好きな人③ 千葉雅也

周囲の人にはしばしば告白しているのだが、私は千葉雅也が好きだ。もしかすると、生きている人間の中で好きな人として公言している唯一の人かもしれない。彼を知ったのがいつだったのかは定かではないが、今はもうやめてしまったツイッターをフォローしていたことは覚えている。しいたけ占いをチェックしている姿や、筋トレについて話す様子が記憶に残っている。彼があるつぶやきで炎上した時には、それについて知人たちとスペースを開いて語らったこともある。その件については、確かに一見面食らうような発言だったので炎上するのもやむなしという感じではあった。加えて彼は優しいので、ある程度は根気強く馬鹿どもに付き合う。そしてその結果余計に火に油を注ぐような様相を呈してしまう。その姿を見た味方と思っていた人間にも呆れられてしまう。彼は当たり前のことを言っているのにもかかわらず誤解されるタイプだと思った。結局のところ、そのつぶやきはよくよく彼の人となりや真意を考えれば別に突飛なことを言っているわけでもなかったのだが。けれど、むしろ彼のそういうところが好きなのかもしれない。周囲に理解されない人こそ、本当に世界に対して誠実な人間である証拠なのかもしれない、と心のどこかで気づいているからだ。

好きといいながらも、実は彼の本は哲学書も小説も含めてほとんど読んだことがない。では彼のなにが好きなのだろうか。具体的に指し示すことが難しいのだが、しいて言うなら、人となりだろうか。本を読んだことがなくても、対談動画はよく見る。千葉雅也は語り口が優しい。その優しさは、いうならば母性だ。今になって考えると、以前の記事の「聴く女(ひと)」とは、その原体験として千葉雅也のことを想定していたかもしれない。当時はそんなことは全く考えていなかったが。だが、もし今「では、お前の言う聴く女(ひと)とは誰のことなんだ」と聞かれたら、千葉雅也と答える。そしてここが大事な部分で、彼のなかにあるのは傾聴し優しく励ます母性だけではないのだ。父性というべきか、男性的な部分も確かに見えるときがある。それは対談相手やテーマによるのかもしれない。決して攻撃的な口調であるとか、議論のための議論というわけではなく、ズバリ言うことは言い切る勇気と自信、頭の回転に伴う発言の疾走感が表れているということだ。母性と父性は相反する性質ではない。『勉強の哲学』はそれを体現する一端である。しかし、なかんずく千葉雅也の声や語り口は、まさに女(ひと)なのだ。

彼のことは折に触れて話していたのだが、文字にしたことはなかったので、ここに書き留めておく。もし本人に見られたら恥ずかしいが。

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