すかし1

第5話 忠慧

 困ったのは奉行所だ。

 例え正義の味方でも、ご公儀にとっては許しがたい犯罪者である。しかも、奉行所が追い切れていない悪党を懲らしめて見せたというのだから、奉行所の面目は丸つぶれ。南北両奉行所の枠を超え、それぞれの奉行所から精鋭の与力と同心を結集して事の次第に当たらせていたのだが、ここに来てもう一人の辻斬りが出たと聞いて、南の仏も北の鬼も、奉行二人は肩を落とし、深いため息をついた。

 この数ヶ月、「月夜の使者」を追うのに必死で、奉行所の役人たちは皆、疲弊している。そこに来てもう一人の辻斬り捜査にかける人員も、時間も無い。
 江戸の町の噂はお城にも届いていたから、城に行くたび、老中に「月夜の使者」の進捗を聞かれるのだが、刀の長さは一般的な太刀より少し大きめのおよそ2尺5寸ほど。亡くなったゴロツキたちはみな、背中を袈裟懸けに切られ、背骨と腰骨を損傷して亡くなっている……ということしか、わかっていない。
 それだけ大きな傷だから、刀の方も欠けたり、傷がいったり、場合よっては折れていても良さそうなものだが、そのようなかけらが見つかったという話も聞かない。

 すっかり気落ちしている鬼奉行を、阿津と忠慧が気遣った。


「なあ、姉上。月夜の使者ともう一人の辻斬り……俺には、どちらも同じ人間に思えるんだが」
 年が明け、数え14になった忠慧がそんなことを言う。
「あら、どうして?」
 こちらも数え19になった阿津が、忠慧に尋ねた。
「左利きじゃないかと思うんだよ、下手人はどちらも」
 忠慧が、姉の前で竹刀を構えて見せた。
「左利き……?」
 姉の前でわざと左手を主軸に刀を構えて見せて、忠慧は目の前の的に何度か切り込む。
「それに踏み込みが弱いから、剣術を得意としている者ではない。斬られた方は相当、痛い思いをして、長い間、苦しみながら死んでいったんじゃないだろうか」
 いづれも奉行所が追っていた極悪人とはいえ、むごい死に方をしたものだと、忠慧は死んでいった者たちを憐れむ。
 万が一、忠慧の言うとおり、矢七を襲った犯人が「月夜の使者」で、辻斬り犯が同一人物だったとしても、左利きで剣の達人ではない者。たったそれだけの情報で「月夜の使者」の素性がわかるわけではない。
「こどもが、聞き得たことだけを頼りに下手人を割り出そうなどとするものではありませぬ。父上や月岡殿の捜査の邪魔になりましょう」
「わかってる。まあ、いま流行の判じ物ごっこだとでも思って、忠慧の話もお聞きくださいませ、姉上」

 江戸の町では、奉行所も追えない下手人を、ちまたのゴロツキ「ねずみ」が解決してしまう探偵小説のようなものが、男の子たちの間で流行していた。
 算術の謎解きをしながら犯人を追っていくストーリー仕立てになっているのだが、これを、複数の寺子屋が共同で発行している。こどもたちは寺子屋で習った知識を使って主人公の「ねずみ」とともに犯人を追っていくが、きちんと正しい答えを出さないと先生が下手人が捕まえられなかったシナリオをくれるようになっており、この「ねずみ」小説にかぶれたこどもたちは小説が正しい結末を迎えられるよう、必死になって算術の勉強をしていた。

 忠慧も「ねずみ」にかぶれているのを知っている阿津は、大きく頷く。
「では、お伺いいたしましょう。ねずみ殿は、誰が下手人であるとお思いか?」
 阿津がそうおどけると、忠慧が調子に乗って、ゴロツキ「ねずみ」になりきって話し出す。普段おとなしくて父や自分に意見など言えない弟が、「ねずみ」のこととなれば嬉しそうに、楽しそうに話し続けるのを、阿津は愛おしく思いながら聞いていた。

 如月を迎えたある夜……相模屋の裏口から、ひとりの男が外に出る。まだ宵の口だったが、寒い冬の日のこと。あたりは真っ暗で、雪がちらついている。
 武家の子が通う学舎では、先生の仕事の手伝いですっかり帰宅が遅くなってしまった忠慧が、ちょうど友人たちと別れて相模屋の角を曲がったところだった。
 忠慧は、男の異様な姿を見とがめて足を止める。
 男の目が……赤い。口からは白い息を吐き、ただ、目が赤く爛々と輝くさまが、忠慧の目には奇妙にうつった。男が右手に持つ太刀に目を留める。「月夜の使者……!」
 その名が思わず口をつく。
「誰だ!」
 男が、赤い目をこちらに向けた。
「ひ!」
 叫んで、忠慧は大通りに向かって逃げ出す。
「誰だ!」
 同じことを、男は二度聞いた。
 忠慧は、応えない。ただ、懸命に大通りに向けて走った。
「助けて、助けて、助けて!」
 蹴躓いて、転ぶ。
 男が、刀を振り上げた。
「姉上! 助けて!」

 ……それが……数え14歳になったばかりの忠慧の、最期の言葉になった。


 玄関先で、すでにこときれた忠慧を阿津が見つけたのは、早朝のことだった。
「忠慧。忠慧……」
 一晩かけて、歩いて帰ってきたのだろう。
 やっと家について、ほっとしたのかもしれない。
 忠慧の表情は、ただ、穏やかだった。
「忠慧……」
 父の鬼奉行も母のお初も、忠慧の亡骸を見て、力なくうなだれる。ただ、数え4つのなお殿だけが、「あにうえ」と無邪気に忠慧を呼んだ。
「左利き……」
 忠慧の切り傷を見て、阿津がぽつりとそう呟く。
「……左利き?」
「忠慧が、月夜の使者は左利きだと、申しておりましたの」
 阿津にそんな話を聞いて、鬼奉行は息子の亡骸の、切り傷をまじまじと見つめる。
「……左利き……」
 じっと呟くと、鬼奉行は妻に通夜と葬儀の手配を申しつけ、阿津を伴って奉行所の道場に入る。
「太刀は両手で振るうもの。左利きの者とて、太刀の持ち方は右利きと同じ」
 そう言いながら、父は阿津の前で竹刀を振るう。
「そんなことは忠慧もよう、存じておるはずだが」
「おそらくは、剣を振るったことがない者の仕業だと、申しておりました。下手人は、太刀の持ち方すら知らぬのではありませぬか?」
「……剣を振るったことがない? 武家ではなく、町民の仕業と申すか」「……わたくしでは、存じかねます」
「埒もない。14の子どもの申すこと……月夜の使者の捜査は同心頭の藤川によう、言い聞かせておる。子どもが口を出すな」
「余計なことを申し上げました」

 それ以来、阿津は「月夜の使者は左利き」だという話をしなくなった。


 忠慧の通夜は、翌日。
 葬儀は、その次の日に……奉行所の中で、ただひっそりとしめやかに執り行われた。

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