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赤ちゃんポルノ―愛玩動物としての子供

私はYouTube を頻繁に利用する。観るものといえばもっぱら語学のレクチャー、外国語のアニメ、大学のシンポジウムや公開講義のアーカイブ、テレビ局の制作したドキュメンタリーや対談から、Kポップアイドルのダンス、筋トレ動画まで様々だ。そして、それらにもまして私のお気に入りは「赤ちゃん動画」だった。生まれて間もない赤ちゃんの寝顔やにっこりと笑う姿、たどたどしく話す様子は一目見てかわいらしく、視聴後にはえもいわれぬ癒しと満足感を覚える。彼や彼女の歩む未来が幸せなものでありますように!そう願うこともしばしばである。ところがいつからか私はこれらの動画を心から楽しむことができなくなった。私の良心が私にこう問いかけてくるのである。「これってほんとに見てもいいものなのかな?」と。

まず、本論のタイトルの説明をしよう。「赤ちゃんポルノ」とはなにか。そもそもポルノとは本来、人々を刺激する性的な表現メディアを指す言葉である。しかし、やたらと食欲を刺激する画像を「フードポルノ」と呼んだり、お涙頂戴の映像を「感動ポルノ」と呼んだりする場合もあり、近年その語の使用範囲は拡大しつつある。アメリカでは「ジェネリックポルノ(一般的ポルノ)」と呼ばれるものがある。その定義は「主に見る人に満足感を与えることを目的とし、提示された内容に伴う通常のコストや結果を免れた表現形態」のことだという(サラ・ウォース『食の哲学』187頁)。そこで私はこの概念を応用して、赤ちゃん動画を「赤ちゃんポルノ」と呼ぼうと思う。なお、「児童ポルノ」という言葉が子供を性的な対象として扱うものであり、実際に小児性愛者の中には生後間もない乳児を対象とする者もいるが、ここでの「赤ちゃんポルノ」は児童ポルノに含まれるような性的な意味合いを強調するものではない。単に「かわいい赤ちゃんの映像」のことを指す。近接した赤ちゃんの表情や、はじめて寝返りを打った、歩いた、立った、話した瞬間、ご飯を食べる様子、遊ぶ様子、踊る様子は、自分で子供を持ちでもしない限り見られえない。またフードポルノでは画面いっぱいに広がる肉汁滴るハンバーグ、今にもとろけそうなチーズやバター、アイスクリームなど、実際に提供される商品以上の描写がなされる。性的なポルノでもそうだ。普段は隠された胸や臀部を強調した女性の姿は、往々にして現実離れしている。そういうわけで、「赤ちゃんポルノ」は、実際のおむつ替えも食事の世話もお風呂に入れることも免れて、ただただ赤ちゃんのかわいい部分をより強調し享受することができる映像であるという点で、ポルノと呼ぶに十分妥当するのではないかと思う(なお前述の哲学者サラ・ウォースは同書で、多様化するポルノの中でも本来の性的な意味でのポルノとフードポルノとの親近性について特に強調している)。

確かに、「赤ちゃんポルノ」の呼び名はにいささか過激に思える。事態を実態よりも大げさに捉えているのではないかと言われるかもしれない。きっと人はこう言うだろう。小児性愛者の性的消費の対象になっているという想定を除けば、投稿者(そのほんどが親)は単に自分の子供がかわいいと思い、それをシェアしようという軽い気持ちで、特に金儲けや子供を有名人にしたいという欲望もなく子供の動画をアップしているのだし、それを観ている私たちもその子供を性的あるいは悪意ある目線で観ているわけではない。観ることによって癒されているし、YouTubeの利用規約や法律に抵触するようなこともしていない。それなのになにが問題なのか?と。私はここで言いたい。むしろ、そしてまさにその感覚が問題なのだと。この事態を何ら問題とも思わない、その鈍麻し腐敗した感覚こそが問題なのだと。

