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備忘録:想像力の欠如について

 いまこの文章を書きはじめたのは、5月24日の0時を少し回ったところ。東京都内の新型コロナウイルス新規感染者が減少傾向にあり、週明けには緊急事態宣言の解除が視野に入ってきた。

 この外出自粛期間が明ける前に、一つだけでもなにか書き残しておこうと思い立ち、突如筆を取ってみた。すぐに消すかもしれないし、定期的に見返したりするかもしれないが、あくまでいち個人の記録と考え方を淡々と書き殴りながら思考を整理するためのものだと思ってほしい。

 この数ヶ月を長く感じた人も、短く感じた人もいただろう。眠れない日々を過ごした人も多かったことだろう。自分がどうかと言われれば、いち会社員・人間として、日中は仕事に、休日は家事に、そして保育園閉園により行き場をなくした息子の育児に日々追われ、体感時間としてはあまり長く感じなかったかもしれない。とはいえ、色んな人の話を聞いて、その苦境や状況に対して自分なりに考えながら可能な限りの寄付やアクションは起こしてきたし、それらの話を踏まえて、自己と向き合う時間を長く取ることはできた。

 仕事中はもちろん、それ以外の時間でも、なるべくSNSは見ないようにしていた。あれだけ自分の人生において有益だったソーシャルメディアは、今や勝ち残ったとてより強い呪いになるだけの蠱毒になってしまったからだ。時代が時代なら妖怪怪異の類になって語り継がれていたに違いない。その壺にポンと投げてみる手もあったのかもしれないが、小難しく考えていることの全てを140文字のなかに詰め込めるとは思わないし、それができることを編集力だとも考えていないし(それは1を10にして喧伝できる上手さなのであって、言いたい本質が1でしかない場合は、それが1であると多くの言葉を尽くすしかない)、数少ない友人に投げてみたところで、気を遣い合って穏当なところに着地する結末しか見えなかったのでやめた。

 かといって映画を観る気にもなれず、音楽やラジオを聴いたりしながら、ひたすら本を読んでいた。積ん読の消化はもちろんのこと、先日30歳という人生の中盤に突入したこともあり、自分の価値観を作り上げた本をもう一度読み直し、細かい部分を修正しながら再インストールがしたかったのかもしれない。

 ほとんどが自分にだけ有効なのであって、ここへ書くに値しない書籍たちではあるが、とくにこのタイミングで読んで良かったなと思えるのはトム・ニコルズ著・高里 ひろ訳の『専門知は、もういらないのか: 無知礼賛と民主主義(THE DEATH OF EXPERTISE. The Campaign against Established Knowledge and Why it Matters.)』や、イーライ・パリサー著・井口耕二訳の『閉じこもるインターネット: グーグル・パーソナライズ・民主主義(The Filter Bubble: What the Internet is Hiding from You,Elyse Cheney Literary Associates.)』あたりだろうか。

 前者は政府やメディアや大衆が感染症の専門家を軽視している(委員会を作って登用することは前提条件であって重視ではないし、専門外である行政上の動向について断定的に語らせたり、ましてや政治的な意思決定をさせることは専門性の軽視であると考える)現状を踏まえると、改めてこのままではまずいと危機感を募らせるものであったし、後者はあくまでGoogleの検索結果を前提とするものであったが、キュレーションメディアや大手ポータルサイトまでがすべてパーソナライズ化されてしまった2020年においては、より一層刺さる。

 この2冊やそれ以外の書籍を読んでいても思ったのだが、あらゆることは想像力の欠如でしかないのかもしれない。最適化が進んだことで好きな人やものしか見なくなり、好きではない人の立場を想像できなくなった結果、人間として扱わなくなったりする。知識は概ねあらゆる可能性について考えるためのものであるのに、受け手の想像力が欠如していることで、専門家が考えて出した複数の道筋よりも、強い言葉で1つの道を断定したほうが偉い、賢いと錯覚するようになってしまった人も見てきた。

 そんな感じで問題の核はなんなのか、ということには容易に辿り着くことができるわけだが、かといってこれに対する答えを持ち合わせているわけではない。実際にこの文章も、迷いながら書き進めている。ありがちなことを言えば、自分を全能だと思わないことが重要だと思うし、相対する属性があることで自らの実像が映し出され、結果として世界や社会が成り立つのだから、嫌いであったり認めない存在に対しても、一定の敬意は払うべきである、と考える。もう一つ付け加えるなら、目の前の端末は全能ではない、ということだろうか。自分自身を全能だと威張り散らすまではいかずとも、自らが得ている情報が全て正しいというバイアスを原動力として加虐的になってしまっている人は、まあまあ視界に入っているように感じるからだ。

 だめだ、締め方がわからなくなってきた。ともかく、想像力の欠如は人を殺せるナイフにだってなるし、それが束になれば政治や社会を衰退させることなどいとも簡単にできてしまう。だからこそ常に、あらゆる物事について複数の視点から思考することだけは絶対に止めてはならないと思ったし、それをするには知識が必要だ。そして、その知識によって自分の持つ刀の切れ味が落ちることも受け入れ、曲芸だけが上手い人のことを羨まず、最も地味で愚鈍だとしても、一歩一歩を考えて知識を自身の血肉としながら前に進み続けるしかないのだろうと決意を新たにした、というだけの話。

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