臼杵シューレ。 新見隆

[ 臼杵オランダ説という、偏見?ならぬ先見 ]

[ 『ホモ・ルーデンス』しかないよ! ]
 「ダッチ・アカウント」、つまり、英語で割り勘。これは、ケチで始末屋、という意味じゃなく、むしろ、「皆で楽しんで、皆で補う、つまり、平等と自由の、博愛精神、これが、オランダ人のスピリット」。
 とまあ、威勢良く始めた、レクチャーだったが、自分でやってみて、果たしてどうだったのだろうか。
 それはさておき、今回のシューレで、まず最初の驚きは、臼杵の石仏のそばで、「臼杵焼」をかかげる気鋭の陶芸家、宇佐美裕之さん、彼のすっきりと端正なふだん使いの焼き物群が提案する、豊かなライフ・スタイルと、その奥さまで素晴らしい料理研究家宇佐美友香さんが、ものした、春の野草やお野菜満載の、二十一世紀的なモダン=ローカルな、滋味ご馳走の圧巻、さらには、裕之さんのお皿を使った、見事に美しい設え、そして、その素敵な空間に集った、素敵な人人そのものだった、と言える。
 また、その日は、別府に面白い空間をつくっているという、若い、アート料理人の宮川園さんも来てくれて、彼女の、いっしゅ天才的な「ガーデニング・ショコラ」を僕は贈られて狂喜、これは、女房と娘に食べさせようと、東京まで抱えて持って帰って、三人で、その驚きの趣向、味に、驚愕したものであった。
 大分には、今や、いろんな若い才能が結集しているな、と感じた夜でもあった。

 そのお二人のアトリエで、僕らが「大分 旅するシューレ、臼杵編」をやった次の日、僕はオランダ大使館の文化担当官、バス・ヴァルクスさんと、空港の寿司屋で、地物の寿司をつまんでいた。
 彼は生ビールを美味そうに飲みながら(最近、ベルギーの修道院由来ビールにおされ気味になっているけれど、ハイネケンをあげるまでもなく、オランダ人はビール好きで、ビール大国だ)、「昨日の話で、新見さんは、『ホモ・ルーデンス』のことを話すと思ったけど、、」とのたもうた。
 「そうか、その話しするのを忘れてしまったな!」と僕は舌打ちした。ヴァルクスさんは、前日金曜夜に、カモシカ書店で会った時に、最近僕が「大分合同新聞」に連載している原稿を、合同の佐藤栄宏記者からもらって、事前に読んでくれていたのだ。
 やはり、オランダ人は真面目だな、しかも、彼は「いつも、私はオランダ文化の宣伝マン」と言っている、大使館員の端くれでもあるしなあ、とまた独りごちた。 
 一昨年か、「オランダ&九州」、という政府がらみのプロジェクトの牽引車だったヴァルクス氏、日本語ペラペラの日本通で、大使の通訳はするし、甚だ親日家である彼である。
 何と彼は、とりわけ竹田で廃屋を再活用したり、面白いことをやっている西田稔彦君や日田のデザイン・ディレクター江副直樹さんたちがすすめている「大分とオランダの文化交流を盛り上げよう」、という動きに賛同して、大使館の業務ではなく、自発的に自前でやって来てくれた。やはり、オランダ人はすごい。
 じつは、オランダの何がすごいのか、前の晩、僕は皆さんに話したつもりなのだが、はなはだ心もとないが、ここで振り返りながら、自己反省してみようと思う。
 ああ、その前に『ホモ・ルーデンス』だが、僕はこういう話には気持ちが入りすぎるきらいがあるのだが、オランダの歴史学者、ヨハン・ホイジンガは、畏敬する人の一人であって、それこそ、リベラルで反ナチの立場を貫いたと、よくきく彼が、ナチスがヨーロッパじゅうに侵攻するなか、第二次対戦が起こりそうになる不穏な時に、世に問うたのが、この名著、つまり題して、『遊ぶ人間』である。まさしく、同時代の不穏な傾向に背を向けるどころか、それへの、静かなる挑戦状を叩きつけた訳であった。(註1)
