【紀行文】星降る中部高地にて大地の力に圧倒された~山梨県立考古博物館 その1
魚尻ラインを支えた中道往還の出口にある風土記の丘
静岡から山梨に至る道は複数あるが、私がよく使うのは旧中道町を通る国道358号線、通称「中道往還」である。
その昔、駿河湾でとれた海産物(特にマグロ)をその日のうちに運ぶことが出来たライン、これを「魚尻ライン」というのだが、甲府はその圏内にあった。故に、この甲府には意外と新鮮な生魚が運び込まれていたらしい。
信州に縄文文化を訪ねる旅をした帰り、連れの学芸員が「ここの県立考古博物館もいいんだけれどなあ」とぼそっと囁いた言葉が忘れられず、慌ただしかった年末年始の喧騒が落ち着いた1月最初の土日、ここを訪れた。
今年の冬は、心配なほどの暖冬だが、この日は空気が澄みんで感じられるほどの寒さがあり、富士宮の朝霧高原を通る際には、右手に雪を山肌に荒々しく這わせた富士山を横目に見ながら、中道往還を通過してきた。
青空が澄み渡り、風土記の丘がある曽根丘陵公園は、散歩するにも気持ちの良いところだった。時間ができたら、公園内にある銚子塚古墳を見て回ろうと思っていた。
能登半島地震でフォッサマグナが気になってきた
1月1日に能登半島を襲った大地震の影響は私の住む町でも、震度3という形であったのだが、フォッサマグナ上の地震であり東海地方の地震と関連して報道する向きもあったので、心配になっていた。同時に、フォッサマグナについて知りたくなってきた。
山梨県立考古博物館の展示内容を事前調査していると、なんと「発掘が語る地域交流~フォッサマグナがつなぐ 新潟 長野 山梨 静岡」という四県の合同企画がちょうど催されていた。なにか符号めいたものを感じ、わくわくして考古博物館のゲートをくぐった。
考古博物館内へ 時代区分ごとに整理された見ごたえのある展示
山梨県立考古博物館は、県立の博物館として整備されているだけであって見やすいレイアウトがなされている。倉庫のような博物館もある中で、県立を冠にした博物館は、ビジュアライズが段違いである。私のような素人にはとても見やすくわかりやすい展示で見ごたえがあった。
旧石器時代
縄文時代
弥生時代
古墳時代
歴史時代
常設展は、大きく5つの時代に区分されていた。
圧倒的ボリュームで縄文時代の土器などが並んでいたように思えるが、もしかしたらそれは私の興味のせいで、そのように見えただけかもしれない。
甲府盆地と伊豆地方は昔からつながっていた
冒頭に魚尻ラインの話をしたが、もっと具体的に言うと沼津辺りの駿河湾で早朝に獲れた魚は、そのまま富士から富士宮を経由し、精進湖あたりから中道往還に入っていった。今でも深い山の中をうねうねと走る道であるが、当時も険しい道であっただろう。しかし、標高も高く気温も低いため、魚を低温状態で運ぶには適した道だったに違いない。その日の晩には甲府の人々の食卓に上っていたということだ。
その逆のルートでその昔は、黒曜石やヒスイなどが運ばれていたのかもしれない。愛鷹山麓周辺の遺跡では、八ヶ岳周辺を産地とする黒曜石や神津島産の黒曜石が見つかるらしい。八ヶ岳産のものは、きっとこの中道往還あたりを通ってきたのだろう。それよりも時代は下るが、古墳築造期、そう魏志倭人伝の卑弥呼が活躍する時代あたりの甲府盆地と駿河をつなぐ証拠がすでに発見されているというのだ。
私は静岡県民だが、先祖をたどると甲府方面から出てきたという話を周りでよく聞く。交通網が発展した近年の話ではなく、中世、そして数千年、数万年前から交流が繁くあったのである。
今年は、縄文の遺跡と神社を巡る旅へ
昨年、折口信夫から和歌へ、和歌から古代へと興味がいろいろ広がってきた。信州で出会った古墳や土偶で縄文時代の面白さを知った。
縄文~古代の人々の精神世界と今に残る神道文化のつながりを知ることが今の楽しみだ。
どれも先行する研究が豊富にあり、各地に博物館もある。
特にこの地域の縄文文化に関しては、文化庁の日本遺産の指定になっているので、これに沿って各地を巡っていこうと思っている。
これらの文化資源を巡る旅を今年はしようと思う。そしてそれをnoteにまとめる。良い目標が出来たぞ。
四県合同企画までこちらの記事で書こうと思いましたが、長くなりましたので、分けることにします。
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