メンバー募集し過ぎたときの話

私は2000年度(1999年7月~2000年6月)、祭響スコブルのメンバー募集課に所属していた。
メンバー募集課は4人+スイスイ1名(業務スイスイ部、統括役員。本来は初期準備人の役職)の5名で動いていた。

課長・副課長・平部員2名。平部員のうち1名が私。

私はメンバー全員の顔と名前と役を一致して覚えていることと、前年度に配布された連絡網があまりに使いづらくて頭にきて、班毎・五十音順にした連絡網を作った実績があったことから、名簿担当になった。

とはいえ基本的には全員が見学者対応することになっていて、初めの頃は冷や汗流しながら、ガチガチでチームの説明をしていた。

本祭後と、新体制になって間もなく、何事かのいざこざがあって、ごっそりメンバーが辞めた。練習仕切りのキーパーソンまで辞めたので、ぎゃー、である。

ごっそり辞めたメンバーが移籍した先で、一番人数が多かったのが、振付に國友須賀先生を迎えて立ち上げられた新チームで、VOGUE038の前身にあたる、Vogue la ga-lere(ヴォーグラガレー)だったというのは、それから半年以上先、2000年3月の話となる。

さて、メンバー募集課では離脱者はいなかったが、チームの状況がそんなんだったから、2000年のメンバー募集課の目標は、メンバー150人達成。
裏目標は、「辞めた人を後悔させてやる」だった。

もっとも、私も他の人も、本当に150人集められるとは思っていなかった。前年度にもメンバー募集のためにポスターを描いたり貼ったりしたが、本当にぎりぎりまで集まりきらなかったのだ。

だが、幸か不幸か、2000年の2月中にメンバー150人を達成してしまった。あれれ。

メインはやはり口コミだったが、あとは主にフリーペーパーなどのメンバー募集欄が、当時はとても強かった。
1999年の本祭後に入ってきた人も多かったが、2000年の1月辺りから、友達同士の数名での入会が相次ぎ、あっという間に150人達成。

メンバーが150人になったとき、ミーティングを開いて、今後どうするか話し合った。
そのとき、
「いやー、ほんとに150人集まると思わなかったね」と、私も含めて言ってたら、課長が
「なんだ、みんな信じてなかったのか。俺は最初から、150人集まると思っていたよ」と言った。

課長は普段はちゃらんぽらんで、カタブツの私とはよく喧嘩していたが、不思議とこういうことにとても強い人だったなあ。

しかしだ。150人集めたら、その先どうするかを決めていなかった。
YOSAKOIソーラン祭りの審査では、メンバーは最大150人と決まっている。なので、これ以上増えると審査のときには外れる人が出てしまう。

祭響スコブルは、全員がステージに立つ踊り子か、ないしは声だし(あおり)で、バックヤードは会員以外の、メンバーの家族などがサポートに入ってくれていた。
だから当然、踊り子しか募集していなかったし、会費も全員同じだ。

例年、メンバーを集めても、どうしても途中で抜けてしまう人が出る。仕事で転勤とか忙しくなってとか、家庭の事情とか。

なので、その減少分を見越して、結局メンバー募集はそのまま続けられることになった。

確かに予想通り、入会はしたけど続けられなくなった人は何人か出た。
けど、それでも150人を割ることがなく、最終的にメンバーは167人になった。なってしまった。

振り落としからフォーメーション練習に入るには、今度こそ本当に、メンバーを絞らなくてはならない。

私が同席していなかった会議で決められたのだが、

・本祭参加費などの支払いをちゃんとしない人
・練習の出席率が悪い人

などが除外者の対象になる、と決まった。

そう決めたはずだった。

だが実際に選抜で外されたのは、いわゆる「踊れない人」で、実際にろくに練習に来てない、支払いも遅い、踊りがうまい「だけ」の人は審査のフォーメーションに入っていた。

我々はクラブチームとして、やっちゃいけないことをした。

嘘をついた。
きちんとお金払って、練習にもちゃんと来ていた、踊りたくて入って来た人を外して、本祭で踊れる機会を大幅に減らした。
そしてその逆のクズを厚遇した。

練習のときや、本祭中の空き時間に、150人編成バージョンで踊っているとき、外された人達は、何とも表現し難い顔で、みんなが踊っているところを見ていた。
その姿は、今でも覚えている。
本当に、申し訳なかった。

だから、日曜日の爆弾テロ事件のとき思ったんだ。
やっちゃいけないことをしたから、ばちが当たったんだって。

私達のパレード審査は日曜日に行われる予定だったが、爆弾テロ事件のため、大通パレードは全て中止された。

私達は1回も大通パレードを踊ることなく、2000年の本祭を終えた。

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