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言論の自由なんてなかった

小林賢太郎さんは過去のネタで叩かれ、シャルリーエブドはイスラム過激派に襲われたけれど、前者と後者では世の中の扱われ方が著しく違う気がする。

実は言論の自由なんてなくて、「世の中には言っていいことと悪いことがあるらしいね」ってことが、これらの事柄から透けて見えるねって話。

ユダヤ人惨殺ネタ叩かれた

かつてのラーメンズのネタの中に、こんな毒のあるものがあった。

まあ、この頃のラーメンズって怖いもの知らずなところもあって、このネタもNHKの「できるかな」の「ノッポさん」と「ゴンタくん」を使って馬鹿馬鹿しい笑いを作り上げてるわけなんですが、その中での「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」というワードがきっかけで、小林賢太郎さんは東京オリンピックとパラリンピックのショーディレクターから降ろされることもなった。

ネタをご覧いただいた方や、以前からこのネタを知っていた方なら、その後に「戸田さん怒ってたなー!『放送できるかっ!』って」と、やってはいけないネタの話であったことが、ちゃんと語られているわけなんだけど、僕の肌感覚で申し訳ないけど、そのことは正しく語られず、過激なワードだけが一人歩きして、面倒臭い事態に陥ったような気がする。

まあ、良識のある人たちからすれば、けしからんネタなのだろうけど、このネタ自体が二十年以上前のものであり、「そんなに問題にするのなら、何故電波にのった時に取り上げなかったのか?」と僕なんかは思うのだけれど、世の中的には叩くタイミングが重要だったみたいで、人気絶頂だった頃のラーメンズよりも、世界的に有名になった小林賢太郎の方が叩きがいがあったのかもしれない。

「言論の自由」なんて言葉は、圧力団体や良識ある人々の前では無力で、単なる毒のある笑いであっても、気に入らない要素があったら告発して圧力をかけて封印されてしまうわけだ。

イスラム原理主義批判は、風刺だから許された?

ところが、ところがだ。

一部の人たちにとってはもっと許されないことが、何故か許されてしまったケースもある。

まあ、この表現は、僕の肌感覚からのものなので、全ての人たちが同様の価値観で評価するかは別だろうけど、現在のイスラエルが抱えている問題と、西欧諸国の動きを見ていると、そんな風に思えてしまうんだよね。

何かというと、ある過去にあった風刺画をめぐるテロ事件のことだ。

シャルリー•エブドについては、かなり毒のある風刺をすることで有名で、かつては東日本大震災で起きた原発事故の件もきっちりネタにしており、日本は得意の「遺憾の意」で対抗したものの、批判意見が沢山あった気がするんだけど、それに対して海外的には「ユーモアのわかんねえ奴らだなぁ」と思われていたことだろう。

※この辺、僕が記憶を頼りに書いていたけど、日本が「遺憾の意」を表したというのは勘違いだったらしいので、訂正します。

ところが、ガチで「ユーモアのわからない奴ら」にも同じようなことをやってしまって、ガチギレさせてしまい、テロの標的になってしまった。

まあ、はっちゃけ過ぎて言っちゃあいけないことを言い過ぎた報いだと思った人もいたことだろう。

僕も、そんなことを思っていたんだけど、ところが、世間の物の見方はラーメンズの時とは違った。

とても不思議な光景に思えないだろうか?

ラーメンズのギャグは叩かれて、シャルリー•エブドは許されてしまった。

西欧社会の中にある心の棚

一つ思い当たることがある。

それは、その発言者が誰なのかだ。

小林賢太郎さんという人は、コメディアンやパフォーマーとして海外での公演実績もある訳だが、所詮は東洋人で、シャルリー•エブドは風刺をする新聞としての知名度もあり、何より西欧社会の中にあるものだ。

その違いが、二つの表現に大きな差をもたらしたのだろう。

彼らがいうところの「表現の自由」なんてものは、彼らの彼らによる彼らのための表現の自由であって、日本人は蚊帳の外なのだ。

表現というのは、発言者の人種や信仰する宗教、政治的な立ち位置によって、言ってはいけないことができてかる。

昨今では、ポリティカル•コレクトネスやらで、表現の自由なんか二の次で、言ってはいけないことを言えば、盛大に叩かれるような時代になっている。

インターネットも例外ではなく、SNSでちょっと口が滑っただけであっても、存在を否定される程度には叩かれるだろう。

言論の自由という虚構

まあ、世界ってそういうものなのだろう。

口では綺麗事を並べて「私たちは寛容でございます」と取り繕っていても、触っちゃいけないことは多々あって、そのことを棚に上げて自分たち以外の不寛容さを批判して罵るものなのだろう。

以前にも記事で書いたことだけれど、日本のアニメのキャラクターを手前勝手な解釈で肌の色を褐色に塗りたくったり、別の人種にしちゃったりすることが、正しいことだと考えている輩がいる。

表現に寛容な連中なら、こんなことはしないだろう。

そして、原作へのリスペクトを忘れず、批評やギャグも、それらの意味合いや価値も、例外なく価値を正当に評価されることだろう。

ところが、実際はそうではない。

一部の連中のお眼鏡にかなわない表現は看過されず、少しでも逸脱すれば消されてしまうわけだ。

そんな、物が言いにくい世の中に僕らは生きている。

肝に銘じなければならない

不適切な表現というのは当然あるだろう。

しかしそれは、その立ち位置によっては許容される可能性があったり、シチュエーションによっては真逆の意味になるものもある。

それらをきちんと吟味して、批判する時は批判して、議論するときは議論し、戦う時は戦わなければ、いつか我々が本当に言いたいことが言えなくなってしまう世の中になってしまうのかもしれない。

「世の中がそうだから」と右に倣えをする前に、一旦自分の頭で考えたい。

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