 「人間のもっとも偉大なる、知的で創造的な活動としての遊び」について、歴史的に包括論述した大著で、『中世の秋』と並んで、彼の代表作とされる。人と争う、武器をとる、それほど愚かなことはない、という隠された、強烈なメッセージが、この大著にはあった。
 僕の尊敬する兄貴分に、アムステルダム市立美術館のデザイン部チーフ・キュレーターだった、ライヤー・クラスがいるが、彼は、いつだったか「オランダにいたユダヤ人で、ナチスに連れ去られた何万人のうち、戦後生還した者が、たった六人だったんだ」、と遠くを見ながら、言ったことがあった。
 それはそれとしても、律儀でしかも「ダッチ・アカウント」(=英語で割り勘、という意味)とも揶揄されて、「一見ケチ=始末屋」で、しかも、「平等主義」のオランダ人も、「人生は、畢竟、遊び」(=この場合、クリエイティヴな視野探求や、世界観探し、と言った方が良いか?)という、徹底した、共生的平和主義の信念を持っているのであった。

[ 黒島にて-オランダ魂 ]
そのライヤーは、インドネシア生まれで、当時日本軍の占領下であった、バタヴィアで少年時代を過ごした。本人にさほど過酷な思い出は無いようだが、父は日本軍の捕虜としてジャワ島で土木工事に従事させられ、酷い目にあったが、余り多くを語らず、静かな晩年を過ごして十年ほど前、逝ったそうだ。そういう、思慮深い奥床しさも、オランダ人らしいと僕は感じる。
それでも彼は、「鉄棒から落ちて、骨折ったことがあってね、その時、日本軍の兵隊の一人が、自分の水筒を持たせてくれた。その水の美味さは、忘れないよ」、と言いながら、過去何度も、日本に来ているのに、どうも馴染めなかったのは、修学旅行の中学生の制服に、軍服が重なって、その都度、トラウマが甦るから、と漏らしたことがあった。
 幼い子供にも、やはり、「暴力や、力や権威」で人間を押さえつける、その軍事的「占領」のやり方が、肌で怖かった、空恐ろしかったのは、想像に余りある。
 僕は、彼を、過去三度、武蔵野美大の当時教えていた、芸術文化学科という、主に学芸員や文化プロデユーサーを養成する学科に、短期の訪問教授というかたちで呼んで、授業や、ワークショップを受け持ってもらって、いっしょに授業をやった。
 最後のパーティーで、料理上手の彼がつくる、珍しい、ココナッツ・ミルクの入った、甘辛酸っぱく辛い、トム・カ・カなどの、不思議で深い味や、タイ風カレーなど、アジア各地で身につけた、まさしく「グローバル・フュージョン」料理、その「四次元的なる味の複合」に、学生たちと舌鼓を打ったものだ。
 最初のワークショップの最後の締めに、彼はこう言った。
 「これで、日本人へのトラウマから、やっと半世紀振りに、解放された、君たちのお陰だ、ありがとう」と。
・ ・  ・
  そのライヤーが、OPAM開館展の企画アドヴァイザーとして、武蔵美経由で、大分に来たのは、たしか開館三年前の、2012年あたりだったろうと記憶する。
 彼は、黒島にある資料館で、市長や学芸員の説明に、熱心に聞き入っていたし、海辺をいっしょに散歩しながら、呟いたものだ。
 「リーフデは、北極海へ何度も漕ぎ出した。そして、日本にやって来た。それも何度も航海を失敗しても、繰り返し、挑戦したんだ。これが、オランダの船乗り魂だよ」。
 僕らは、その難破船を、臼杵の海辺の人人、たぶん漁師たちだったろうが、彼らが救助して、手厚く介抱したのを、言い伝えで、そして歴史から学んで、知っている。
 僕らはそして、そのなかに、後に徳川幕府の参謀というか通訳となる、三浦按針ことウイリアム・アダムスや、工学技術(もしかしたら、武器だったかな?)に長けていた、ヤン・ヨーステンなどがいたのも、歴史から学んで知っている。東京駅の裏あたり、ブリヂストン本社や美術館あたりを八重洲というのは、ヤン・ヨーステンの名前から由来する(?)、というのは、何とライヤーからきいたことだ。
