冬の佐伯に、「楽園ミュージアム」を夢見た夕べ ―「たびするシューレ」、佐伯編を終えて~大分県立美術館OPAM 館長 新見隆

第一部:「佐伯の町全体を、マリン・ミュージアムにしよう!」

[ 夏のサン・サーンス、田中希代子、昭和三〇年代 ]
 夏だろうが、冬だろうが、僕が、大分県立美術館の館長室で、聴いているのは、サン・サーンスのピアノ協奏曲と決まっていて、しかも演奏は、見事な思い切りで、「弾いて、弾いて、弾きまくる」、それでも「構成感が、寸分も揺るがない」、不世出のピアニスト、田中希代子さんのものだ。
 彼女は、もう亡くなったが、戦後すぐにパリで活躍して、帰国後、それこそ日本中を瞠目させた、凱旋公演の最中、突然「膠原病」で指が動かなくなって、教師として生涯を送った、伝説的なピアニストだ。(註1)
 彼女のピアノは、疾駆する夏、をいつも思い出させる。
 それは、僕が子供時代を過ごした、昭和三〇年代と言ったら、今の若者たちは笑うだろうか。たが僕には、何か、大きな、それこそ取り返しのつかないものを失った日本人、絶望や、悲嘆や、そして誇りの喪失とか、そういうあらゆる地獄を生き抜いた日本人が、やっと持ち得た、抜けるような青空がぽっかり空いた「初めての夏」が、ちょうど、僕が生きた、昭和三〇年代だったのではないかと、思えるのである。
焦土から必死の思いで復興して、やっと人びとの屈託のない笑顔が町のそこここに見られ、まだ埃っぽい道には、それでも、洗い立ての、糊のきいたブラウスを着た、さんざめいて笑う女性たちの、颯爽とした、それでも少し、はにかんだような笑顔があった。
 彼女たちの、香水ではない石鹸の匂い、戦後を背負ったそれぞれが生活人であった大人たちの匂い、活気、希望への憧れ、そういうものが、田中希代子のサン・サーンスを、僕がことさら愛聴する理由なのである。
それは、永遠の夏、あのギラギラ輝く、夏への、果てのない憧れと同じだ。
 夏が好き、そういう人は多いだろうが、陰陽五行でいうところの「朱夏」を、僕はことの他、愛する。いろんな理由はいっぱいあるが、何しろ、海で泳げるからだ。

