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立庭和奈のこの言葉に響きあり 10

   窮鼠猫を噛む   (追い詰められた鼠が行き場を失い、普段は逃げるべき猫へをも襲いかかる姿から転じて、弱いものでも窮地に立つと、無我夢中で反撃に打って出る様の例え)  この言葉を思い起こす事になったのは、ロシアとウクライナの紛争を取り巻く世相です。今、様々なメディアが二国間の状況を報じています。また、現代という社会背景を反映して、SNS等を使用した個人の発信する情報も、種々飛び交う状況です。その様な中、はたと気づく事になったのは、IT等の技術は、現代において急速な発達を見せているものの、それらを扱う主体である我々人間は、果たして時代と共に進歩していっているのだろうか、もっと言えば、自分たち自身が経験してきたはずの歴史から、学びを得ているのだろうか、という疑念です。そんな思いを引き起こすキーワードとなったのが、冒頭の「窮鼠猫を噛む」というフレーズなのです。

   今年日本は、先の大戦である第2次世界大戦の戦後77年にあたります。今からおよそ80年前のその頃、日本も、このロシアとウクライナを取り巻く状況と、同じような渦中の真っ只中に置かれていたのです。それは、当時の日本の軍隊が、他国である中国大陸に進駐していたと言うことに現れています。その当時の歴史的背景を知らない現代人からすると、「何で?」と、いうことになるのではないでしょうか。その様子が正に、ロシアがウクライナに攻め込み、その事をメディアで窺い知る事になった私達が、「何で、どうして?」と、驚愕を持って受け取る姿に、オーバーラップしていると見てとれるのです。この時必要になるのは、当事者ではない、遠く離れた他国の私達が、ロシアとウクライナの紛争の経緯を知ることは、困難であるという前提に立って、物事を判断しなければならないという事です。事実これに似た事態を、私達日本は、およそ80年前に経験しています。当時にあっても今の時代にも、資源の乏しい小国の日本という国が、資源も豊富な大国相手の全面戦争へと、突入していった理由を説明する事は困難を極めす。その時の心情は、同じ日本人であっても、昭和一桁生まれで、尋常小学校に通った世代まででないとわからないと言うことが、歴史の研究者によっても言われています。何故なら「夫婦喧嘩は犬も食わない」と、言われるように、当事者の細かい心情は知り難いものだからです。 因みに、その当時の日本人の言い分を理解してくれた外国人をあげるならば、東京裁判で日本の無罪を主張したインドのパール判事。朝鮮戦争を経験し、戦前からの日本の立場を身をもって理解することになり、自らは戦争犯罪で日本を断罪した後にもかかわらず、アメリカ上院軍事外交合同委員会の聴聞会で日本が戦争に至った経緯を説明して
“Their purpose,therefore,in going to war waslargely  dictated by security.”
(したがって彼らが戦争へ飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです:訳   渡部昇一)
と証言して侵略の意図を否定した、マッカーサー等です。
   
   戦前日本は、ABCD包囲網により、当時の主要取引国であったアメリカA、イギリスB、中国C、オランダDから石油や鉄等の輸出規制、禁止の経済的な対日包囲網を受け、追い詰められて行きます。資源の乏しい国に対して、それらの物資を禁輸にすることは、遠回りに日本の息の根を止めることになりますので、これが遠因となってこれ以後、日本は、連合国との戦争やむ無し、という方向へ向かうことになります。これをロシアとウクライナの紛争に当てはめて敷衍すると、ロシア政府に戦争資金が行き渡らないように、という理由で、ロシアに対して禁輸等の制裁措置を国際社会が一致団結して行う行き先は、戦前の日本と同じ結末になるのではないか、と言うことです。当時日本が持ち合わせていたのは、精神力です。勿論暫くの戦略物資の蓄えはありましたが、政府は一般国民と最前線の兵士の精神力を頼みに、一転突破を試みたのです。翻って今のロシアの切り札には、核兵器が存在するのです。国際社会が西側陣営と歩調を合わせてロシアを締め付ける先のシナリオは、火を見るより明らかなのではないでしょうか。

   ロシア許すまじ、という論法は西側陣営と共に、自らも対立する陣営の一プレイヤーになってしまう恐れをはらんでいます。これは、第2次世界大戦が、連合国と枢軸国の対立軸で争われた構図と一緒なのではないでしょうか。幸い現在は、イスラエルが仲裁をかってでるなど、ロシアに対する包囲網が閉じられたわけではありません。しかし本来、日本というこの国が、両国間の停戦に向けた対話の機会を実現すべく、粘り強く努力する役割を担わなくてはならないのです。その理由付けとして、ウクライナに対しては、歴史的に大国に隣接する小国の立場の難しさを理解する素地があり、ロシアに対しては、自国の立場や利益を守るためとはいえ、国際社会を敵に回してしまった経験値を発揮し、西側諸国やその他の諸外国に対しては、そもそも憲法で戦争放棄をうたっている事からして、日本は国策として平和を実現することを掲げており、常にどちらかの勝利を願う立場にはないこと。国策として平和の実現を目指している以上、両国間との国交を継続することは、戦争荷担の理由付けにはならないこと。よって、その様な憲法を掲げる国として、ロシア、ウクライナの双方ともとの間で、国交や取引を続けることは権利であり、それぞれの言い分はどうであれ、両国間の停戦、終戦に向けた、対話の機会を引き出すことを実現すべく努力することは義務である。そういえるのではないでしょうか。ね。

   
  
   

いつの世も 人の出会いは ゆくりなく 見えぬ糸にて 繫がれしか