 OPAM開館以来、「アトリウムのバルーン」として親しまれて来た、七つの、四メートル強の、ゴムのカラフルな「花々」は、オランダを代表するデザイナーの、マルセル・ワンダース(日本でも、コーセー化粧品の「コスメ・デコルテ」で有名ですが)が、大分に、リーフデ号救出のお礼に、プレゼントしてくれたものだ。
 「ユーラシアの庭」という僕のコンセプトを受けて、マルセルが「じゃあ、オランダ十七世紀に流行った、花々や果物(生きている生命)に、骸骨(死のイメージ)を対比させる、ヴァニタス画にちなんで、面白いものをデザインしよう」と、考え出してくれた傑作である。
 ちなみに、ライヤーと知り合ったのは、僕がオランダの新造形派の造形集団「デ・ステイル」の大規模な展覧会を企画した時で、1998年、今から二十年前のことだ。
 大規模な海外展をやるのは、飛行機で作品を運ぶ、輸送費がいちばんの経費的ネックになる。僕は、彼がステデリック美術館で担当する、二十世紀の偉大なパイオニア建築家、ヘリット・リートフェルトの設計になる、素晴らしいインテリアを丸ごと日本に借りて持って来たのだが、通常は飛行機で運ぶところを、彼は、「今後の世界のミュージアムの糧」になるからと、空調完備のコンテナで、船便で運ぶ手配をしてくれた。
 創意工夫、そして進取の気性、そして共同性への積極。
 こういうのも、プロテスタント新教の創始者、ルターを受け継いで、さらに厳格に、徹底して生活を律して、新しい市民社会をヨーロッパで率先して築いて来た、オランダの真骨頂でもある。
 アムステルダムが、世界遺産になったのは、もちろん、運河を中心にして、瀟洒で可愛らしい街並みが有名だからでもあるが、そこが、「市民の街」であるからだ。ライヤーは、「中心は、王宮じゃない。あるけれど、ごく控えめに街並みに溶け込む、というより、ひっそり隠れている。逆に、中心は交易、貿易の発信点である、港だ。」
 十七世紀オランダは、海外貿易、交易が栄え、未曾有の、発達した市民社会を成した。その時代が産んだ天才に、日本でも人気のある、光の作家、フェルメールと、影の画家、レンブラントがいる。
 「デルフト風景」で有名なフェルメールは、「王でも、貴族でもない。神話や聖書物語も描かなかった。彼が描いたのは、街で見かける普通の市民、市井の人人だ」と、ライヤー。
 一度彼が、1930年代の、代表的建築家デ・クレルクの担当した、見事な社会主義的共同住宅群に、連れて行ってくれたことがあった。何が見事かというと、それが、簡素ながらも、住みやすく、また景観も守って、美しい点だ。低所得者層のために、コンパクトなアパート群を建てる、そのために運河に沿った低層の集合住宅にする、道幅はテラス替わりに広く取る、共同風呂も設ける、そして巧みに、オランダ特有の建材、レンガを全体に使ってしっとりさせる、さらに要所要所にレンガで面白い装飾的組み上げが、やってある。
 これが、オランダ的建築の思想と実際だ。
 翻って、今建築ラッシュに沸く、東京日本の、何と嘆かわしいことか。
かつて、運河沿いの、使われなくなった倉庫街が荒廃した時、たしか60年代だったと記憶するが、そうしたスペースを若い作家たちに解放したことがあった。というより、勝手にそういう場に入り込んで、「違法的に」住み始めた若者たちを、市民も市も規制せずに、むしろ歓迎したというのだ。誰かに迷惑かけるわけじゃない、空いている場所を勝手に使って何が悪い?面白いじゃないか!ということだろう。
 規制社会、何かについて管理、監視しようとする日本と、如何に違うことか。
 フリードラッグが良いことかどうかは分からないが、すべては自己責任、単なる性善説ではなく、一人ひとりの人間を、確立された一個の人格として認め、その責任を個人に委ねる、真の人間主義、ヒューマニズムがオランダにはたしかにある、というのが、僕の印象だ。

