イタリア男の沽券にかかわる一大事

初めてイタリアに行ったときの話だ。

着いたのは夕方。ホテルのシャトルバスが着くまで相当待った。これ電話しなきゃいけないやつ?と思い始めたときに、同じホテルに行くらしい紳士が、私と同じポイントにやってきた。ミラノのマルペンサ空港、出発ロビーの16番。
紳士はシュッとしたアジア系だった。着ているスーツも上等で、たぶんゼニア。こちらで仕事をしている方のようで、ちょっと話したら中国人だった。スーツケースはハリバートン。絵に描いたような国際ビジネスマンだ。とてもきれいな英語を話す人だった。

それからさらに20分ほど待ったところで、ホテルのバンがきた。初めて訪れた国で、やっとホテルで落ち着ける。荷物をバンに積んでもらったところで、私はちょっと気を抜いた。一緒にいた中華紳士に、バンに乗る順番をいつものくせで「お先にどうぞ」と譲ったのだ。

途端に運転手のおっちゃんと、中華紳士が、同時に目を剥いた。

「Ahhhhhh!!!」
イタリア人の運転手が叫んだ。
「待ってくれ、君は今、どこに来たのかわかってるのか?」
イタリアなまりの早口の英語で何を言われているのかわからず、私はきょとんとしていた。中華紳士も、運転手と同じ顔で「Nooooooo」と驚き顔である。まるでネタ合わせでもしてあったかのように統率のとれた運転手と中華紳士。え、私何か失礼なことを言ったのか。運転手は、もうこいつ話通じねぇ!といった顔で、

イターリア!
イターリアだぞ!

他の国ならともかく、イターリアに来ているのに、どうしてきみが男性に席を譲るんだ!
きみは女性だろう!きみがクイーンなのに!

あぁ!
そういうこと!

私が、男性の後でいい、と言ったのが、イタリアの常識でナンセンスだ、と言いたかったらしい。イタリア男の沽券にかかわる、と憤慨している。中華紳士も、
「君が先に乗らないなら、俺も乗らない」
と、大真面目である。運転手も「俺もだ」と言う。ちょっとそれは困る、あんた運転手だろう。しかしここは私が先に乗らないと、いつまでたっても車のそばで三すくみである。
「それでは、僭越ながら」
と、私がバンに乗った。そこから先は大変スムーズに、ホテルまで連れて行ってもらった。強烈なイタリアの洗礼であった。

ミラノの男性は、女性に優しくする俺、が大好きみたいだった。
地下鉄の一日券がほしくて窓口に行ったら、ダビデ像がそのままヒトになったみたいなきれいな男性が、おつりとともに「チャオ」と必ずウィンクをくれた。横断歩道で路面電車が通り過ぎるのを待っていたら、運転手のおじさんは必ず手前で止まり、手をあげてお礼の気持ちを示せば投げキッスが帰ってくる。買い物をすれば、レジのお兄さんは「おまけだよ」とキャンディと一緒にこれまたウィンクである。ジェラートを買ったら、「幸せが来るおまじないだよ〜」と笑顔でトッピングをサービスしてくれる。
そのくせマンマ(お母さん)は大好きで、よくマンマに電話をする。私はイタリア語はほとんどわからないが、空港から市内行きのバスで隣に乗ったお兄さんが電話口でマンママンマと口にしたのを何度も聞いた。お兄さんはマンマ愛してるよチャオ、と言って電話を切って、すぐメッセージアプリに切り替え、マンマにメッセージを打ち始めるのであった。おまえどんだけマンマが好きなんだ。

きっと、イタリアの男性にとって、すべての女性は愛でる存在で、その頂点に君臨するのがマンマなのだ。韓国も母親が息子を溺愛する国だが、イタリアはむしろ息子の方がマンマ大好きなんじゃないかと思う。

イタリアには1週間いた。ミラノはとても居心地のいい街だった。男性も女性も陽気な人が多くて、ミラノ素敵ね、というと「そうでしょう!またいらっしゃいよ!ローマもいいけどやっぱりミラノよ!」と言ってくれた。晴天が多くて、街のあちこちで桜が咲いていた。ミラノで待ち合わせした知り合いとわいわい話しながらディナーを楽しみ、ワインを飲んだ。ミラノの夕暮れはとても美しくて、石畳までキラキラして見える。他愛ない話をしながら楽しむエスプレッソは絶品だった。男性がやたら優しい空気にも慣れてきて、お礼がわりに自分から投げキッスを返した自分に驚いたりもした。私はミラノが大好きになった。

素敵なエピソードはたくさんある。でも、一番イタリアらしいのは「ここはイターリアだぞ!」と叫んだあの運転手のおっちゃんである。イタリアという国の気質を、実に的確に表現してくれた。初めてのイタリア旅行からもうすぐ1年たつ。おっちゃんが元気で、今日もハンドルを握り続けていますように。そう願わずにはいられない。

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