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【紀行文】失われた神々を探して~神長官守矢史料館編 その2

失われてしまった神事の記録 

神長官守矢史料館は、モダンな外観で庇を突き破る四本の柱が印象的だ。

 神長官守矢史料館は比較的新しい建物だ。著名な建築士の設計による平成の建築物らしい。私は素敵な形だと思った。
 守矢家は既に祭祀を行っておらず、代々口伝で伝わってきた祭祀の内容などは失伝してしまったという。その膨大な資料は茅野市に引き継がれ、保管されている。

 この史料館には、鹿の首を捧げる奇祭と総括してしまってよいのだろうか、御頭祭を復元した資料がならんでいる。
 この復元資料の詳細や祭りの具体的なことは、史料館で販売している神長官守矢史料館のしおりを参考にすることができる。
 ここで、孫引きのような形で書いてもよいのだが、羅列的になるので、気になったところだけ記録的に書き留め、あとは思いつくままを書き綴りたい。 

欠かせない「鹿」の存在

史料館に入るとこの鹿の首に圧倒される
左隅に見えるのが白兎の串刺しだ。狩猟文化のにおいを濃厚に感じる

 狩猟の時代から、鹿は人々の身近にあった「食材」だったのだろう。鹿肉を常食としていたことは、考古学的にも裏付けられているようだし、狩猟の対象として、熊ほど危険ではない狩りやすいものだっただろうし、私も食べたことがあるが意外とうまい。
 奈良公園ではシカは神の使いとされているようだが、ここ諏訪ではどのような位置づけだったのだろうか。少なくとも、諏訪の神に対しては生贄としてささげられていたようだ。先に挙げたミシャグチ様には、おそらく今でも鹿が捧げられている。
 資料には、古代末期(仏教伝来後か)は、肉食が忌避されていたが、諏訪社では鹿が神事に欠かせなかったため、鹿食免や鹿食箸というのがあった。これを所持していれば鹿を食べてよかったということが書いてある。
 肉食が忌避されていたのは、仏教的な理由からでそれで生活できる貴族はよいが、鹿を食べることが常態化していた諏訪の人々には受け入れがたいものだったのだろう。それで神様の力を使ったのかもしれない。人々はしぶといのだ。 
 ここまで、考察した後、ふと諏訪大社を本社とする諏訪神社が全国にあるのはなぜか、という疑問が頭に浮かび、そして自然とその答えが分かったような気がした。
 ”シカ肉を食べたかったのは、諏訪の人々だけではなかったのだ”

業尽有情(ごうじんのうじょう) 雖放不生(はなつといえどもいきず) 故宿人身(ゆえにじんしんにやどりて) 同証佛果(おなじくぶつかをしょうせよ)

諏訪の勘文より
鹿食免と鹿食箸

 仏教の教えによって肉食・殺生が禁じられている中で、生み出された折衷案ということなのだろうか。諏訪大社から与えられる鹿食免の中には、上にあげた諏訪の勘文というのがあり、簡単に言うと「動物を食べてもいいよ」というお許しだ。
 これを求めて全国に諏訪神社は広がった・・・そう思えてきたのである。

史料からみる諏訪大社の本当の姿

 史料によると、諏訪大社やこの神長官は武田信玄によって熱く庇護されたが、敵対する織田信長によって放火され焼け落ちた歴史があるらしい。幾度となく時代の権力者により屈服され、信仰の形なども変わってきたのだろうが、残り続けた本質的な何かがあるのでは、そういうロマンが宗教祭祀の中にはある。
 この諏訪地区には、おそらくは朝廷とは敵対勢力だった者たちの風習・文化が残っているのだと思う。
 古事記にタケミナカタとタケミカヅチの戦いの話がある。このうちタケミナカタの「タケ」とは武を意味する接頭語であり、ミナカタはおそらく諏訪湖の事であろうと思われる。つまりタケミナカタは諏訪湖を神格化したものであろう。
 この諏訪湖の神を信奉する氏族においては、原始的な神々への祭り、いけにえが捧げられていたようだ。この諏訪大社の祭りにおいては鹿が欠かせないものとなっており、この鹿の頭を祭る神事はこの諏訪地区が発生とされている。
 そしてこの鹿頭を祀るのは群馬県の赤城山麓の周辺などにもあると言うことだ。諏訪の地区で発祥したこの祭りは、おそらくこの祭りを司る一族が赤城山麓方面に移住したことにより伝わったのだと思われる。赤城山麓には有名な岩宿遺跡などがあり、八ヶ岳山麓と同様豊富な石器の原材料が産出される場所であった。そのような場所において、鹿は生活を支える貴重な動物だったのであろう。

スワ地方の神々の不思議

 みさく神社に祀られているミシャグチ様は、上げ下げされる神のようだ。どういうことかというと、神事によりミシャグチ様はどこからか降りてきて、何かを行い、その後再びどこかへ帰っていく(上がっていく)という伝承が残っている。
 この上下方向の動きは、何を意味するのだろうか。
 単純に考えれば、山やもしくは太陽のようなものが考えられるが、この諏訪地区には、垂直方向にそびえる強烈な存在がある。
 ”御柱である”
 その昔、この御柱にはいけにえがささげられたらしい。このことは、伝えられる御頭祭において、稚児が柱にくくられるという神事が残っていたことが示唆している。人を括り付け高く捧げ、いけにえにする・・・これは鳥葬のようなものを示唆していないだろうか。
 祭祀における鳥は、八咫烏がすぐに浮かぶ。ヤタガラスは三本足の烏であるが、中国の神話にも登場する。こちらは太陽の象徴らしい。
 現代においても、ヤタガラスは熊野権現の使いとされ、熊野権現とはスサノオつまり大国主の使いである。根の国を支配するオオクヌシノミコトは、諏訪湖の成立にも大きく関係してくる。
(ここはまたいろいろ調べているので、また別の旅行記で)

串刺しのウサギ、鹿の脳みそ、などの供物
守矢史料館にあった図では、みさく神社が中央にあり、守矢山をご神体としているようだった

 総括として、本来この諏訪の地には、守矢一族をはじめとする竜神信仰の氏族がいたと思われる。龍神信仰は、蛇や蛙など形をとって表れる。ゆえに、この諏訪地区には、異常に蛇やカエルなどの絵柄や象形がある土器や剣が出土するのだ。(例:フネ古墳の蛇行剣)また、薙鎌と呼ばれる曲った鉄器が守矢家に伝わっている。これは、蛇のような鳥のような不思議な形をしている。実用には向かないので、おそらく祭祀用だろう。

 しかし、この一族はタケミナカタ率いる氏族に敗れた。敗れ、使えることになった。
 ところが、そのタケミナカタも、大和朝廷すなわちアマテラスの系統に敗れ、この諏訪の地に封じられた。諏訪大社の四柱は=死柱であり、7年に一度結界を張りなおさなければならないほど、強烈な力を持った神として!
 それゆえ朝廷に敗れた神でありながら、全国津々浦々に在する諏訪神社の総本山となりえたのだと思う。
 諏訪大社が(神社)が全国にあるのは、その強さの象徴と民衆の鹿食の要求にうまく対応したそれゆえだったのかもしれない。

近くにある諏訪大社上社にも参拝した。


厳かなつくりの諏訪大社の社殿にて

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