[ 臼杵は、オランダ的か? ]
 ライヤーとその時、泊まったのは、港のそば、下の江美崎の老舗旅館、久楽だった。すっきりした見事な旅館で、お料理もお風呂も繊細、たいへんに楽しんだ。二階から、八幡浜が見えて、無類の眺めだったし、海沿いの造船所は、僕には、古里尾道を思い出させた。まだ、そんなに多くは来ていないが、臼杵には、素敵で面白いところがいっぱいある。
・  ・  ・
 その四月半ばのお天気の良い、抜けるような空の土曜の午後、僕とカモシカ書店の岩尾君は、彼の運転で、臼杵に向かった。
 まず、目標は、一度カモシカでのトークの会に、自分の焼いた美味しいパンを持って来てくれた、パン焼き名人として知られる、「ウエムラブレッド」の上村君と奥さまの貴子さんの店。
 地理がよくわかっていないが、かなり奥まった、僕にとっては一度行きたいと思っている、キリシタン墓地のある野津の近くの山あいの小さな村に、そのパン屋はあった。すごく元気の良い奥さまと彼が出迎えてくれて、その、異郷のような牧歌的な佇まいに、しばし時を忘れた。岩尾君は、久しぶりに見た山羊に、狂喜していたが、夏にここにテントを張って泊まれば、満天の星が楽しめること請け合いだな、と話したりしていた。
 途中の山道に、家のある東京郊外は武蔵野のサナトリウムで、娘や息子が世話になったコンヴェンツァル・フランシスコ会修道院(付属幼稚園に通わせた)が、ここにもあって、ちょっと奇遇を感じて立ち寄って、ルルドの聖ベルナデッタに現れた、洞窟のマリアさまを拝顔させてもらった。ちょうど、藤棚の藤が、見事だったのを覚えている。
 臼杵は、「オランダのデザイン展」をやった二年前に、コー・ヴェルズーという異色のデザイナーにして、社会活動家が起こした木製オモチャのブランドADO(オランダ語で、社会に貢献するデザイン運動、といった意味らしい、始めは、サナトリウム的結核医療施設の患者の社会復帰のために、考えられたが、後に心療的治療を受けている人たちのためにも、広げられたという)のレクチャーを行なった場所だ。
 その時は、ADOのコレクションで有名な、オランダ中部アッペルドームのCODAミュージアムの館長カリンさんに、レクチャーしてもらった。臼杵で、「元気のでるアート」を推進しておられる吐合紀子さんに、たいへんお世話になった。
 その時に、ライヤーと、カリン夫妻と僕は、市のボランティアガイドの方に、旧市街というか、中心地のセミナリオ跡などを案内してもらった。どこだったか忘れたが、僧侶たちの僧堂だったというお寺の一室に座って、梁を素直に剥き出しにした簡素な空間が、ライヤーはいたくお気に入りで、リートフェルトなどの、これもヨーロッパでは、ごく珍しい、ストイックでミニマル、それでいて、レンガや木の素朴な素材から成る、オランダのモダン空間と、日本の空間の類似の話などをしたのが、懐かしい。
 臼杵も、宗麟が築いた、キリシタン文化、南蛮文化があるし、有名な見星禅寺という臨済の禅寺もある。今度是非、ここの茶室をみてみたいものだ。たしか、竹の人間国宝、生野祥雲斎の菩提寺で、祥雲斎が竹で編んだ部分(たぶん天井だと予想するが)もあると、祥雲斎の息子さん、武蔵美の大先輩(僕は、出身は慶應義塾だが、この二十年余り、武蔵美の専任教員でもあるので)でもある、生野徳三先生にきいた覚えがある。
 臼杵は、港町だし、その奥は、美しい山あいが続く、起伏のある、奥深い土地柄だ。
 大分県の、良く言われる、異文化吸収、折衷複合的文化を、いっしゅ凝縮したような町が臼杵なのではないだろうか、とも感じられる。
