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えどのごはん 第6話 全文

たくあん

コリコリコリコリ……
ポリポリポリポリ……
ぷぉり、ぽぉり、ぷぉり、ぽぉり……
コリコリコリコリ……

 吉原の老舗遊郭桃源楼の主人である信五郎の部屋に、だいこんの沢庵をかじる軽快な音が響く。
「きよ、おやめ」
 悩み事があって部屋の中をウロウロしていた信五郎だが、きよ菊花魁が沢庵をかじり続けるもので、気が散って仕方が無い。いちいち睨みつけてはいたが、ついに辛抱できなくなって、手に持った扇子で沢庵をつまむ花魁の手を打った。

ポリポリポリポリ……
 それでもなお、きよ菊花魁は沢庵をかじることを止めない。
コリコリコリコリ……
ポリポリポリポリ……
ぷぉり、ぽぉり、ぷぉり、ぽぉり……
コリコリコリコリ……

「きよ! おやめったら!」
 辛抱たまらず、信五郎は立ち上がって、きよ菊を叱りつける。
 怒る主人をしれっとした顔で見上げ……きよ菊はふうっと溜息をつくと、沢庵をかじる手と口をやっと止める。そして、もう一つ大きな溜息をつくと、ついっと立ち上がり、親父様を見下ろした。
「なんでありんしょう?」
「う……きよ菊、お前……また背が伸びましたね?」
 ここしばらく、信五郎は花魁道中の際に一枚下駄を履いて、大きな髷を結い、成人男性の頭ひとつ分どころか二つ分ほど突き抜けた花魁の姿しか見たことがなかったが……花魁が高下駄を履かずとも、信五郎の身長はきよ菊の眉毛までほどしかなかった。
「あぁら親父様、愛らしや……」
 花魁はクスクス笑って、自分より背の低い信五郎をからかう。
「きよ! あたしをからかうんじゃありませんよ。ちょっと、そこにお座りなさい」
「えー。せっかく立ったのに」
 きよ菊は唇を突き出して頬を膨らせて見せたが……素直に、元の座布団の上に座った。
「きよ。あたしがこんなに怒ってるのは、なぜだかわかりますね?」
「あちきが、野菊姐さんを逃がしたからでありんす」
 そんな大事なことを、まるで迷い込んだ猫の子を逃がしてやったかのようにさらりと言ってのけるきよ菊に、信五郎は眉毛の間にありったけの力を込めて皺を寄せた。
「アンタねえ! いい加減にしなさいよ? 花魁が遊女を逃がすだなんて、言語道断ですよ? 野菊が帰ってきたら、アンタと野菊、二人そろって折檻ですからね!?」
「……帰って……?」
 きよ菊は一瞬、その表情を硬くする。
 だが……次の瞬間、信五郎の部屋に入ってきた誰かの顔を見て、ふっと表情を緩めた。

 音もなく障子が開いて、信五郎の息子……新吉が姿を現す。その新吉に、花魁は親しげに「新さん」と呼びかけた。
「あら、新ちゃん」
 父親である信五郎も、息子の帰宅を喜ぶ。
 だが、新吉は無言できよ菊をにらみ付け……きよ菊が座るその前にどっかりと座り込んだ。

「きよ! お前、野菊花魁を逃がすたぁ、どういう了見だ!!」
 座るなり、新吉がきよ菊を怒鳴りつける。だが、きよ菊は両耳に人差し指を入れて、ぷんっとそっぽを向く。新吉はその人差し指を掴んで、花魁の耳から指を引き剥がしにかかった。

「きぃよぉぉぉぉ!! 俺の話を聞け!!」
「い~~~~や!」
 ぷんっとそっぽを向いたまま、きよ菊はペロンと舌を出してみせる。
「新さんのおこりんぼ!」
「おーまーえぇぇぇ!」

「そ、それで新ちゃん……野菊は見つかったんですか?」
 信五郎が、心配げに息子の新吉に尋ねた。
「“野菊”じゃねえ、“お喜久さん”だ」
「お喜久?」
 信五郎が、首をかしげた。
「野菊花魁はすでに身請け先が決まって、お喜久と名を変えた。だが、なにせこちらの廓を飛び出した身……こちらからすればお尋ね者だろう? 自分の名を明かせば野菊に危害が及ぶのではないかと、引き取り先の旦那様がご心配なさっていてな」
 新吉はそう言って……ためらいながらも、信五郎に大きな風呂敷包みを手渡す。
「これは?」
「野菊を引き取ってくださった旦那様から、親父に心付けだ。野菊花魁の家出は桃源楼の不手際だから、心遣いは無用だとお断りしたんだが、『これは身請けの金じゃない。いきなり花魁が出て行った親父への心中見舞だ』……と、こうおっしゃられてな」
 信五郎が風呂敷包みを開くと、中から和紙に包まれた小判の山が五つ、出てきた。野菊の件に関してはこれにて決着。今後、いかなる問答も無用ということだろう。
 これを新吉に持たせたということは……。
 新吉はけっして野菊を引き取ったという『旦那様』の素性を明かそうとはしないが、小判の数から野菊の引き取り先がわかって、信五郎はほっと安堵の溜息を漏らす。
「どこのどなたか存じませんが、ありがたいことでございます」
 信五郎はわざとらしく感謝して、小判の山に頭を下げた。これ以降、野菊花魁の詮索はせぬ……と、暗に新吉に伝えている。

「じゃあ、俺は用が済んだんで、これで失礼するよ」
 親父が小判を片付けたのを確認し、新吉はすっくと立ち上がる。
「新ちゃん、ちょっとお待ち」
 信五郎が、今まさに部屋を出ようとする新吉を止めた。
「お喜久さんのことは、終わったとしよう。さぁ。次はアンタの番だけどね」
 親父の言葉に、息子は心底面倒臭そうな顔をして、振り返る。
 信五郎の怒りが新吉に飛び火した。しめしめ……とばかり、きよ菊花魁はしれっとした顔をして、壺の中に入った大根の沢庵を真っ赤な爪紅を塗り込んだつま先でちょいとつまみ……爪紅と同じ真っ赤な紅を差した唇の間に押し込む。