この問題について考えだしたとき、動物学者である小原秀雄と、映画監督である羽仁進による共著『ペット化する現代人』を思い出した。副題は「自己家畜化論から」である。自己家畜化とは、20世紀初頭にアイクシュタットという学者によって提唱された、人類学上から見た人類の形態の特徴を示す概念である。小原と羽仁によると、人間は自分で自分のことを飼育しているという。というのは、我々は社会の囲いの中で生産された食物を食べて暮らしている。その環境、システムは自分たちで作りだした。そして、豚や鶏が人間の手によって人間が好む性質を強化し、好まない性質を退化させていくように(人為淘汰)、人間は社会の動向やあり方が個々人の形質を選択する(社会淘汰)。そうして豚ならよく太り狂暴でなくなるよう、鶏ならよく卵を産み飛ばないように淘汰されていったが、人間の場合は頭(脳)を使うように、同時に既に構築されたルールに従順であることが求められた(ここに人間の存在様式の矛盾が生じるのであるが)。家畜の特徴として、「怠けない(怠けることを許されない)」ということが挙げられるが、人間にとっても怠惰は悪徳とされる。しかし、人間ほど勤勉な生き物は珍しいという。たいていの大型動物、特にライオンなどは必要な時以外は眠ったりして怠けている。また、人間が自分自身を飼育している証左として、周辺の環境がどんどん自然状況に左右されない方向に進んでいるということが指摘される。それは道具を使い、家を作り、灌漑し…といったような形で拡大される。そしてそれを維持するために教育を含む社会的システムも構築される。言葉や情報も含めた広い意味での「道具(モノ)」に囲まれた人工的な環境が拡張される――と、ここまでは自己家畜化の概要であるが、問題にしたいのは、自己家畜化が先鋭化した「自己ペット化」である。自己ペット化は自己家畜化と本来的に変わるところはないが、自己家畜化の管理・保護・人工化が進んだ特殊な状態を指す。人工的なシステムには、人工的なモノが不可欠である。人間は、モノと不可分なのである。

以上の「自己家畜化」、「自己ペット化」の論点を踏まえると、現代人は自分自身をペットとして飼っていると同時に、自分の子供もペットとして飼っているのではないかと私には思える。飼育する子供の数を一人か二人に制限し(バースコントロールは人間にも家畜にも求められる)、その一人一人に相当のコストをかけて手厚く世話をし、小さい頃は一人で外出させることはせずに主に家の中で育て、外部との交流は学校か習い事など目の届く範囲に制限し、過保護というほどに干渉する。本論の副題である「愛玩動物としての子供」はここに由来する。さらにインターネットとスマートフォンの登場である。「自己家畜化」、「自己ペット化」は、モノなしに成立することはないが、その中でもインターネットとスマートフォンとが我々にとって最も大きいインパクトの大きいモノの一つであることに異論はないだろう。これらによって環境は大きく変容した。今までなら知る由もなかった世界全体が自分を取り巻く環境となった。インターネットのつながりは留まるところを知らない。加えて、家畜の持つ「怠けない」性格のため、それらを使ってどこまでも関係は広がっていく。それに伴い監視は強化される。そして、ここにおいてやっと冒頭の問いに立ち戻る。要するに我々はモノに囲まれ、それらに駆り立てられることによって、立ち止まって考える時間が奪われているのである。だから、投稿された映像を成長した子供が知ってどう思うか、子供自身にどのような影響を及ぼすかも考えないままに、我が子を子猫や子犬に対するのと同じような気持ちでSNSに投稿するのである。かつてならフィルムを現像するまでに時間を要したし、録画したビデオを再生するハードが必要で、観るにも巻き戻したりする必要があった。とにかく時間がかかった。しかし今は違う。動画を撮るのも、それを観るのも、ネットに投稿するのも、すべて一つの媒体で完結する。そういうわけで、ここで「なぜ動画を投稿するのか?」の問いは無効である。きっとこう返ってくるのが関の山だろう。「明確な理由はないが、しいて言えば、右手にスマートフォンを持っていたからだ。そしてそのスマートフォンに、カメラとYouTube のアプリが入っていたからだ」。道具を手に入れ、反省を手放したようだ。

しかし、当然のことながら人間は家畜でもなければペットでもない。人類の「自己家畜化」、「自己ペット化」という特徴は、あくまで「“自己”家畜化」であり、「“自己”ペット化」なのである。単なる家畜化やペット化ではない。もし反省を忘れたとしても、また思い出し、そこから軌道修正すればいい。子供の動画を撮影しネットに投稿する行為は、少なくとも子供にとって最善の選択ではない。ペットのような我が子の動画について、投稿者はどう考えるか。また、それを視聴し消費する側にも責任がないとは言えない。現在のところの私の考えとして、既に成人し、自分の子供の頃の動画を投稿することを承諾したと思われるものに限って視聴している(たとえば松本ぷりっつのYouTubeチャンネルの動画)。やはり、本人の承諾を得られないままに、その様子をネットに上げることはよくないだろう。しかも名前まで出して。それに、そういう動画を上げる親に限ってご丁寧に自分の顔は隠していることも少なくない。その態度もなんとも小賢しい。令和に生れた子供やその親にとって、今後もネットにどんどん個人情報を上げていくことはライフスタイルの一部になっていくのかもしれない。その時には、私の現在の考え方も変わるのかもしれない。いずれにせよ、立ち止まり、考える時間を失わないようにしたいものだ。


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