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汝自身をどう知るか?―「調子に乗る」ことの功罪についての試論


「身の程をよくわきまえて…」

 『縛られたプロメーテウス』の呉茂一による訳注に以下のようなものがある。場面は、天界から盗んだ火を人間に与えたプロメーテウスが罰として縛られ嘆いている最中、叔父のオーケアノスが「身の程をよくわきまえて…」と彼をなだめるところである。

身の程をわきまえ…デルポイの箴言「汝自身を知れ」の変形。これが本来の意味とされる。

アイスキュロス『縛られたプロメーテウス』呉茂一訳、岩波文庫、1974、91頁

 デルポイのアポロン神殿に刻まれるあの有名な格言の原義は、「身の程をわきまえろ」だという。要するに、調子に乗るなということである。

 「あいつ、調子乗ってるな」と思うとき、私たちはたいていその相手に対してポジティブな感情を抱いていない。「調子に乗る」なんて、字面だけ見ればむしろいい意味であるようにさえ思うのに。なぜといって「調子が乗らない」はネガティブな意味だし、その対義語として「波に乗るように調子がよい」と解釈することだってできるだろう。とはいえ、実際のところ「調子に乗る」が良いイメージとともに語られることはほとんどない。だとするとやはり「調子に乗る」のはよくない。私たちは「調子に乗る」べきではない!――しかし、そう結論づけるのはやや性急ではないか。一旦立ち止まって考えるべきである。実際のところ「調子に乗る」ことに伴うネガティブな感情はどこから生まれるのか?なぜ私たちは調子に乗る奴を許せないのか?「調子に乗る」ことはそもそも悪なのか?私たちは「調子に乗る」べきではないのだろうか?
 結論から言えば、「調子に乗る」ことそれ自体が悪なのではない。「調子に乗る」ことをおしなべて悪だと考えるのは、「調子に乗る」に対する考察が甘く、解像度が低いからにほかならない。そんなようではいつまでたっても「調子に乗る」の呪縛から解放されることはない。さてそこで私は、これから上に挙げたような「調子に乗る」を取り巻く疑問への応答を試みる。そしてそれと同時に、デルポイの神託の真意に触れることになるだろう。

なぜ調子に乗ってしまうのか?

 まず、私たちはなぜ「調子に乗」ってしまうのだろうか。その理由は明白で、認められたいからである。ただし、他人から認められればそれでよいということはない。自分でも自分のことを認めたいのである。むしろこちらが主たる目的で、一旦他人を介することによって、「他人に認められた」というお墨付きを以て自分を認めたい。「調子に乗る」というのは、他人からおだてられることで自分を認めようとすることであり、承認欲求の巧妙な現われ方、満たし方の一つなのである。
 承認欲求は虚栄心と容易に結びつく。はじめは「ちょっと話を盛る」程度で抑えられていたかもしれないが、それによって甘い蜜を吸うことを覚えるとどんどん過激さを増していく。ショーペンハウアーは、「それ(虚栄心)は、あらゆる人間の傾向性のなかでも最も壊れにくく、最も活発で、最も愚かなものである」と鋭く指摘する。これが語られるのは『意志と表象としての世界』の第4書の終盤、聖者たちが悟りを得て一度平安と浄福を勝ち取ったとしても、表象としての世界に現象として存在する限り(身体を持つ限り)、魂には様々な不純な誘惑に抗するための不断の闘いが強いられるという部分である。断食をはじめとする厳しい禁欲の修行にひたすら耐え、やせ細りみすぼらしい恰好をした清廉な聖者になってもなお「こんな厳しい修行に堪えている私を認めてほしい」という邪な気持ちが湧き上がってくるのである。
 さらにクサカベクレスによればシノペのディオゲネスにまつわるこんな逸話が残っているそうだ。いつもみすぼらしい恰好をしているディオゲネスだが、ことさらにマントの破れ目をアピールしていたので、プラトンから「君のそのマントの破れ目から君の虚栄心がちらちらするよ」と言われたという。なかなか辛辣なプラトンにくすっとするところもあり、自分を振り返りぎくっとするところもある。非常に示唆に富む逸話である。

SNSという病

 賢人なおもて虚栄心の魔の手から逃れること難し。いわんや俗人をや。まして現代でその傾向は顕著だろう。SNSの普及により芸能人気取りの凡夫が爆発的に可視化されるようになった。それに伴い「職業 インフルエンサー」などという意味不明の肩書が通用するようになった。これだけインターネットなどのメディアが発達し発信の場がお膳立てされている環境で、その端数にも満たない数万ユーザーのフォローを獲得したくらいで「俺は他の奴らとはちがう」とどうしていい気になれるのだろうか?5年後、いや1年後にお前のことを覚えている人が果たしてどれだけいるだろうか?フォロワーの中に、お前が苦しい時に傍にいてくれる人、お前が消えた時本当に惜しんでくれる人はいるか?マスメディアがない時代に町から町へと噂になったギリシアの七賢人こそが本当のインフルエンサーである。2000年以上の歳月が過ぎた異国の地で、今なお彼らの言動は私たちの胸を打つ。命果ていよいよ冥界に赴く時、そんな彼らの前で「私は生前インフルエンサーでした」と臆面もなく名乗ることができるだろうか?きっと「悪いが、君のことは知らないね」と言われて終わりだろう。