[ 佐伯は、日本の「楽園」だ ]
そう思って、今回、何度目かの、一月睦月の佐伯行きに、三年前の夏、美術館のスタッフ数人と、鹿児島へ旅した、その、灼熱の思い出を反芻していた。
古里尾道は、対岸の向島との狭い、川のような水道を渡船、フェリーが行き来する、風光明媚な港町として知られる。
僕らの親の子供時代、昭和初期には、この前の海でも泳げたらしいが、僕らは、毎夏、日ごと、自転車を駆って、渡船の渡し場から島の向こう側の海岸まで行って、日がな一日、思う存分、潜ったり、泳いだりして、真っ黒になりながら、火照った身体で、家路に着いたものだ。
 まあ、だから、人魚、魚みたいなものですね、つまり、少年時代は。
だから、僕は、魚を食うと、その魚が泳いでいた海を、自分の肉体で泳いでいる、その海中の潮の香りを嗅ぐことが出来る質だ。それで、魚を食う。
その夏、佐伯の海では泳がずに、僕らは一気に車で鹿児島に行った。しかし、初めての時見た、初夏の佐伯の海の、抜けるような澄んだ青さは、吃驚するぐらい綺麗で、今も目に焼きついている。
 錦江湾で、桜島を見ながら泳ぐのが目的であった僕らは、それでも佐伯を通り過ぎなかったのは、ひとえに、「ごまだし」のためである。
今は結婚して東京に居る、美術館開館時の広報担当の高司操さんは、聡明にして、すっきり澄んだ、佐伯出身の美女だが、彼女のお父様が、クルーザーを駆って海釣りをして、釣った魚、初夏であればイサキ(彼女は、「麦ホウサコ」と言っていたな)や、クロ(石鯛ですね)を、お母様が、捌いて、檸檬マリネ(自宅の庭に成るという!)にして、持って来てくれて、祝杯をあげたことも、数知れない。話が逸れるが、南の楽園、そう考えると、佐伯は、古代ギリシャの女性詩人、サッフォーが技芸の私塾を営んだという、かの小アジアのレスボス島を、想わせもするのである。(註2)
この家の家宝的お土産が、自家製の「ごまだし」で、これが、何ともすごい逸品なのだった。僕は、定期的に戴いていて、毎夜、最後の締めの付けうどんに、じつに重宝している。
 そこで、町の名店となると、いろいろあるのだろうが、僕にとってはやはり「味愉嬉」(ミユキ)ということで、三年前の夏に直行、息子さんが釣れたばかりの、材料になる「エソ」を見せてくれて、楽しくスケッチしながら、炙った皮の浮かんだ、あっさり味の出汁に浮かんだうどんを、満喫。たっぷりのごまだしを出汁に溶いた蕎麦猪口に、「釜揚げ」のように手繰って食べる、素敵な醍醐味だった。
身が柔らかく、何となく美味いが、青魚と白魚の中間で、小骨が多いというイメージのエソが、鋭い、鮫のような歯を持った魚であることも知り、急に親近感がわいたものだった。
古里尾道には、蒲鉾文化があり、この「エソ」を湯がいて練った、素敵な練り物の宝庫だ。(「桂馬」という名店は、僕の幼なじみの、村上の佳子ちゃん夫婦が経営する、大尾道ブランドだ)海を隔てて、昔の海賊なら風で尾道からひとっ飛びで来れたはずの、佐伯で、名品「ごまだし」を仲間たちと頬張る僥倖に恵まれた夏であった。
 今回もまた、彼、跡取り息子さんは僕たちのこと、三年前のことを覚えてくれていて、腹びれを焼いた珍味などを、大ご馳走してくれたものであった。 