コリコリコリコリ……
ポリポリポリポリ……
ぷぉり、ぽぉり、ぷぉり、ぽぉり……
コリコリコリコリ……

 信五郎の部屋に、だいこんの沢庵をかじる、軽快な音が響きわたった。
「新ちゃん。もう年の瀬だというのに、アンタいったい、いつ帰ってくるつもりなんです。奉公先にはとっとと正月の宿下がりをさせてもらって、お母さんの手伝いでもしたらどうです」
「あああ? こちとら呉服屋。年の瀬と言えばもう、春物の準備に忙しいんだ。実家の用事で帰ります……なんて帰ってられるか!」
「アンタねえ。もう少し、桃源楼の跡取りとしての自覚をお持ちなさいな」
「跡取りなんて、長男だからって勝手に決められたくないね。それに俺より善吉の方が、よほどしっかりしてるじゃねえか」
「お忘れかい? 善吉は医者になりたいと言うから、小石川の療養所に奉公にやったじゃありませんか」
「じゃあ……大吉」
「何を言うんです。大吉はまだ六歳ですよ」
「まだ六歳なら、ちょうどいい。親父様がお亡くなりになる頃には丁度三十路のいい頃合いだろうよ」
 新吉の言葉に、信五郎はきょとんとして、しばらく指折り、歳を考える。
「アンタね。そんなに早くあたしを殺さないでくださいな。大吉が三十路の頃、あたしは古希もまだですよ」
 信五郎が、七十の祝いである古希を指して「早死に」と言ってのけることに驚いて、きよ菊花魁は思わず、口に含んだ沢庵を吹き出してむせかえる。
「なんです、きよ菊。はしたない」
「相済みません」
 そう答えながら、きよ菊と新吉は2人、目を見合わせ、クスクスと笑い合った。

「まあ、いい。正月はちゃんと帰ってくるんでしょうね」
「そのつもりでいるよ」
 息子の答えに気をよくして、信五郎は「そうかい、そうかい」と頷く。
 襖の向こうの廊下で、足音がふたり分、聞こえてきた。
「これ、はしたない」
 花魁が襖を開けて、廊下を走る遊女を叱る。
「これは……もうしわけのうありんす」
 廊下を走る遊女のうち、大きい方が足を止めて、花魁に向き直った。
「あら。新さん」
 大きい方の遊女が、新吉の顔を見てそう呼びかける。
 新吉も、「はる菜」と親しげに遊女の名を呼んだ。
「はる菜、お前は部屋持ちでありんしょう。大部屋ならいざ知らず……」
「まあ、いいじゃねえか、きよ。はる菜からおてんばをとったら、何にも残らねえ」
 はる菜に小言を言うきよ菊を、新吉が止める。
 そして、「ああ、そうそう」と、大黒屋の手代の顔になって、信五郎に向き直った。
「花魁の打ち掛け、できあがっておりますが。明日、お持ちしてよろしいですか」
「ああ、頼むよ」
 信五郎が頷くので、新吉はぺこりと頭を下げて、大黒屋に帰っていった。

お喜久おねえさん

 立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花。
 昔から、美しい人のことはそのように表現するものだが、吉原の老舗遊郭桃源楼の野菊花魁の場合は、「立てば観音、座れば弁天。歩く姿は天照大神」などと称される。

 そんな野菊花魁が、このほど身請けをされることになった。身請け先は、江戸一番の呉服屋、大黒屋の大旦那である潮五郎。
「花魁なんて身請けするのに、いったいいくらかかるって言うんだ」
 近頃の江戸の庶民の間では、この話で持ちきりである。
「さすが、江戸一番の大金持ちの大黒屋だ。で、ご自慢の野菊ちゃんを身請けするのにいったいいくらかかったんだい?」
 下世話な人間は、当の潮五郎に直接、聞きにやってくる。
「いくらかかるって……そりゃ、あんた。江戸の男が引き取った遊女の額を気にするなんて……野暮の極みってもんですよ」
 潮五郎がそんなことを言ってはぐらかすものだから……人々の噂は、さらに高まる。潮五郎は花魁の身請けに五百両もの大金を払った。いやいや、八百両だと聞いた。なにをいうか、千両だ。人の口の端に上るたび、潮五郎が野菊を引き取ったという値段は、どんどん跳ね上がっていった。

 そんな街の噂を聞きながら……潮五郎はひとり、ほくそ笑む。
 潮五郎の娘、りさはそんな父親を呆れた目で見つめながら、溜息をつく。
「おとっちゃん! あれじゃあ、お喜久ちゃんがまるでおとっちゃんのお妾さんみたいじゃない! お喜久ちゃんはお嫁に出す予定があって、養女として引き取ったんだから、ちゃんとみんなにそう言いなさいよ」
「まあまあ、いいじゃないか。人の噂も七十五日。暫くすれば収まるんだから」
 今は言いたいように言わせておき、大黒屋に綺麗な女の子が入ったという噂を流してもらう方が大事なんだ……と、潮五郎は言う。
「それより、おりさ。お喜久には特別上物の着物を着させなさいよ。簪や扇子、草履に至るまで、お見立てに手を抜くんじゃありませんよ。ああ……そうそう。ウチのもうひとりのお嬢様」
 そう言って、潮五郎は大黒屋で引き取っているもうひとりの娘……りさの婿、哲治郎の妹であるお華のことを思い浮かべる。
「お華ちゃんにも、綺麗な着物を着て貰うんですよ」
 普段は大黒屋のような高級呉服店になど足を踏み入れもしないような街の人々が、今はお喜久見たさに大黒屋の店先をウロウロしている。そんな人々に、可愛らしく着飾らせたお喜久やお華の姿を見て貰うのだと……潮五郎は言った。
「はいはい、わかってます」
 商魂たくましい父親を呆れた目で見つめながらも……りさは父親の言いつけ通り、お喜久とお華に似合う色と柄の反物を選ぶ。