そして、オランダも、さまざまな大国に囲まれて、独自な文化を築いてきたが、意外にも、アジア、とりわけインドネシアの文化を逆輸入もした。バティックなどの染織や、木工芸における、カラフルな色使いと、独特にえぐみのある、「カクカクした」装飾性などである。ライヤーに言わせると、インドネシアとの関係は、植民地支配ではなく、「対等な、共生共存で、相互発展」なのだ、という。
 まあ、難しく考えなくても、オランダのチューリップは、十字軍がイスラム圏からもたらしたものだし、ヨーロッパとても、イスラム文化の影響はいたることろにある。
 お昼は、フンドーキン醤油のランチ定食をいただいたが、名物、胡麻豆腐の、もっちり柔らか、濃密な味に驚いた。
 僕は、前座レクチャーで、いつもの「オランダ我が愛」を、モダン・デザインやモンドリアンなど、二十世紀の前衛の作品を見せながらやって、最後は、「臼杵=オランダ説」をぶちあげて、煙に巻いたかたちになったが、これまでここにつらつら書いたような話の一端を味わっていただけたなら幸甚、と願っている。

 後半メインは、バスさんを囲んでのトーク、福岡県は浮羽で、オランダの作家のレジデンスをサポートした、「町おこし協力隊」の馬場亮子さん、西田君、江副さん、彼らに岩尾君がきく、というスタイル。
 僕が、一息つこうと、そとの涼しい芝生に出たら、休憩時間に、ちょうど、すっきり品のある女性と、少し話した。満天の星が眩かった。
 後で、その方が、僕の友人で、別府鉄輪の柳屋、サリーガーデンのご主人、橋本英子さんおすすめの料亭、喜楽庵の若女将、山本裕子さんであった、と知ることになる。
 失礼にも、僕は名料亭の若女将である彼女に、「臼杵には、胡麻豆腐と、フィッシュ・ケーキを買いに来た」と口走ってしまった。(何と後日、彼女は、そのフィッシュ・ケーキを買って(それいがいの素敵なものも頂いたが)、OPAMまでやって来たくれた、という、これまた恥ずかしい後日譚つき)
 後半のトークは、岩尾君の報告記に任せるとして、僕が、いちばん面白かったのは、いつもの岩尾節でもあるのだが、彼が真っ正直に、「町おこし何とかとか、小煩くて、喧しい」、「大分市でもよくあるが、「もっと、静かにしてくれよ」といつも思っている」と、直裁な問題提起をしたことだ。
このことは、僕ももっと深く、考えないといけないな、と思った。
それは、その時配った、僕の「合同連載記事」にも書いたことにも通じるので、少し話しておきたい。
 書いたのは、僕が、「ブランディング」は、アメリカ的消費最優先主義から出て来たもので、嫌いだ、ということだ。例えば、香川県は「うどん県」と自ら売り出しているが、それは、百も千のある香川の可能性を、たったひとつに単純に、短絡する危険でもあって、外からやって来る観光客が、「我もうどん、我もうどん」と、うどんだけに熱中して、他の香川の良さに目を向けない、こういう悪しきブランディングの弊害に、香川県民は辟易しているのである。
 僕の印象では、「うどん県」と言われて、喜んでいる香川の人は、絶無だろう。(このあいだ、OPAMで、九州では初めての大規模な個展をやった、二十世紀を代表する彫刻家のイサム・ノグチが、60年代から晩年まで、住んで、晩年の抽象の石彫をやったのが、牟礼町で、僕は1999年の開館以来、そのイサム・ノグチ庭園美術館の学芸顧問を勤めているので、高松香川には、しょっちゅう行っている。)
 僕の、古里尾道だって同じだ。町じゅうが、今やラーメン屋だらけだ。まったく、くだらない。いやラーメンは、僕は大好きだし、名店「朱華園」は、先代の親爺さんが、戦後屋台みたいな小さな店でやっていた頃から通っている。だが、観光客が、「ラーメン、ラーメン」と殺到して、雨後のタケノコのように、今まで無かったところにも、ラーメン屋が林立する。尾道の美味いものは、ラーメンだけじゃないし、むちろん、面白いもの、文化や芸術は山ほどある。こういうブランディング現象は、まさに世紀末だ。
