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抱擁

「あったかいね」

彼女が声を漏らす。彼らが抱き合い始めてから、もう三度目の言葉。

十分前、物心ついてから今までを語らっているうちに彼が、一度ずつ告ったことあったっけな、と思い出した。その時はまだ、遊びみたいなもんだったけども。

そうしたら彼女が、本当に付き合ってみない、と恥ずかしそうに告げて、彼らは久々に目と目を見つめ合った。顔がすっかり赤くなってしまったあと、彼は頷いた。十年もの間で初めて、彼らは互いの恋情を、真に確かめ合ったのだった。

彼女の柔らかい首筋に顔を埋める心地よさに、彼は時間を恨んだ。もう何分もしないうちに、帰る時間が来る。彼の高校がある都会から、故郷への帰省のひととき。その最後の日だった。

こいつも今、俺の硬い体に抱き締められて、ちゃんと喜んでいるだろうか。苦しくはないだろうか。彼は少し不安に思い、首を浮かせて彼女の顔へと向けた。

安らぎに満ちた微笑みを一目見て、心配は消えたものの、何か引っかかるものを覚える。もどかしくもあった互いの淡い恋心を、先に打ち明けたのは彼女の方のはずなのに。その表情は、十分前の友達だった彼女の表情と、何ら変わっていなかった。

彼は、自分の腕の中に、愛情と、性と、決意と、責任とが、灯るのを確かに感じていた。体は強ばっている。だのにこいつと来たら、

「えへへ、ヤスハラの心臓、すごい鳴ってるよ」

…すっかりなれた顔つきをして、俺の気も知らないで。

それとも、俺のほうが穢らわしい劣情に溺れているだけなのだろうか。ビートルズのとある一節に「ただ手を握るのが恋じゃないってこと、わたし知ったんです」とあったのをふと、彼は思い出した。

こいつは俺にとって一番の理解者の一人で、それは何年も変わっていない。延長線上に、恋愛という、いくつもある信頼関係のほんの一つがあるだけで、何も変わってはならないのかもしれない。温もりを求め、心が昂るのは、俺がこいつじゃなくて、こいつの身体を見ているからなのか。そんなの、最悪じゃないか。

俺はどうすればいいと、彼はやりきれない自己嫌悪を抱き、それでも彼女への、若干の悔しさも打ち消せずに、さらにこうしていられる時間が刻一刻と、減っていくのが歯がゆくて。

「…お前、強いな。何も動揺しないっけさ」

息も詰まって、ようやくそれだけぽつりと言うと、しばしの静寂をはさんで、彼女は彼の頭を優しく、愛おしそうに撫でた。

「…それはね、ヤスハラだからだよ。私、こんなに安心していられるの、ヤスハラだけ…。良かった、本当に幸せだよ…」

そのときの笑顔を、彼は一生忘れないだろう。俺もだ、とだけ呟いて、彼はいっそう強く彼女を抱き締めた。彼を敬い、愛し、信じ続けてきた、彼女のひたむきな想いに、彼は確かに救われた。

友達だった昨日までは確かめられなかった、お互いの信頼を、彼らはついに肌身で感じ合えたのだった。

川端康成の雨傘、ライクなやつ。書いたの、高3かなぁ?掘り起こしたので手直しして投稿。ようござんしょ。

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