 大黒屋のそういう事情があって、ここしばらく、お華が身に纏う着物が急に派手になってきた。
「お華さまにはちょっとああいう着物は似合わないんじゃないか?」と、いう客や手代もいれば「いやいや、あれはあれで……化粧の方を濃くすれば、もういっぱしの若奥様だぜ」 という客や手代もいる。
 お華に片想いしている新吉の感想と言えば……

「お華さまは何を着ても可愛らしい」
 恋は盲目、あばたもえくぼとはいうが、新吉にとってお華はそもそもえくぼと見間違うような『あばた』がない。美女は三日見れば飽きると言うが、お華はどこを取っても愛らしく、いつまで見ていても飽きることがない。
 お華に欠点があるとすれば……新吉の恋心に気付いてくれない、そんなところだろう。

 かねてから新吉の恋心を知るお喜久は、時折、新吉の恋の愚痴を聞いてやる。
 やれ、お華が今日は鼻を何度もかんでいる。風邪ではないか、心配だ。
 やれ、お華が今日は赤ん坊を抱いて、散歩に出かけた。お供を付けずに大丈夫か、心配だ。
 新吉はなにかにつけ、お華のことばかりを気にするが、そもそもお華にはおつきのじいやが傍に居るし、なんだったらここ最近は、そのじいやさんよりはるかに丈夫そうな、赤茶けた髷を結った背高のっぽのお坊ちゃまが人目も憚らずにびったりとくっついている。
「もしかして、新さんはあの龍之介坊ちゃんのことが見えておられんせんか?」
「うるさい」
「新さん、お顔のほうは龍之介坊ちゃんに負けておられんせんが、いかんせん、お背のほうがねえ……」
「うるさい」
 新吉の子供のような態度に、お喜久は思わず、クスクスと笑ってしまう。
「あちきには、新さんにはもっと身近に似合いの子がいるとおもいんすけどねえ」
「似合いの子?」
「いまの新さんにはきっと、その子のことは見えておりんせんよ」
「なんだよ、見えない子って……座敷童か、妖怪の類いかよ?」
 そんな色気の無いことをいう新吉を、お喜久は幾分、寂しそうに見つめた。

豆乳鍋のふろふきだいこん

 お華のことでココロを迷わせる新吉だが、江戸神田の一角にある、小料理屋の雛菊亭では、その新吉の雇い主……大黒屋の若旦那である哲治郎が、桃源楼の跡取り問題について頭を悩ませていた。

「では、その新吉という手代は実家の家業を継ぎたくないと申すか」
 少しぬるめにつけた燗酒を雛菊亭の女将であるお雛に注いで貰いながら、助さんが哲治郎に尋ねる。
「はい。信五郎の親父がカンカンに怒っております」
 お雛に酒を注いで貰いながら、哲治郎が深い溜息をつく。
「新吉坊ちゃんは顔に似合わず、頑固なところがおありですから。桃源楼の親父様と新吉坊ちゃんに挟まれて、若旦那も胃の腑が痛むことでありんしょう。お気の毒様」
 ちっとも気の毒そうには見えない顔で、お雛がケラケラと笑った。
 店内はほろ酔い加減のご隠居達が数名、酒を呑んでいる。店の厨房では、板前の松也と女中のおとわがそんなご隠居達のためのつまみを拵えている。せっせとつまみを拵える松也を見ながら、哲治郎が大きな溜息をついた。
「信五郎もうるさいことだし、新吉は実家に帰そうかな」
「まあ、そう言わずに。桃源楼の親父様との約束は二年なんでしょう? じゃあ、あと一年は新吉坊ちゃんを大黒屋に置いてやってくださいな」
 厨房の中から松也が哲治郎をたしなめ……そっと、砂糖醤油の香りのする皿を差し出した。

「これは? 餅かい?」
 哲治郎の興味は、すでに新吉のことから茶色くてまあるい餅のような食べ物に移っている。
「大根の良いのが入りましてね。茹でて潰して、海老のはんぺんと片栗粉を混ぜて餅のように丸めて焼きました。砂糖醤油で味を付けてございます。お好みで海苔巻きにして召し上がってみておくんなさい」

 松也に促されるままに、哲治郎と助さんは大根餅なるものを口に入れる。砂糖醤油の、甘く濃い香りが口に広がると、同時に舌に載るさっくりくにゅっとした独特の歯ごたえに哲治郎は思わず顔をほころばせた。
 助さんも、軽く火で炙って温めた大根もちのほんのりとした温かさを楽しむ。

「松也、おかわり!」
「ダメです。次のお料理を召し上がっていただかないと」
 松也がそういうと、女中のおとわが豆乳を張った小さな鉄鍋を哲治郎と助さんの前に用意する。
「これは、なんだ?」
 哲治郎と助さんが、小さな鍋を覗き込んだ。
「豆乳の中身は程良く煮込んだ大根です。湯豆腐と同じ煮きりの醤油だれをご用意しましたので、かけて召し上がってください」

 言われるままに、松也の差し出した醤油だれを小鉢に取った大根にかけ、助さんはそれをつるっと口の中に入れる。まずは豆乳の濃い甘みがふんわりと口の中に広がる。それから、大根の一瞬だけピリッとする苦みが走り……それを、醤油だれが優しく支える。

「美味い……ではなく、優しい。なんと、優しい味わいだ」
「気に入っていただけましたか」
 松也が、ほっとした表情で助さんに微笑みかける。
「美味い! 熱い、美味い」
 だが、大声で料理を褒める哲治郎には、眉をしかめた。
「若旦那。うるさい。これでも召し上がって黙っててください」
 腹に溜まりにくい大根の料理。若旦那には少し、物足りないだろうと、松也は大根と鴨肉の煮物、厚揚げと大根の煮物、それに大根の焼き物の上に大根おろしを載せた料理を出してきた。
「うまい! これ、全部美味い!」
 目の前に並ぶ大量の大根料理を、哲治郎は右端から順番に食らい尽くしていく。そのみごとな食いっぷりに、酔客達が集まってきた。
「若旦那はほんとに、美味そうにものを食べるねえ」
 客のひとりが感心しきりに呟いて、他の客がうんうんと頷く。助さんも哲治郎の食いっぷりに見入っている。

