たびするシューレ 第1回 竹田へのたび ~カモシカ書店 岩尾 晋作

1.日本一のゲストハウスでエクスタシー
隠れキリシタンの礼拝堂があり、滝廉太郎が「荒城の月」の霊感を受けた岡城を有し、現代も石畳や武家屋敷を残す幽玄とますらおぶりの城下町、竹田。古都の趣に加え、近年は現代的なセンスで最新の図書館やアートレジデンスを作り、県内で明らかに異彩を放っている革命の町だ。
僕の暮らす大分市内から竹田のセントラルシティまでは車で1時間。 たびするシューレの初開催を目前にして、不安の奥底にある期待と希望が表情ににじみ出たみたいに、雲の端を赤く染める夕日を見ながら、車は順調に進んだ。 今回のシューレの会場で使わせてもらったのは竹田駅前に野心と自信を持って新しく立ち上げられたゲストハウス「たけた駅前ホステルcue」だ。
僕はゲストハウスが好きで、日本でも外国でもいくつも泊まったが、古民家を大胆にリノベーションした「cue」の建物、内装の力強さ、洗練さには度肝を抜かれた。古民家らしい堂々とした梁が天井に架かり、エントランスにパン屋「かどぱん」を据え、普段はそこで食事ができるほど贅沢に広い。入口に佇む木製フィギュアは竹田を拠点にするアートユニット「オレクトロニカ」による作品で、番人というよりも瀟洒なドアマンといったところだろうか。
こんな気持ちの良いゲストハウスは他にはちょっとない。日本随一といっても全く過言ではないゲストハウスがある大分県に、今後の未来を感じずにはいられなかった。
そのようにしてすぐにここが竹田の中心、いわば革命の伽藍であると確信できたが、正直にいうと、一番に思ったことは、こういうゲストハウスが大分市中心部に欲しい、こんな要塞を持つことができたらどんなに自分の町を盛り上げることができるだろうという、嫉妬にも近い、羨望だった。
とにかく、こんな会場を選んでくれた、たびするシューレのプロデューサー、西田稔彦さんの町を見抜く慧眼に唸った。
ゲストハウスを切り盛りする堀場貴雄・さくら夫妻と、先述したゲストハウス内にあるパン屋さん「かどぱん」の臼田朗さんがイベントの準備をしてくれている。
ひとり、またひとりと会場入りする参加者(ともに学ぶシューレの学生)は徐々に会場を熱気で満たしていった。オランダから竹田に滞在しているアーティスト、ジョン・ニールランドさんも来てくれ、このような集まりは素晴らしいと絶賛してくれた。この小ぶりな城下町に、オランダ人の画家がふらりとやってくるところが、竹田の懐の深さと新奇性だと舌を巻いた。
30人ほどの参加者は竹田にとどまらず県内方々から集まってくださっていた。竹田出身で現在は千葉の大学で教える歌人の川野里子さん、日田在住のプロデューサーで大阪の大学で教鞭も執る江副直樹さん、江副さんの元で学ぶエディター川島克さん、関東から国東に移住して作陶を続ける垣野勝司さん、など大分の未来をそれぞれに創造する方々だ。
みんなの熱気が会場に満ち、僕たちは今夜、竹田の湯たんぽみたいだなどと考えていた。
そしていよいよ、たびするシューレの幕が切って落とされた。
 プロデューサーの西田さんから開会のあいさつと「たびするシューレ」発足の経緯が手短に紹介される。大分県立美術館(OPAM)の新見館長と西田さんの対話から始まったこの企画は江副さんの助力を得て、開催の運びとなったのだ。本当に、いろんな人のおかげで僕たちは今日、このステージにいるということへの、有難さ、を改めて噛み締めた瞬間だった。
そして我らが大分県立美術館OPAMの新見隆館長のレクチャーが始まる。新見先生はカモシカ書店で何度もレクチャーをしてくれているが、そのどれもが人間の本質を射抜き、同時に人間と芸術への大きな信頼と愛に満ちた言葉で組み立てられ、僕はいつも驚嘆する。その感動を大分県民全てで共有したいというのが「たびするシューレ」を運営する上で私の重要なモチベーションともなっている。
新見先生の言葉は、たしかに、我々の「明日」を照らす一条の光になると信じている。
