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さいはてヴァンパイア

恋か恋じゃないか、なんて些細なことは皆さんにお任せしよう。とにかく、それはそれは辛い執着でした。
ここでひとつ、供養しておきたい。

人間関係のスタンスは大きく二つに分けられる。目の前にいるのが誰か、を大事にする人。目の前の人が何をしてくれるか、を大事にする人。文字に起こせば優劣をつけ難い。
確かなことには、この両者の相性ピッタリというのは、まずあり得ない。なのに、下手に噛み合ってしまうこともしばしばある。
これは、前者の最果てである僕が、後者の最果てである吸血鬼に、すこぶる悪い相性に気づく術もなく、取り返しのつかない執着を寄せてしまった話。
たかが人生の1%程度の話。


ヴァンパイア伝説の故郷、シギショアラとおんなじぐらいの緯度の、最果て稚内で、僕らは偶然に出会った。
どんな触れ方をしても痛くて沁みるような、ザラザラの残雪の中にいて、彼女はうんと滑らかな白に輝いていた。

雪が黒く汚れていたから、目立ったわけじゃない。
短い春を控えたひと吹雪に吹かれても、樺太から押し寄せる海霧に包まれても、彼女はやっぱり、ひときわ白かった。
そんな薄いコートじゃあ、風邪ひいちゃいますよ。
漁船しか見えないですね…せっかく岬まで連れてきたのに。
海が、空が、うんと白く濁った稚内で、僕は彼女の白にだけ、強烈に惹かれていった。

彼女は沢山のことを、僕に教えてくれた。生まれ育ったこの街の隅々。ちっさな映画館。岬から見える二つの島。アルビノのこと。学校でちやほやされたり、いじめられたりしたこと。心配性なお母さんに、札幌への進学を止められたこと。

流氷の季節には誇らしくて、群来のニュースには耳を塞いだこと。
僕は、ひとつ彼女を知るたびに、とびきり嬉しい気持ちになった。

彼女は、白で埋め尽くされたこの街が、ほんとは嫌いだってこと。
僕は、白で埋め尽くされた一人の女性を美しいと思った。

わかるよ。この街、どこまで行ってもくすんでるんだもん。つまんないよな。
そうやって頷くと、彼女は今までで一番晴れやかな笑顔をくれた。
その夜、僕は初めて純白の全身を確かめた。
少しだけ覗いた赤に、彼女が微笑んだ気がした。

今考えれば奇妙だけれど、一度も、どちらからも、恋人になろうとは言わなかった。
彼女の昔話を聞いて、どんなに繰り返した話でも頷いて、わかるよって手を握って、間があいたらキスをして、二人とも力が抜けて、寝転んで、抱き合って、気づいたら部屋が少し寒くて、適当な服を着込んで、それぞれに歌を口ずさんで、おんなじぐらいに眠りにつく。多分、そんな金曜の晩さえあれば満足だったんだろう。
どう見ても恋人でしょう、と言われればそうかもしれないけど、僕らは二人の友達同士だった。
お互いを見つめ合って、確かめ合った視線同士が、唯一無二の友達を捉えてると僕は感じていた。

だから、僕の心におりのように溜まっていたどろどろの気持ちが、恋だったのか、恋じゃなかったのかなんて、わからない。
確かなことは、僕がそのまんまの、真っ白の彼女を愛していたことだ。
その白は血の味を知りたくてうずうずしている、吸血鬼の肌と気づかずに。


程なくして、彼女との名前のない関係に、望まない色がつき始めた。
最初はある日、稚内では稀なほど強烈な日差しに反射して、彼女の目元がほんのり赤く色づくのを見たとき。
友達と旭川まで出かけて、稚内西條じゃ売ってないような化粧品を、一緒に選んで買ってきたらしい。
似合ってるね、と言うと、彼女は晴れやかに笑った。
本当は思っていなくて、全然うまく声を作れなかったけど、気づいてないみたい。
お風呂を上がって、化粧を落とした彼女に、僕は小さく綺麗、と呟いた。
聞こえていたかわからないけど、彼女は僕に作ったような固い笑顔を向けた。

彼女は段々、しかし着実に、色づいていった。
僕は別に、白じゃない彼女を心から嫌ったわけじゃない。
でも、彼女じゃない彼女を見るようなとき、強烈な動揺が湧いてきた。
純白に惹かれたときと、おんなじ強烈さの、だ。

ある金曜日、大雪山の紅葉シーズンの始まりを特集するワイド番組を見るともなく見ていたら、彼女が思い出したように跳ねた声を上げた。
あっ、わたしね、彼氏できたの。
何のことだか分らなかった。
旭川に住んでる。それで、来週は紅葉見たりしてくるから、居ないから。
部屋の肌寒さが、一気に体を支配した。
自分は彼氏ではないけれど、その前提で彼女の一番だった。
どう考えたってそうだった。なのに。
言葉の意味を知らないみたいに、僕は目をそらした。