「美味そうに食べる若者がいるな。こちらまで腹が減る」
 初めて見るご隠居が、いつのまにか哲治郎の隣に座り、哲治郎の皿を覗き込んでいた。
 呉服屋の婿の性か……哲治郎はまず、ご隠居の着物に目が行く。青朽葉色の着物は、おそらく京の西陣織。その見事な羽織物から、お旗本か、どこかの御家中のご家来衆だと推察するが、後ろに控えさせている身体の大きな侍にまで西陣織の着物を着せているところを見ると、それなりに裕福なお家なのだろう……と、哲治郎は思った。

 そのお客に松也が差し出したのは、先ほど助さんに出したのと同じ、鍋に入った豆乳大根である。
 小鉢に大根と豆乳の出汁を取り……ご隠居はまず、その汁をずううっとすすった。
「これは、美味い。良い塩梅だ」
 熱い大根をハフハフと頬張ると、自然に笑みもこぼれてくる。
「松也の料理は天下一品。さ、ご隠居さま、まずは一献」
 と、助さんがお燗した清酒をご隠居に差し出す。ご隠居は松也から杯をもらって、助さんと酒を飲み交わした。
「お手前、拝見したところお武家のご隠居様でいらっしゃいますかな」
「左様。拙者は……」
 ご隠居同士、話が合ってきたところで、後ろに控えた侍が、「お時間でござりまする」と、ご隠居に声をかける。そして、お雛に酒と肴の代金を握らせた。
「あと、もう一杯」
「いけません。とく様が、お怒りになりますよ」
 ご隠居と侍のやりとりが、まるでいつもの哲治郎と助さんのやりとりに見えて、お雛がクスクスと笑う。
「ご隠居様。明日もまた、お越しなさりませ。明日はもう少し、早い時間に。ね?」
 お雛が、まるで子どもをたしなめるようにそう言うと、ご隠居は渋々、立ち上がる。
「徳田、帰るぞ」
 徳田と呼んだ侍を従え、ご隠居が店を出て行く。

 ご隠居に付き従う徳田の香りに……哲治郎とお雛が気づいて、顔を見合わせた。
「あの男、昼間から遊郭通いか」
 徳田の身体から、遊女のおしろいとお香のかおりがした。ほんのりと香るくらいなら粋でおしゃれな伊達男といえるだろうが、あれほど強く香っていれば下品で臭い。
「遊郭通いはけっこうですが、遊女の匂いをさせたまま侍のお仕事をなさるのは……ちょっと、粋じゃあござんせんわねえ」
 ご隠居のほうが粋な伊達男だっただけにもったいない……と、お雛が顔をしかめた。

手紙

 日付が変わって、江戸日本橋の大黒屋。

 時はすでに夕刻。番頭の菊次郎や丁稚、手代たちは、そろそろ始まる閉店の準備のために忙しくしている。そんな奉公人のせわしなさなど気にもかけず……若い女が、大きな身体の侍を従えて店に入ってきた。許嫁か、恋仲か。妙齢の女性と親しげに寄り添う大柄な侍に、大黒屋の手代達は声をかけづらそうにまごまごしている。
「おや。昨日のお侍様」
 大黒屋の若旦那である哲治郎が、徳田に声をかけた。
「大黒屋! ここは、おまえの店だったのか?」
 ひとくちで大黒屋と言っても、両替商から饅頭屋、万屋に至るまで、「大黒屋」という店はけっこうある。哲治郎が大黒屋の婿とは聞いていたが、まさか江戸一番の呉服屋である大黒屋の婿だとは思っていなかったのだろう。徳田がぎょろりと大きな目をさらに大きく見開き、後ずさる。
「おや、そちらの方は?」
 めざとく、哲治郎が徳田がつれている女を見つけた。
「昨日のご隠居のご側室じゃ!」
 詮索無用! と、徳田は哲治郎に向かって歯を剥く。
「ああ、左様でございましたか。お気に召したものがございましたら、お気軽におこえがけくださりませ」
 哲治郎は軽く頭を下げ、番台に下がったが……目だけは、徳田と主人の側室だという女を追う。哲治郎が詮索してこないことを悟ったのか、徳田と側室はまるで恋人同士のように寄り添い、着物を選んでいる。
「……ああ、そう。そういう感じね、ハイハイ」
 悪食小僧……と、呟いて、哲治郎は大きな溜息をつくと、番台を番頭の菊次郎に頼んで、母屋に下がった。

 時刻はすでに宵の口。
 吉原は女を買い求める男たちで賑わう時間だが、哲治郎は桃源楼の主人である信五郎に呼びつけられ、桃源楼を訪ねている。
桃源楼に行くと、哲治郎はすぐに桃源楼の主である信五郎の部屋に通された。

 上座に座れと勧められるからには、なにか面倒臭い頼み事があるに違いない。出てきたお茶もお菓子も上物で、いったいどんな面倒な悩みがあるのだ……と、哲治郎は目の前に座る、子狸のような親父を見つめる。
「若旦那。ウチの新ちゃん、元気にしてますかね」
「元気にしてますかねってお前……先日、こっちに寄越したばっかりじゃねえか」
 新吉の名前を出したことで、信五郎の言いたいことはだいたいわかった。
新吉が修行奉公を終えた暁にはこの桃源楼の若旦那として働くよう、哲治郎から口添えをして欲しいというのだろう。
「なあ、親父様。新吉をいますぐここに帰しちゃあいけねえか」
 思ってもみなかった哲治郎の提案に、信五郎の方が驚いた。
「いますぐ、新ちゃんを帰すですって? うちの新ちゃんが、なにか粗相でも……」
「違う。その逆だ。新吉は出来過ぎる。大黒屋の大旦那も新吉を気に入ってる。大旦那は根っからの世話焼きだからな。お前があんまり新吉に無理を言うようなら、野菊ばかりか新吉も養子に貰おう……という話になっちまうかもしれねえぞ」
「そんな! 困りますよ! 新ちゃんは大事な跡取りなんですから!」
 信五郎が、哲治郎にすがりつく。
「だから、今のうちにこっちに帰した方が良いんじゃねえかと思うんだ。ちょっとよく、考えてみてくれねえか」
 哲治郎は出された上物の生菓子をパクリと口の中に入れると、スッと立ち上がって信五郎の部屋を出て行った。
 哲治郎に頼み事をするつもりが、逆に哲治郎から無理難題な頼み事をされ、信五郎は地に足の着かない心持ちのまま、哲治郎を見送りに玄関まで付き従う。