今夜の題目は「エクスタシー! アートの根源とは何か。石内都とスティーブン・コーエン」。
風変わりな衣装の上からさらにシャンデリアを纏い、踊りを舞うダンサーの写真が「cue」の壁面にプロジェクターで照射される。その異様なイリュージョンによって会場のみんなは一瞬にして美術大学の学生になったような気持ちではないだろうか。
不思議な緊張感の中、新見先生は言い放つ。
「人間は滅びると思うか?」 ダンサーが踊っている所は南アフリカのスラム街だった。同国の大きな禍根、アパルトヘイト政策で生まれた数多くのスラム。スラム街の住民同士で争う悲劇がある。
コーエンは騒動の最中のスラム街で、踊る。 見るからにゲイで、奇妙ななりで、スラム街で踊るコーエンを多くの人は無視する、侮蔑の目で見る、石を投げる。 やがて日が暮れる。コーエンはただ踊り続ける。シャンデリアが揺れ、夜闇に輝いた。 そのとき、ひとりの老婆がぽつりと呟いたという。
「きれい。このスラムできれいなものをみたのは初めてだ」 そして石内都という写真家。
ヒロシマという写真集で、衣服を撮った。原爆の、被爆者の、衣服。 ついさっきまで、生きていて、一瞬にして焼かれてしまった人の衣服を。
写真はまざまざと伝えている。かわいらしい衣服、それを身に纏った人のご機嫌な朝を。
恋心も少し寝不足な瞼も、戦時の憂鬱さのなかでも、明日に向かって生活していた全ての死者の柔らかい肌が、愛おしく、何よりも尊く、焼けた衣服に袖を通すのが誰の目にも見えてくるだろう。
そこに存在し、生きていたということ、その真実や魂は原爆なんかで消えてしまうことは絶対にない。石内都はその確信を、写真に込めた。 人間には動物的な限界がある。それはひとつにはいつかは必ず死んでしまうということ。
そして、もうひとつは自分と自分の身内だけよければそれでいいという自己専横性。
この二つが重なり続ければ、人類は滅びるしかない。
芸術には、芸術的に創造的に生きるということには、この限界をときに突破し、超越し、全く新しい世界をみせる開放性がある。
打ちひしがれた人を救い、支え、再び自ら歩き出す勇気を与えてくれる力がある。
人生も、人類も、本質的に悲しいのかもしれない。その悲しさから逃げるのではなく、 悲しみから始め、歓びへと昇華していく。それがエクスタシー、アートの根源だといえるだろう。
さあ、それを踏まえたうえでもう一度問おう。
「人類は滅びると思うか?」 もちろん正解はない。アートについてもこれだけが答えではない。言葉で応じることはたやすいだろうが、そのことにはほとんど意味を感じない。明日から私がどう生きるのか、なにを作るのか、誰と生きるのか。本当に問われているのはそういうことだろう。
劇的に変わる必要はない。外から見てわかる変化は変化として実につまらないものだ。
本質的なことはいつも植物みたいに、変化も成長も見てわからないような速度でしか動かない。
だから同じ毎日を繰り返しながら、でも月を見あげていよう。焦らず、前を向いて遠くまで歩いていこう。我々はやはり、自分を完成させるために生きているのだと僕は信じる。
 2.キャバクラから畦道に
ここから第1回 たびするシューレのゲスト、草刈淳さんにご登壇頂こう。
竹田の代表的アーティスト、草刈淳に僕がインタビューしていくという設定だ。
手短に紹介すると草刈さんは竹田出身。南画家の祖父を持ち、ご自身は書の道に進み県外で活躍するが、あるとき全ての書関係の団体を脱退し、竹田に戻る。骨董好きから始まった三桁(みつけた)という古道具屋を竹田で運営しつつ書を書き続ける。総合的な美的センスが評価され、空間デザイン、内装、など大分県内外で躍進を続ける。
 個人的には2年ほど前に初めてお会いして飲みに行った。そのときは都町のキャバクラに連れて行って頂いたのだが、人と接する技術についてキャバクラにいる女性たちから学ぶことはたくさんある、と丁寧に説いてくださったのを記憶している(余談だが僕はそのとき生まれて初めてキャバクラに行ったのだ)。