[ 冗談からコマ、佐伯の、「テトラ」ミュージアム ]
いきなりごまだしの話で、そこから、どう、佐伯のマリン・ミュージアム化を展開しようかと思案しながら、話始めたが、僕の念頭にあったのは、昔あるレクチャーで、畏敬する宗教人類学者の植島啓司さんが、話しておられた、古代日本人「海洋民族説」のことだった。
鱗紋、つまり三角紋が、蛇の鱗から由来して、その脱皮し、生長する質の、縁起の良さから、帯や着物やいろいろに、女も男も好んで使った、というのは、良く知られたことだろう。(註3)
 植島さんは、古代の偽書や偽典に出てくる、天皇の姿には、多く、尾鰭や背びれや、鱗がついていて、ほとんど、人間というより、魚か何かのように、描写してある、という話をされ、それが応神天皇(宇佐神宮の祭神、ときくが)までなのであって、それが、日本人の海洋起源説を支える、有力な要素?なのだ、という話をされた、と記憶する。(註4)
じつは、今回の僕のレクチャーは、語呂合わせみたいな、冗談交じりのものでもあって、この「三角紋」を、テトラ構造、つまり、かの、アメリカの二〇世紀が生んだ、天才的建築家、科学者だった、ロバート・バックミンスター・フラーのドーム建築の、基本構造に準えたものであった。(註5)
僕が小学校六年の時に、大阪万博があって(昭和45年、1970年ですね)、前年にアポロ11号が持ち帰った、月の石を見に、じつに日本人の二人に一人が、アメリカ館に列を成した(じつは、そこに、清貧で、祈りと労働に暮らした、アメリカの原理主義的人びと、シェーカー教徒たちの家具が、「文明批判的なもの」として、展示されてあったことは、ほとんどの日本人が、覚えていない)。戦後二五年、四半世紀経って、「戦後は終わった」と言われ、驚異的な高度経済成長が、ほぼ横ばいになる年であった。(この年の十一月終わりに、あの三島由紀夫が、市ヶ谷自衛隊駐屯地に乱入して、自決した。)
 その前の、モントリオール万博のアメリカ館を、この「テトラ力」のテンション構造で、大ドーム建築として、設計したのが、このフラー大先生だった。しかも、そのアメリカ館最大の出し物が、世界初の最大級テレビ・ゲームの元祖だった、「ワールド・ゲーム」だった。(註5)
 「ワールド・ゲーム」とは、当時として、分かる限りの、人口や水、石炭、石油などの天然資源を世界地図上にインプットして、それをどう移動させると、「この地球という生命が、生き延びられるか?」という、地球環境的元祖ガイア思想の出発点だったものだ、という。(註5)
 そして、最後に、「語呂合わせも、ここに、極まれり、という感じで、僕が勝手に希望する、未来の佐伯のミュージアムには」、やはり、フラーの弟分だった、二〇世紀きっての彫刻家イサム・ノグチの創案した、代表的遊具「オクテトラ」を設置しましょう、と冗談交じりに提案して、香川のイサム・ノグチ財団の学芸顧問としての、「ビジネス」に走った?のであった。
 けれど、ともかくも、僕がぜひつくったら良いと思っている、佐伯の来るべきミュージアムは、規模は小さいが、世界的にオシャレなものになるに違いないだろうし、もしかして、その庭には、イサム・ノグチの「オクテトラ」があって、建物全体が、フラー・ドームだったら、もう、「俺が、俺が」と自己顕示欲満々の、現代建築家なんか、もう要らないんじゃないか?そういう「市民が建築家」なんていう、今時めったにない僥倖?になるのじゃないんでしょうか?ということで、お後が、よろしいようで。


第二部:「日本一文化的な市長に、文化とは何かをきく」

[ 政治家離れした、精神(こころ)の革命家、田中利明市長が提唱する、「佐伯楽園ミュージアム」構想 ]

 竹田の次は、第二回、佐伯だな、と「たびするシューレ」の一月開催場所の話になった時、僕は、真っ先に「そりゃ、標的は、田中先生だろ」と思いついた。
 それは、田中さんが、市長だから佐伯で有名とか、そういう話じゃなくて、何しろ、ほんとうに、「生きることの究極の目的は、皆が、気持ち良く、楽しく、仲良く、暮らし、心が豊かになること、楽園づくり」と信じる、またそれを実行する、希有な文化人である、と思うからだ。
 「政治とは、モノや金を持ってくることだけじゃなく、究極的には、人間の心を豊かにすること。楽しく生きて、皆が幸せになるようになって(宮澤賢治「雨ニモ負ケズ」ですな)、黄金のオーラを持ったような、高次元の魂に、皆がなることだ。」という、驚異的な発言が示すように、これはミュージアムの館長として、「まったく、お互い、同じ目的ですね」と同感共感する部分、百パーセントの超人的御仁なのだからであった。
 僕が、何で地縁も無かった大分に来たのか、というと、もう、かれこれ七、八年も前に、突然、武蔵野美大の学長室に呼ばれ、当時の甲田洋二学長に、「大分県に、新しい美術館が出来るらしい、一つ、お手伝いに行ってみませんか?」と言われたのが、事の始まりだった。
そこで初めにお会いしたのが、甲田先生と油絵学科で同期だった、画家黒川先生(県立芸術緑丘高校の美術の先生を長くされていた)の義理の弟さんで、当時県議だった、田中利明先生だ。
 ご自分は、芸術文化とは縁の無い政治一筋の男、と謙遜されるけれど、たぶん、書家(たしか?ご本人に未確認)であったご家系の血筋を継いでおられると、拝察した。余談だが、僕の女房は、「田中先生、ダンディーですからね」と大ファンでもある。
 その後、僕らは、大きな開館記念展を準備しながら、開館準備に東奔西走していたが、第二回の開館記念展を、「東西のヴィーナスの出会い」と決めて、宇佐は天福寺の日本最古という木造仏像と、世紀末ウィーンの美神、グスタフ・クリムトの最高傑作、「ヌーダ・ヴェリタス」(真実の裸身)を、大分で出会わせよう、と僕は、思いついて、その交渉に取りかかった。(註6)
 そういう僕らの計画に、大賛同してくださったのが、田中先生で、結局、田中先生を団長とする議員団は、僕とウィーンで落ち合って、所蔵先の国立演劇博物館に、その国家的至宝(一度海外へ貸し出したら、数年は、国外に貸し出せない)を大分に招聘すべく、トーマス・トラビッチュ館長に、嘆願書を手渡してくださった、という経緯があった。
だから、僕らが「日本一文化的な市長」と田中先生を呼ぶのも、かなり、妥当なことと、僕は信じているのである。