 桃源楼の玄関では、すでに宵の賑わいを見せている。見世では若い遊女が張り出しにはべり、数人の男達が妓夫と自分の好みの遊女について話し合っている。
 そんな中で……見たことのある顔に、哲治郎は目を留めた。
「徳田様」
 客の中でもひときわ体格の良い侍に、哲治郎は声をかけた。
 呼ばれた徳田は驚いたように見開いた目で哲治郎を暫く凝視した後……「ちっ」と舌打ちしてくるりと踵を返し……。

――――逃げ出した。

「ちょ、ちょっと! お客様!?」
 妓夫が徳田を引き留めるが、もう徳田の耳にはその声は届かない。驚くほどの速さで、徳田の姿は見えなくなった。

「若旦那。徳田様とお知り合いだったんですか?」
 信五郎が、哲治郎に尋ねる。
「昨日、雛菊亭で会ったんだ。あの人、ここのなじみかい?」
 一度めは「初会」といい、安い値段で遊ばせる。二度めは「裏」といい、一度目に安い値で遊ばせて貰った礼に、客が正規の値段で遊びに来る。三度目ではじめて「なじみ」となり、郭や、気に入った遊女に名前や好みを覚えて貰う。「裏をかえさぬは客の恥。なじみがつかぬは店の恥」ともいうが、信五郎が客の名前を呼んだので、哲治郎は徳田が桃源楼のなじみであることを知った。
「ええ。若い部屋持ちに入れ込んでましてね。はる菜という、十八の娘なんですが」
 吉原で遊び歩くお金があるというのは羽振りが良いことだが、主人の側室に手をつけておきながら若い遊女も買いに来るという徳田の悪食ぶりが気に入らず、哲治郎はフンと鼻を鳴らす。

「徳田様がいらっしゃったとか……?」
 良く通る、凜とした声がして、きよ菊花魁が奥の部屋から現れた。
「おや、きよ菊」
 哲治郎がきよ菊に声をかける。
 その声に、きよ菊は少々驚いたように目を広げたが……やがてゆっくり表情を戻し、ツンと顎を上げて、若い妓夫を見つめた。
「徳田様がお越しかえ?」
 きよ菊の問いかけに妓夫が頷く。
「そのようでしたが、なんだか慌ててお帰りになりました」
「あら、そう」
 きよ菊はさほどの興味もなさそうに踵を返す。
「ちょっときよ菊! 若旦那にご挨拶をしなさい!」
 信五郎の呼びかけに、きよ菊がゆっくりと振り返る。
ツンと顎を上げ……自分より遙かに背の高い哲治郎に、まるで小者を見下すかのような視線を向けたきよ菊は……暫くそうしていた後、「首が疲れた」と呟いて、さっさと自室に戻ってしまった。
「ちょ、ちょっと! きよ菊! アンタ、大黒屋の若旦那様に向かってなんですか、その態度は!!」
「親父! いいから、良いから!」
 花魁を叱ろうとする信五郎を、哲治郎は引き留める。
 そして……哲治郎は軽く握っていた自分の拳を開く。

 哲治郎の手の中には、きよ菊花魁が無造作につっこんでいった、しわくちゃになったちいさな手紙が、一通……。

 家に帰って、哲治郎はその手紙をお喜久に渡す。
「きよ菊からだ」
「あちきに?」
 お喜久が開いてみた手紙には……たった二行

愛しい愛しいぬしさまへ
一刻も早くぬしさまの御許に嫁にいきたし   は

 と書いてあった。

「これを……きよからあちきに?」
 どうみても、遊女が客……それも、なじみかもしくは情を交わしてしまった「ぬしさま」に宛てた手紙で、きよ菊花魁からお喜久に宛てたものとは思えず、お喜久は首をひねる。
「あれ? 親父様に黙って俺の手にねじ込んできたから、てっきりお前宛の手紙かと思ったんだが」
「“は”とは……? 誰の手蹟(て)でありんしょうか……」
 はるな、はつね、はまじ、はつこい……最初に“は”とつく遊女が多すぎて、お喜久にも、その手紙が誰の手蹟によるものなのか、皆目見当がつかない。
だいたい、きよ菊が何故こんな手紙を哲治郎の手に押しつけたのか……。
「遊女とお客様とのやりとりを、親父様に見つかる前に隠してやったんでありんしょうかねえ……」

 要は、親父様に見つかる前に哲治郎の手の中に手紙を“捨てた”のではないかと、お喜久が言う。
「……きよ菊が……か?」
 哲治郎の問いかけに、「ないざんすね」と、お喜久がしっかり首を振る。こんな手紙を見つければ、面白がって自分から積極的に親父様に密告(チクリ)に行くのがきよ菊の性格である。
「と、すれば……この手紙を書いた遊女のことを、若旦那にお知らせしたかった……?」
「親父様じゃなく、俺にか?」
 お喜久と哲治郎が顔を見合わせ……二人同時に「ないな」と首を振った。

 だが、“は”と名の付く遊女の所在は、存外にすぐにわかった。
 正月に実家に帰らせた新吉が、「遊女の身請けが決まりそうだ」とウキウキして帰ってきた。その遊女の名が、“はる菜”といった。