 それからしばらくお会いしていなかったのが、どしりとした存在感が僕のなかに残っていて、もっともっと草刈さんと話してみたかったのだ。
 大勢の前で喋るとなれば、草刈さんはきっと韜晦(とうかい。実力を隠して煙に巻くこと)されるだろうなと勝手に予想していた。だからどうやって心を開いてもらおうか、いろいろ考えていた。  だが開口一番に草刈さんは「美」について、新見先生の先ほどのレクチャーに関して質問する、という事件が起きた。(質問の内容は新見先生の報告にあるのでここには書かない)
 冒頭から芸術家が「美」という言葉を使ったのを聞いて、ああ、この人はむき出しの人なんだな、ポーズなどなく、真っすぐで純粋な生き方をしているのだなと看取して、前述した僕の勝手な予想を自分で愚かだと思った。
 地域協力隊として竹田で奮闘する吉峰さんや、カモシカスタッフの波多野樹くんの質問に、大分市から来てくれた小原さんの質問に、草刈さんは誠実に真剣に、自分の言葉で答える。その丁寧な対応や社会の決まり文句を不器用さを感じさせるほど一切使わずに語ろうとする真心に、僕はすっかり魅了されてしまった。
 中でも驚きだったのは、当時の自分の書の道に自分で疑問を持ったときに、所属していた書道団体のコンペに敢えて書を変に書いてさらに誤字も二つ混ぜて出品した、という告白だった。その作品の結果はなんと高く評価されて受賞。それをみた草刈さんは団体を離れ独自に書の道を歩もうと決心されたということだ。
 ある制約や束縛、倦怠を逸脱すること、あるいは逸脱しようとするエネルギー。それらはいつも芸術や文学で起きる爆発の最初の火花であることは間違いないのだが、逸脱したもの同士が同じ地平に立ち、いつの間にか集まってまた新たな制約や束縛や倦怠を作るというのはいつの時代にもあるし、集団でなく個人の創作活動の歴史を振り返っても束縛から逸脱、その結果また新たな束縛、という連続する波は見られる。
 僕が何を言いたいのかというと、芸術家だから自由だということはないし、芸術家が集まることで何か特別な集団が形成されるわけでもないということ。大切なのは倦怠していないかという自己メンテナンス、これでまあいいやというような思考停止に全力でNO! を突き付けること。
当然、独立した草刈さんには独り立ちに付きまとう孤独や疎外、辺境化という苦難が付きまとうのだが、誰だって独立するときはそれぐらいの覚悟はするだろう。本当の試練は独立した自分が独立したことによって生まれる新しい倦怠や形式主義や御座なりのものに目を背けずにいようと日々内省するときから始まるのだろう。
草刈さんは竹田の生活が心地よいそうだ。移住者やUターンした人、観光客も増えてきている故郷に対して「人が増えるのを拒む理由はないよね」と柔らかい。そして自分という変人がいることで他の変人の居心地をよくしたい、とまで言ってしまうのは感じの良さを通り越してチャーミングですらあるだろう。
竹田に来る人に、「岡城や温泉ではなく、素朴な田んぼの畦道を案内したい」とも言っていた。僕はもうその畦道を必ず見に行きたい。何でもない日に、わざわざそのために、竹田に泊まってでも、草刈さんが好きな畦道を教えてもらおうと思った。 草刈さんは自分自身に自在に立ち向かえる人だろう。何もかもが僕の想像をはるかに上回る気持ちのいい芸術家でした。本当に楽しかったし、魂拝見しました。 草刈さん、ありがとうございました。 その夜は僕たちは午前2時まで飲んだ。 竹田の若きリーダー、リカドの桑島(現 小林)さんと久しぶりにゆっくり話した。臼田さんとも、西田さんとも、たっぷり時間を過ごし、酔っぱらった。 飲みの席の話題はここには書かない(書けない)。参加することが全てだからだ。 次回のたびするシューレに、ぜひともお越しください。

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