

https://www.danro.bar/article/12137427

このテキスト。とても今の気分にフィットしました。

特に。

「フィジー人は『つながり』が非常に強い人たちだと感じています。つながりを強化しているのは、フィジー人の『依存力』(甘え上手)なのかもしれません」

の部分。

全国各地で居候の機会の多い自分のマインドに近い。

最初に断っておくが決して甘えを肯定したい訳ではない。
金銭概念を超えた「恩義とお返し」を考えながら生きていく方が人と人のフィジカルな繋がりが失われつつある現代にはよりマッチするのではないか!と思えるだけである。

近代社会(特に都市部)は、それらのある種の”まどろっこしさ”をお金で解決してきた。
その結果、繋がりは希薄になってもいたのだ。

ある社会学者によると「昭和の時代は人と人の繋がりは濃いかった」という。その分、人を殺した数も多かった時代。性愛も深かったが憎しみも同様に濃いかった時代。

デジタル発展により人との距離は格段に薄れていったが同時に「繋がっている感」も人々は求め始めた。
時代どれだけ変わっても人類の原始的な「渇きと潤い」は互いに搔き消しあいながら存在しつづける。

僕たちはかつて親に「人に迷惑かけたらいけません!」と育てられてきた。
しかし、繋がりが希薄となりつつある近代社会のなかで人にアクセス出来る有効的かつ必然的な一つの手段として「ご迷惑」をもう一度ポジティヴに今一度捉え直してみても良いのでは?そしてお互い様が自然と響きあう社会をもう少し取り戻しても良い。もちろん全ては”信用”が前置きされるのは言うまでもない。
全国を旅する中で、お金に代替されていく繋がり(信用)はお金を超える価値があると改めて実感している。
部屋余り、家余りの昨今。
これまでにない働き方・地域再生を考えていく上で、人に会う必然を良い意味の「甘え・依存」と言う形で作っていく事を「迷惑」の一言で片付けてしまうのは少し勿体ない気がしている。

「それ。放浪や居候を肯定したいだけじゃろ?」

って声が聞こえてきそうだけど、そんな旅を続けてて、なんか肩身の狭さとか居心地の悪さがあるかといえば実はそうでもなく、むしろお返しを考える時間が増えた。
それは家賃という前提があるが故、売り上げを気にしていたお店経営時代に比べたらとても精神的豊かな時間だなとも感じる。

そんな風に最近は思います。

3/21更新予定  #1-5 「離れたくない場所(町)の特徴」につづく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?