「ああ、あの手紙は、はる菜のものでありんしたか」
 お喜久と新吉がいうには、はる菜は見た目はそれほどでもないが気立ては人一倍よい子で、新吉の母に気に入られ、新吉たち兄弟の「ねえや」として一緒に育った子らしかったが、実家のやむにやまれぬ事情で十七の頃から遊女として働いているのだという。
「よほど気に入ったんでしょうね。遊女の身請けにはいくらかかるんだと申しますから、二百両だとふっかけてやりましたら、素直に払うと言い出しましてね」
「二百って……お前、まさか、きよ菊花魁を売っちまったんじゃねえだろうな」
「とんでもない。きよ菊なら、こちらがなにも言わなくても、相手から五百は払ってくるでしょうよ。俺とお客様の話がまとまったのは、まぎれもなくはる菜でございます」
 哲治郎はまだ、釈然としない様子だったが、お喜久の方は
「遊郭に事情のない子はおりんせんが、はる菜はお袋様が手塩にかけて育てた子でございんすから……。好いたぬしさまに身請けされ、幸せになるなら、ようございんした」
 と、ほっと胸をなで下ろす。

はる菜

 だが、それから暫く経って……。

 哲治郎の元に、桃源楼からイヤな知らせが届いた。知らせを受けてすぐさま、哲治郎は新吉を呼び出す。
「なあ。あの、身請け話な……無くなったそうだ」
 哲治郎の声は、重い。
「無くなったって……どうして……どうしたんです?」
「はる菜を引き受ける予定だった旦那だが……別の女と逃げたんだそうだ。はる菜は自害を図ったと……いましがた、お前のところの番頭が知らせに来た」
「自害!?」
 新吉が目を剥き、哲治郎の腕を掴む。
「いったい、なんで! そんなことに!?」
「そんなこと、俺にもわからねえよ。実家に帰って聞いてこい」
 若旦那に促され、新吉は取るものもとりあえず、実家に戻る。

「若旦那。はる菜が自害って……どういうことでありんしょうか?」
 新吉が出て行ったあと、お喜久が哲治郎に尋ねる。
「新吉がはる菜を二百両で売ったのは、徳田とかいうあの客だった」
「徳田様……?」

 はる菜の一件を知らせに来た桃源楼の番頭の話では、徳田が吉原で女あさりをしていたのは……元気で若い遊女をひとり、身請けするためだったという。
 それは、主人であるご隠居様の、介護をさせるため。若くて元気な町娘を探してこいと上役から命じられていた。だが、町娘では「支度金」の額が小さい。新吉が「二百」とふっかけたのを幸いに、徳田はこれに乗ったフリをした。ご隠居様には「身の回りのお世話にぴったりな若くて腕っ節の強い娘を見つけたが、親が支度金として二百両を要求している」といい、そして……あろうことか、はる菜を身請けするための二百両を持って、ご隠居の側室とふたりで逃げたのだという。

「なんてことでありんしょう」
 お喜久の声が、わなわなと震える。
「若旦那。あちきを桃源楼に帰しておくんなまし。はる菜を……見舞ってやりとうありんす!」
「……落ち着け、お喜久」
「せめて線香の一本、手向けてやりとうありんす。若旦那、せめて、せめて……」
「落ち着け! はる菜は死んじゃあいねえよ」
「まことでありんすか?」
「手首は切ったが傷が浅くて、血は派手に飛び散ったが命に別状はねえということだ。だが、遊女としてはもう……」
「それなら……」
 意を決し、お喜久は哲治郎を見上げる。
「はる菜は若旦那が、外に出してやっておくんなまし。それで桃源楼が困るというなら、あちきがはる菜の代わりに、桃源楼に戻りんしょう」
「は?」
 お喜久の突拍子のない提案に、哲治郎が思わず眉をしかめる。
「おまえがなんで、ただの遊女にそこまでしてやる必要があるんだよ」
「はる菜は新さんのお嫁さまとして、お袋様が育てていた子でありんした」
 幼い頃のはる菜は数居る禿達の中でもひときわ元気で明るい子だった。そんなはる菜を新吉の母親であるおりくが気に入って、野菊ときよ菊の両花魁には「はる菜は新吉の嫁にするから、お前達で良く面倒を見るように」と厳しく言い聞かせていたという。
「実家の事情がなければ今頃、桃源楼の若女将として新さんと添い遂げていたはず……。遊女にさえならなければ、はる菜をこんな目に遭わせることはなかったことでありんしょう」
 お袋様からはる菜の後見を頼まれていた立場でありながら、自分の身の可愛さに桃源楼を出てしまったばかりに、はる菜を守ってやることが出来なかったと泣き崩れるお喜久を前に……哲治郎はふうっと深い溜息をつく。
「お前のせいじゃあねえだろう」

 不意に、大黒屋の店先が騒がしくなった。
「新吉が帰ってきたようだ」
 まるで外の様子を見ているかのように、哲治郎がそう呟く。

 それそのとおり、真っ赤な顔をして新吉が母屋に戻ってきた。
「若旦那! 新吉は、今日を限りにお暇を頂戴したいと思います!」
「莫迦野郎!」
 勢いよく障子を開け、「暇をくれ」と申し出た新吉を、哲治郎が一喝する。
「正月は終わったばかりだが、桃の節句に端午の節句、それに夏の浴衣まで、展示会の予定は決まってるんだぞ! 手代のお前に辞められたら、良い迷惑だ!」
 哲治郎の言うことがもっともすぎて、勢いよく帰ってきた新吉がしょぼんとうなだれる。
「親父様とケンカでもしたか」
 うなだれる新吉に、哲治郎が優しく声をかけた。
 新吉はうなだれたまま、こくんと頷く。
「お前のことだ、はる菜のことで頭に血が上って……親父様に啖呵を切って、うっかり『家を継ぐ』と言っちまったんだろう?」
「はい。その通りです」
 新吉が顔を上げる。新吉の決意が見て取れて、哲治郎は幾分、表情を緩める。
「すまねえが、大黒屋の方でもお前の代わりはなかなか見つからない。端午の節句の展示会までは、大黒屋にいてくれないか。それまでには次の手代を探すから」
 今は正月になったばかりだが、端午の節句の展示会は弥生の終わりを予定している。「お前のほうも、頭を冷やすにはちょうど良い時間だろう」という哲治郎の提案に、新吉は納得して頷いた。