[心の問題、モノ、だけではない!]
 僕らは、田中先生の、抱腹絶倒、本音そのまま、包み隠さず、誠心誠意、赤心のままの姿をお見せになった様子を楽しみながら、トークの聞き手カモシカ書店の岩尾晋作君との、熱狂弁舌に、時間も忘れて聞き入った夜だった。
なかでもやはり、僕らがいちばん動かされたのは、終始一貫、「金や、モノ、物質の豊かさだけではなく、心の豊かさを市民に与えたい」という言葉の一言に、尽きると思う。
余談だが、田中先生ご夫妻には、子供さんがおられない。
すっきりと恬淡とした生き方、「市民が子供だから」と心から言われる、その嘘のない赤心に、心洗われる思いのした一夜だった。
 皆さん、素晴らしい方方ばかりで、屈託なく笑い、楽しく語り、美味しく食べ、ぞんぶんに楽しんだ、更けるのが惜しいような、佐伯の一夜だった。
会場の「 Coffee 5 」は、隅々まで、繊細で澄んだセンスの横溢した空間で、また、吃驚し、内田豪さん夫妻の頑張りというか、「佐伯流のオシャレ」が根づいているのにも、舌を巻いた。
 車で深夜送ってくれた、阿部さん、ありがとう。
翌日、「肉の城南」の鶏唐揚げ、手羽三本、腿三本、買って帰ってくれた、別府プロジェクトの竹尾真由美さん、ありがとう。
 そして、国民文化祭の広報ディレクターの市川靖子さん、元気いっぱいの熱気中継を、県民全体に伝えてください、どうぞよろしく、お願いします。
後は、岩尾晋作君の文章力に、委ねます。

(註1)
 田中希代子については、畏敬する遠山一行先生の説や、KING RECORS版、CDの解説を書かれた、藤田由之さんの論から借りた。
(註2)
 サッフォーについては、偉大な訳業をされた、沓掛良彦さんの論から借りた。
(註3)
 室礼の宗匠であられる、山本三千子先生のご講義より借りた。
(註4)
 植島さんが、そのレクチャーをやってくださったのは、僕らが、北山ひとみさん、美優さんと主催する、新しい文化運動体、「アート・ビオトープ那須」におけるオープンカレッジ「山のシューレ」において。たしか、2014年だった、と記憶する。
(註5)
 フラーの、テトラ的テンション構造や、アメリカ館のワールド・ゲームなど、僕は、正確に理解しているかどうかは、自分でも恥ずかしいが、極めて疑わしい。ただ、フラーについての知見もすべて、かつて日本にも巡回したフラー展を企画し、図録も執筆した、チューリヒのデザイン美術館の学芸員、クロード・リキテンスタインの論から借りている。
(註6)
 「最古」というのは、別府大学の飯沼賢司先生の説を借りた。

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