マズローよ聞け

 俗人は救いようもなく怠惰であるがゆえに苦心して克己するつもりは端からない。それでも他人から認められたいし、そんな自分を認めたい。それではどうするか。自分を向上させる代わりに、他人を貶める方向へ努力するのである。恣意的に自分より「下」で勝てると思えるような人間を抽出し(この際発揮される目利きの腕は見事としかいいようがない)、必要以上に手厳しく非難し、「こいつはだめだ!」という表向きの非難の裏で、「私はこんなやつとは違う!こいつより優れている私を認めてくれ!」と必死の形相で訴えかける。(ここで彼は最も基本的なことを忘れている。自分より「下」の人間がいるということは、それと同じくらい自分より「上」の人間もいるということに……。しかし不思議なことにその発想は彼の頭からきれいさっぱり除かれているのである。)既に手許にある劣悪な素材(自分より「下」の他人)を引き合いに出して「それより自分はマシ」といい気になるのは確かに楽だ。しかし一度相対性の土俵に乗ってしまえば、安心するどころかますます自分の立場を危うくすることになる。そうして結局余計に自分を惨めにしてしまうのだ。
 楽して自分を認めたいがあまり、自分を棚に上げて他人を傷つけ優越感に浸る。「調子に乗る」とは、本来他人におだてられていい気になることである。しかし俗人はそもそも他人からおだてられる機会もないのだから、おだての素材をも自給自足するしかない。そしてその素材は他人である。他人に認められたいがために、他人を犠牲にするのである。身の程知らずというにも程がある。マズローの欲求階層説はここにおいて書き換えられるべきであろう。承認欲求は生理的欲求よりも間違いなく根深いものである。

かわいらしいお調子者

 以上の考察を見ると、やはり「調子に乗る」ことは悪ではないか。調子には乗らないに限ると思われるかもしれない。しかしまだ早い。私たちには一歩進みだす余地が残されている。ここでの問いは、「お調子者はみんながみんな嫌われているか?」というものである。そして回答は否だ。
 確かにお調子者は周囲に煙たがられる傾向はあるものの、その中にはなんともいえず可愛げのある奴もいる。「こいつは調子がいいなあ」と思われつつ、憎まれないキャラクターは存在する。その特徴は、「過去の自分と比べて調子に乗っている」ということができるだろう。例えば、「毎日やってるうちにギリシャ語が読めるようになってきたんだよね。俺って天才じゃね?」とか、「私ってコツコツ筋トレ頑張っててほんとすごいわ~」とか、そういう発言を聞いてもそれほど不快にはならない。努力によって過去の自分より立派になったという根拠があるからだ。そこには文脈があるし、自分を上げるための素材として他人を持ち出すという下心もない。しかもその成長は確固たるものだ。それに対しては、どれだけ些細な成長であっても素直にすごいと認めることができるし、どれだけ大きなことを成し遂げてもその背景を知れば納得できる。他方、「俺は○○大を出て○○万円稼いでるから偉い、それ以下の奴はクズだ」とか、「そこらへんの子よりかわいいんだから私は優遇されて当たり前よね」とか、そういう言い方になると途端に不興を買う。両者の違いは明確である。やはり、嫌われるお調子者はみな意識的にせよ無意識的にせよ他人をダシにしていい気になろうとしている。その卑怯さと小賢しさを、私たちは非常に敏感に感じ取る。生まれついた性質や運によって得られたものを、あたかも当然の自分の手柄かのように振る舞うことに対し違和感を覚えるのもそのためだ。生まれ持ったもので調子に乗るためには、他人と比較するしかない。これはエピクテトスの言うところの「権内」と「権外」との区別と合致するのかもしれない。
 上の対比では、同じ「調子に乗る」でも過程重視は好かれ、結果重視は嫌われるとも考えられる。結果とは、特に数字を用いたもののことである。

「汝自身を知れ」の真意

 ここで「汝自身を知れ」の意味を考えよう。それは私の思うに、「調子に乗ることで他人を傷つけるな」という倫理的要請なのだ。「汝自身を知れ」からは、「汝自身をどう知るか」という問いが生まれ、それはつまり「自分にとって自分は何者か」を探究することなのである。自分にとって本当に大切なものが何なのかは、他人と比べたところでわからないままだ。
 調子に乗ることそれ自体は悪いことではない。調子にも乗り方があるのだ。それに気づけばあと一歩である。皆で調子を乗りこなそうではないか。そしてご機嫌なお調子者ライフを!

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