「で、そのはる菜のほうだがな……」
 哲治郎はそう呟いたまま、左手で自分の口元を覆う。何かを深く思案するときの、哲治郎のクセだ。
 そして……なにかを諦めたかのように、深い溜息をついた。
「大黒屋に来て三年。実はそろそろ、俺も妾を……と、思っていたところだったんだ」
 哲治郎の言葉に、お喜久と新吉が同時に驚く。
「その遊女、もう客の床には入れられねえんだろう? だったら俺に譲ってくれと、親父様に伝えてくれねえか」
 哲治郎はそう言って、自分のタンスの引き出しをゴソゴソとあさると、ためらいがちに新吉に、小判の束を手渡した。
「五十両ある。二百にゃあちいと届かねえが、まあ、勘弁してくれ」
「それでもコツコツ貯めたへそくりなんだ……」と、恥ずかしげに言い置いて、哲治郎は自分の部屋から出て行く。
「ちょ……ちょっと! 若旦那!?」
 慌てて哲治郎を追いかけようとする新吉を、お喜久が止める。

 哲治郎が出て行って、暫くしてから……龍之介が先ほどの哲治郎と同じような苦悶に満ちた表情をして、離れの部屋に現れた。そして、哲治郎から書くように命じられたという手紙を新吉に手渡す。
「新吉。お前、帰ってくる前に障子紙買うてこい。お喜久はんは、いまから俺とこの部屋の湯飲み、茶碗を全部どかしまひょ」
 手紙の内容から事情を知った龍之介が、深い溜息をつく。
「障子紙ですか?」
「入り婿が妾なんか持ついうとるんや。今夜は荒れるでぇ……障子のひとつやふたつは、壊れることも覚悟せんとな」
 くわばらくわばらと身を震わせながら、龍之介は新吉を追い立て、お喜久を促し、夫婦げんかがしやすいよう、投げたらあぶないものをどかし始めた。

 新吉がまだぐったりとはる菜を連れて帰ってきたのは……その日の深夜だった。

「なんでや……帰ってくるのは明日でも明後日でもええやんか」
 何故その日のうちに連れて帰ってきたのかと……龍之介が、面倒臭そうに溜息をつく。
「妾を囲うのにも準備がいる。屋敷も用意してやらんといかん。綺麗な着物(べべ)も用意してやらんといかん。お前、遊郭のお坊ちゃまならそういうことも承知してるやろう」
 新吉に向けてはイヤミなことを言いながらも、龍之介はテキパキとお喜久とお華に指示して、はる菜の寝床の準備を整えてやっている。
 哲治郎がはる菜を引き受けると聞いて……桃源楼では、父親の信五郎、母親のおりく、そして番頭に至るまでが諸手を挙げて喜んで、「さっさとはる菜を連れて行け」と、新吉にはる菜を委ねた。
 普段はいけ好かない赤い髪のお坊ちゃまだが、ここでこのおぼっちゃまの機嫌を損ねて大黒屋まで追い出されることになっては、はる菜の生き場所がなくなってしまう。今日ばかりは素直に聞き入れるしかなく、新吉はグッと堪えて龍之介のイヤミを聞いている。

 それそのうちにはる菜の目が覚めた。
「野菊姐さん!!」
「はる菜……おまえはもう……心配しんしたぇ……」
 お喜久と、はる菜が互いに抱きしめ合う。
 音もなく障子が開いて……はる菜の寝かされている部屋に、哲治郎が現れた。
 頬には、見るも見事な桃色の手形が咲いている。
 その小さな手形から、妻のりさに打(ぶ)たれたのだということは、誰の目にもすぐにわかった。新吉は申し訳なくて目をそらしたが、龍之介がそれを見て、辛抱溜まらず、ぶうっと吹き出す。
「うるせえ」
 龍之介をギロリとにらみ付けてから……哲治郎は、はる菜を見つめた。
「お前がはる菜か」
 哲治郎のあまりの美男ぶりに、はる菜がボッと顔を赤らめた。
哲治郎は、はる菜の顔を無遠慮に覗き込み……包帯が巻かれた手首を掴むと、「若い命、無駄にしやがって」と呟く。
 最初、哲治郎のあまりの美男ぶりに顔を赤らめていたはる菜だったが、命を無駄にした自分に対する哲治郎の怒りをその身に感じ、顔どころか全身から血の気が引いていく。
「……申し訳のう……ありんす」
「この方が、お前を身請けしてくださったんでありんす。今日からは、この方がお前の旦那様でありんすぇ」
 お喜久の言葉に、はる菜がハッと顔を上げた。
「徳田様は……!」
「桃源楼の親父が追っ手を差し向けたそうだから、あの綺麗な顔にはもう会えねえだろうが……それでも、会いたいかい?」
 哲治郎の問いかけに、はる菜はうなだれて……首を振る。
「そりゃあ、良かった。今日からは俺を唯一の男と思って仕えてくんな……と。いいてえところだったんだがな」
 そこまで言って、哲治郎は新吉の顔を見つめる。
「俺には……りさっつう、恋女房がいてよお」
 急に、哲治郎が声を張り上げた。
「これがまたワガママで……いや、そこがかわいいっつーか……それが良いというか。うん。今の俺はりさで手一杯で、他の女の面倒を見てやる余裕がねえんだわ」
 そんなことは知っている。なにをいまさら、そんな当たり前のことを言い始めたのかと、新吉はあきれかえった。
「だが、せっかく来て貰ったのに遊郭に返すっつーのもなあ……」
 哲治郎は腕を組み、首をかしげて何事か、考えている。
「あ! そうだ、新吉! お前がはる菜の世話をしてやるというのはどうだ」
「は?」
 新吉とはる菜が、同時に驚いて、目を見開く。
「ま、はる菜の様子も落ち着いて、ふたりの気持ちが固まったら……な」
 それだけ言って、哲治郎は部屋を出て行ってしまった。