 大分県だって、「鶏天県」と言われて、喜ぶ県民が、いったい幾人いるだろうか。鶏天は、文句なく美味いし大好きだが、それとこれとは話が別であって、ブランディングが、百も千のあるその土地の面白さを、隠蔽してゆくことがままあることに、気をつけたいものだ。
 これは、来月22日にやる予定の、「再び、本丸大分市シューレ」の、佐藤樹一郎市長との、若者たちの対談に、持ち越してゆく、深い問題になることだろう。
 最後に、バス・ヴァルクスさんが、お土産に持って来てくれた、“1616/arita japan “ と題された、小さなぐい呑カップの磁器に、僕はひかれたことを書こう。
 あんまりこういうことは無いのだが、すごく気に入って、陶芸をやっている娘と眺めながら毎日、使っている。
 存じあげないが、有田で有田焼きをモダンに革新している、柳原照弘さんと、オランダのこれも、若いデザイン・ユニット、ショルテン&バーイングスとのコラボレーションだという。
 オランダのデザインは、OPAMのバルーンをつくって、大分にプレゼントしてくれた、貴公子マルセル・ワンダースのように、ゴージャスで装飾的な夢を与えるタイプと、いっぽう、ミニマルでストイックなデザインの、二つの流れがある。
 輸出用に、ゴージャスに装飾的に盛りあげて海外に売り出していった有田焼を、オランダのそういうミニマリズムが、今度は逆に、現代的に、シャープに、「何かを削ぎ落として」再生させ、甦らせてゆく。面白い現象だ。
これこそが、「現代の、出会い、合わせ技だな」と妙に感心して、僕は、県立美術館の学芸会議で、皆に見せて、「OPAMでも、こういう若手を奮起させるプロジェクトをやりたいよね!」と、学芸員たちの奮起をうながしたものであった。
(この項、終わり)

(註1)
ホイジンガの、反ナチ的傾向について、どこで読んだか、きいたか、ずいぶん前の、おそらくは学生時代四十年ほど前の話で、出典典拠を忘れた。あるいは、たぶん、これも、ライヤーにきいたのだ記憶が交錯する。
 ひさびさに、図書館で繙いてみたら、こういう文章を見つけた。
 「人種という命題は、常に敵対的であり、常に反(アンチ)―であり、学問と詐称する教説のための劣悪な記号である。」
 「文化闘争の論拠としての人種理論は、常に自画自賛である。」
  『あしたの蔭りの中で』1935
   (藤繩千艸訳、河出書房新社、ホイジンガ選集②、1971)
  さらには、こうもある。
 「超ナショナリズムは、その著しい部分が、文化の容態、あるいはもっと正しく言えば、私が10年前に幼稚症と名づけてよいと考えた非文化の容態と一致する。」
  『汚された世界』
    (磯見昭太郎訳、河出書房新社、ホイジンガ選集⑤、1971)
 (さらに、磯見氏の解説によると、これは「聖ミヒエルヘステルの強制収容所から釈放され、アムステルダム郊外の小村、デ・ステーフで」で書かれた、とある。)

 それからさらに言えば、本エッセイ中の、すべてのオランダや日本、リーフデ号その他、歴史や史実、地理、臼杵の遺跡やお寺のことなど、良い加減な記憶やうろ覚えの知見で書いているので、歴史的な基本的認識から始まって、いろいろな知見から多々間違っている部分があるだろうし、誤記、記憶間違いにいたるまで、いろいろな誤解、勘違い、単純な間違いなど多々あるかも知れないが、どうか、ご容赦願いたいと思う。  
 さらには、そういう事情なので、知見や記述について、いちいち出典典拠、どの本のどこから仕入れた知見か、誰からきいたものか、余りに煩雑なので(学術論文ではないし)、ここに、いっさい詳述しないので、これもどうか、ご勘弁いただきたい。

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