そのあと、日常は何も、なーんも変わらなかった。
金曜日が何となく火曜日にずれただけ。
暗記してしまった彼女の昔話の代わりに、旭川の話を聞かされるだけ。
お風呂を上がる瞬間は、いわば解放だった。
僕は純白を愛でる権利を与えられ、本能的に撫でて、口づけた。


僕は供血器に成り下がった。
旭川の恋人の話を聞いて、どんなに聞きたくない話でも頷いて、わかるよって手を握って、済んだようなら寝転んで、ひたすら純白の肌を愛でて、気を抜くと部屋が凄く寒くて、適当な服を着込んで、彼女はすぐに壁向きに寝てしまう。僕は全然、みじめじゃなかった。
純白の彼女はそこにいた。

純白の彼女はしかし、すぐにいなくなった。
今週も今週とて、僕と、真っ白な彼女だけの時間。
彼女の右の二の腕に、痣がある。
おっきな、赤い痣。
口づけようとした間抜けな顔のまんま、思わず固まってしまう。
あぁ、これね。
彼女は少し微笑みながら、痣をさする。
彼氏と。ちょっとね。
何故か嬉しそうに微笑みながら、痣をさする。

多分慣れてしまっていたのだと思う。彼女の供血器である契約のもと、粛々と命令を受け入れるように、曜日に始まり、感情でも、立場でも、なんでも妥協した。
その時だって、抱きとめるのでも、拒むのでも、怒るのでも、心配するのでもなく、僕の心は目をそらすのを半ばオートマチックに選んだ。何故って、それが一番確実だから。
僕は痣に触れないように細心の注意を払いながら、撫でて、口づけた。

週が一つ回るごとに、色の面積は増えていく。僕はそこに触れないように、減ってゆく白をひたすらに欲する。彼女はどれともなく痣をさする。先週より嬉しそうな笑顔をしている。僕は白を愛でる。日常は何も、なーんも変わらなかった。
酷い大雪で宗谷本線が止まった週の次の火曜日だけは、痣が増えた様子が無かった。最早正確な数も、位置もわからないけど。
僕はいつものように、痣に触れないように細心の注意を払いながら、撫でて、口づけた。

ねぇ、何で避けるの。
ふと、か細く呟いた彼女は、ずっと寂しそうな顔をしていた。
私を見てよ、触ってよ。
何のことだか分らなかった。
僕はずっと、純白の彼女に魅せられて、彼女をした彼女を目で追いかけていた。抱きしめることすら出来ないほど色に染まった彼女を、肯定する意味なんてあるだろうか。
僕を、そして彼女自身を、あざむいた証を愛でる意味なんてあるだろうか。

全く気乗りのしない様子の僕の手は、無造作に紫の二の腕をつかむ。
心底痛そうに呻きながら、それでいて満足と期待の混ざった声。
このときの彼女の表情を、僕は覚えていない。多分興味もなくて、その代わりさっきの言葉の意味とか、今までとか、これからを考えてたんだろう。

僕の形をした代替品の供血器を、愛おしそうに啜る彼女。
僕と過ごす一瞬一瞬を一生懸命映そうとしたスクリーンの瞳を、もう持っていないみたい。
復元した土器みたいな継ぎはぎの彼女の、本物の部分を本能的に求める僕。
邪模様に侵された彼女をただ変わったと、受け入れられなかっただけなのかもしれない。
視線の交差しない作業は、息が白くなるほど寒い部屋の中で、夜明けまで続いた。

僕は、何を間違ったために一人の人間の彼女を喪ったのだろうか。
大好きな人の意に反しないようにずっと見つめていたら、実はその意の変化すらも見えていなかったというのか。
あるいは、僕のものにすらしていなかったのか。
彼女は最初から、白ではない何かに染めてくれるかもしれない誰かを、僕に求めていたのだろうか。
残酷な歴史の全貌に、僕はとうとう焦点を合わせることができなかった。


年度末の火曜日に会ったのを最後に、吸血鬼ちゃんは忽然と姿を消した。大学をやめて、旭川の彼氏のもとに越したらしい。
異郷の地に過ごす僕の人生の一番濃密な1%を、見事に吸い取ったまんま。
刷り込まれた執着のやり場を喪った僕は、一番原色の白をしていたかもしれない。

初夏の岬には、その日も濃霧が押し寄せていた。
見たことのある漁船は、色がこびりついて変わってしまっていた。写真に残していたから、あの船であっているはずだ。それでも非線形の変化を、もう誰も覚えていない。
僕の心におりのように溜まっていたどろどろの気持ちが、恋なのか、恋じゃないのかなんて、わからず仕舞いというわけ。
わからないまんま、リマン海流に流してしまおう。

やっぱり、物足りない白であふれた稚内は、大嫌いだ。

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