「えっと?」
 取り残された新吉の気持ちが落ち着かない。
 はる菜も事態がまったく飲み込めず、オロオロしながらお喜久にすがりついている。
 だが、龍之介とお華、それにお喜久は「ああ、やっぱり?」と、三人で顔を見合わせている。
「こんなふうになること……お喜久は知ってたのかよ」
「途中から、そうではないかと気づきはしんしたが……」
 幾分困惑した顔で、お喜久は答える。
「あんの! 余計な世話焼きが!!」
 新吉はそんなことを叫ぶと、すっくと立ち上がって、部屋から出た。

 部屋の外では……哲治郎が、りさを抱きしめている。
「若旦那!」
 いつもなら顔を真っ赤にして立ち去るところだが、新吉は顔を真っ赤にしながらも、哲治郎に声をかけた。
「邪魔すんな」
 哲治郎がりさを抱きしめたまま、ぷいっとそっぽを向いた。
「なんでもかんでもわかったような顔しやがって……! 一番大事な女房、泣かせてんじゃねえよ、この莫ぁ迦!!」
 新吉の言葉に……りさと哲治郎が驚いて、新吉の顔を見つめる。
「……そうだな。ごめん」
 哲治郎が、ふっと、新吉に笑いかける。
「若旦那に借りた五十両……絶対、返してやる。それまで大黒屋は辞めてやんねぇからな!」
 新吉は哲治郎に向かってそれだけ叫ぶと……くるりと踵を返して、大黒屋を出て行った。

煮大根

 江戸、神田の一角にある小料理屋の雛菊亭。
 夕刻にはご隠居の酔客達で溢れるこの店の特等席で、助さんとあの徳田が仕えていたご隠居様が、酒を酌み交わしている。
「澤山殿……いや、助さんには、我が家の失態でたいへんな迷惑をおかけ致しました」
 ご隠居が、助さんに頭を下げる。
「いや……この助右衛門、実は奉行所には並々ならぬ縁がございましてなあ。江戸の関所に徳田と似たような男の取り締まりを命じただけ。関所の者たちの仕事がはようて、ようございました」
 助さんが、ご隠居に酒を勧める。
 雛菊亭の女将、お雛が、そんな二人に大根の煮物を持ってきた。
「試作品でございますが……どうぞ。鰹だしをたっぷりと煮含めた大根。あちきの大好物!」
「煮っ転がしではなくて、煮含めたものか」
「甘辛には仕上げておりません。濃いめに煮出した出汁をゆっくり時間をかけてたっぷり含ませております」
 お雛の言葉に、ふたりのご隠居は嬉しそうに目の前の大根に箸を入れる。
 なんの抵抗もなく、程良く煮含められた大根がすうっと二つに割れた。
 パクリと、ひとくち、口に入れる。
「あつ!」
 熱い鰹のお出汁が口の中にしゅわぁっと広がる。
「あふ!」 
 そのあとで、とろけるような大根の食感を舌に感じ、最後に残るのは爽やかな苦みと辛み。
「……美味い」
「その大根はね。あの子が煮含めましたのよ」
 そう言って、お雛が指さすその先には……乙女椿の着物の袖をたすきで縛り上げ、真剣な顔で鍋を覗く、はる菜の姿。
「なずなといいんすの。大黒屋の若旦那に五十両も借金を拵えちまったのに、返すアテがないというもんで……ウチで雇うことにしました」
「ほお……」
 女将のお雛は、この正月を過ぎて数え三十二歳になった。雛菊亭の厨房で女中として働くおとわは、すでに四十を超えている。
 数えてもハタチになるか……ならないか……若くて可愛い“なずな”がキビキビと働く姿を見て、二人のご隠居は嬉しそうに感嘆の声を上げる。
「今後とも雛菊亭を、ど・う・ぞ・ご・ひ・い・き・に!」
 若いなずなにデレデレとした視線を向けるご隠居ふたりのお尻を、お雛がぎゅうっとつねりあげた。

あとがき

第6話 だいこん

お読みいただきましてありがとうございました。

あとがきまんがのとおり、えどのごはんはそもそも2年ほど前に考えていて、文フリに出すために作品化したものです。
「えどのごはん」を書くに当たって、「たまご」だけは絶対に残しておきたいと思っていて。
それで、「たまご」を第1話に据えました。

なので、1話はもうずいぶん前の作品となってしまっていますが、何名かの作家さん方と合同誌にしてありますので、もしかしたらまだお求めいただけるかも知れません。


さて、10話書くと決めた。
何を書く?
どうする??

なに食べたい?

なやみましたが、ほぼインスピレーションで「食べ物」は考えています。


忠直おにいさんが主人公である大江戸本編シリーズと、「北町のお奉行所」シリーズは、スイーツ。
哲治郎が主人公である「えどのごはん」は、ばんごはん。

喰う。ということをテーマにおきつつ、ストーリーを楽しんでいただけたらなと思っています。

「読んだ後でだいふくを求めてコンビニに行きました」
「ようかん食べたくなってスーパー行きました」
「今日はたまごかけごはんたべます」

って言われると嬉しいです。

さて、「えどのごはん」のラストはもう決まってます。

ただ……実は、最終話まで書き終わったモノの、次回の7話と最終話を書き直し中です。
かきあげてからもうすでに2ヶ月くらい……毎日毎日、書き直し、書き直し、書き直しては……消すということを繰り返しています。゚(゚´Д`゚)゚。
8,9話はすでに完成していますので、7話の第一稿を出すという手もありますが、そうじゃなくて気に入ったものを出したいので、お待たせしてしまうとは思うのですが、気長にお待ちくださいませ。

最後に、お忙しくまた、ご自身が一番大変な中、製作におつきあいくださっているOZZYさんご夫妻本当にありがとうございますm(_ _)m

では

※Twitterにてmelonさまより失敬しました

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