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友寄隆哉の音楽講義 :Vol.1:日本人は、なぜ世界に通用しないのか!?:ジャズ&ロックギター、ピアノ、管楽器、作編曲(2021 5月28日)


さっそく感想、第1号が来ました。ありがとうございます!

『note、拝読致しました!

最近、Twitterで触れていることを反芻しつつ動画を観ながら興奮して読みました。

>何が弊害になるのか、##########################だと攻撃するわけですね。

この言葉を10代の時に知り、壁に貼っておきたかったです。

ロックやメタルをやり、音楽雑誌を開くとギターヒーロー達は口を揃えて「個性を大切にしろ」と言っていましたが、個性とはなんぞや?と常に考えていました。
このnoteは確実に読んだ新しい若い世代の指針となると思います。
vol.2 がもう既に楽しみです!』(2021年5月29日、30代男性、東京在住)

さて、今年、2021年4月23日に、9冊目の本として、ついにギターテキストを出版しました。音源だけ、無料ダウンロードも可能です。

このギターテキストの出版の理由の詳細は、以下にあります。

私は、2000年に”ジャズはなぜ死んだか?”というブログを主宰して、そのコラムの中に、”日本人は、なぜ模倣するのか?”という問いかけをしたコラムがありました。

結論を簡単に述べると、日本人の楽器弾きミュージシャンは、”そっくりさん”が多いんですね。

それは、ギタリストは当然として、管楽器奏者であっても、鍵盤楽器奏者であっても同じなんですね。

しかし、それは、仕方のなかった事なんですね。

現在も日本は、鎖国されている?K国と同じ状態だと言い続けています。

なぜなら、日本で流行った曲は、太古の昔から?、現在まで、日本人しか知らないからです。

それなのに、米国で今日ヒットした曲は、世界中の人が聴いているわけです。

こんな不公平がありますでしょうか?

しかし、これが現実です。

そんな日本人が、簡単に世界に通用するわけないじゃないですか!?

今年、2021年は、ゴルフの松山 英樹(まつやま ひでき、1992年2月25日 - )が、ついにマスターズ優勝。

『小笠原アナは「ついに日本人がグリーンジャケットに袖を通します」と声を振るわせながら、「日本が招待を受けて85年、ついに、ついに世界の頂点に、松山は立ってくれました」と力を込めた。優勝を決めた松山選手が、仲間と抱き合うシーンでは、嗚咽し、泣きじゃくる仲間の声が漏れ聞こえていた。大歓声の中を歩く松山選手。優勝を噛み締めるように、何度も頭を垂れ、瞬きを繰り返し、目頭を拭う様子を見せた。』

ゴルフ界で、85年掛かって、世界の憧れとなるスターが、ようやく生まれたわけです。

もちろん、音楽界でも、世界に名を轟かした日本の音楽家もいますが、その大半は、譜面演奏が中心のクラシック音楽界のことで、新たに音楽を創造しなければいけないポピュラー音楽の世界は、まだまだハードルが高いのが現実です。

こんな話題では、本は出版できませんので、今回から、なかなか、出版できない話に限り、ちょっと、コーヒー一杯分?の授業料で話して見たいと思います。

個人的には、本にはなかなかできないけど、死ぬまでには、次世代に伝えて置きたい話をピックアップして講義して見たいと思います。

講義では、YouTube動画も活用はしていますが、基本的には、動画はサービス程度です。再生できない動画が発生したら、また何かで補うか、そのままにするかは不明ですが、時折、チェックはして見たいと思います。


PS:この記事を書いたのが、2021年5月28日です。
今年(2021年)10月21日、反田 恭平(そりた きょうへい、1994年9月1日 - )第18回ショパン国際ピアノコンクールで第2位に入賞。2位はアレクサンダー・ガジェヴと同時受賞であり、同コンクールにおける日本人歴代最高位タイで、内田光子以来51年ぶり2人目



今回(第18回ショパン国際ピアノコンクール)で優勝した日本では、話題にならない第1位のブルース氏

2016年、第6回仙台国際音楽コンクールのピアノ部門で第4位に入賞

ブルース・シャオユー・リウ英語: Bruce Xiaoyu Liu: 刘晓禹: 劉曉禹1997年5月8日 - )は、中国カナダ人のピアニスト第18回ショパン国際ピアノ・コンクール優勝者。(2021年10月18日、受賞時、24歳)

幼い頃趣味で一人で電子ピアノを弾いていた。8歳の時にウォニー・ソン に習い始める


内田 光子(うちだ みつこ、Dame Mitsuko Uchida DBE、1948年12月20日 - )1970年 - ショパン国際ピアノコンクール第2位

内田光子は、ショパン国際コンクールで第2位となったが、日本では、冷遇されました。

1971年、英国ウィグモア・ホールでの演奏会にて、ロンドン・デビュー。1972年に拠点をロンドンに移す。ヨーロッパを中心に活動するが、1970年代は不遇の時代であった。東芝EMIなどで細々と録音していたが、大手レコード会社からのオファーは全くなかった。日本では、演奏会を開くことすらままならず、両親がチケットを売りさばくことに苦心していた。本人は「私は日本の音楽大学を出ていなかったから…」と当時を振り返っていた。自主開催や労音などの地方公演、恩師である松岡貞子の配慮で開催していた科学技術館・サイエンスホールにおける公開レッスンなど、金銭面では有難かったが非常に不本意な時代だったと回想している。



1:日本への米国音楽の上陸

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私にもし時間があれば、これまでのように音楽作品を創造したり執筆する時間が作れます。時間はお金です。両方なければ、ただただ毎日をサトウキビ畑でbluesを口ずさみながら働くしかありません。そうして来たのですが、自分の年齢を忘れてました!😱 サポートお願いします🙇‍♂️