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Call your name

小学生のいとこから興味深い話を聞いた。かれの通う学校ではあだ名が禁止されているらしい。なので友人のことを「苗字+さん」で呼ぶのだという。そしておそらく男のことも女のことも一律にそう呼ぶ。
 これを聞いた時、思わず吹き出しそうになった。あまりにもばかばかしかったからだ。しかし、このことを教えてくれたいとこ当人はいたって真剣な様子だったので、笑うことは我慢した。後日インターネットで調べてみると、どうやらこの規則はかれの通う学校だけのものでもないらしい(「あだ名」「呼び捨て」は禁止、小学校で「さん付け」指導が広がる : 読売新聞 (yomiuri.co.jp))。上の記事によれば、大人の社会でも、上司と部下が等しく「さん付け」で呼ぶよう決めている会社があるというし、今後は、これもまた受刑者と職員がお互いに「さん付け」で呼ぶようになるという(受刑者らの呼び方、4月から「さん」づけに 全国の刑務所や拘置所で:朝日新聞デジタル (asahi.com))。市井の人々にとって呼称を規定することは、どうやらそれほどくだらないことでもないようだ。

かれらの言いたいことはわからないでもない。例えば小学校では、教員は人手が足りない中で厖大にある雑務をこなさなければならない。そんな中子供同士のトラブル対処や保護者からのクレーム等への対応はできる限り避けたい。そのためには、トラブルの一因となりそうな呼称について、あらかじめルールを決めてしまい問題を未然に防ぐ(あるいは、防ごうとしたという姿勢を見せる)のが賢明だ。
 大人同士の場合でも、肩書によるラベリングによって不要な対立が生まれるのを防ぎ、円滑なコミュニケーションを図ることが生産効率の向上に寄与するかもしれない。理屈はわかる。それに、実際に呼び名を変えることから相手への態度も、相手からの態度も変化していくことがあるかもしれない。しかし、本当にそれでいいのだろうか。私には、依然として皮相な問題対処にしか思えない。
 そう思われるのは、名前を呼ぶという行為が一見形式的であるが、実はきわめて内的な態度の表れのひとつであるからだろう。だから、ルールという極めて表層的な枠組みを打ち出すことでこれらの問題が解決されると考えるのはナンセンスに思えるのだ。さて、ではこの問題の核心はどこにあるのだろうか?

名前を呼ぶことができるというのは、その時点で既にある程度の関係性が成立しているということである(たとえ一方的であっても)。そして名前を呼ぶことは関係性の表出にほかならない。例えば、家族や恋人や親しい友人に、どうやって呼びかけるか考えてみてほしい。呼び名は一つだろうか?時にはあだ名で、時には呼び捨てで、時にはさん付け、くん付け、時には「あなた」、「ねえ」とか「あのさ」とかで呼ぶこともあるかもしれない。少し気障に、Schatz、 Liebling、 honey、 darling と呼ぶこともあるだろうか。そしてそうした呼び名は、相手との時間を積み重ねることで、つまり関係性が保たれ、深まり、変化していく中で、自然と増えていったのではないだろうか。あるいは、呼び名を変えることが関係性をシフトさせるのに一役買うことだってあるだろう。
 相手の名前をどう呼ぶかというのは、相手との関係を構築したり、発展させたりするために欠かせない要素なのである。反対に、呼称の制限は関係性の発達を抑制する。そういうわけで、先に見た小学校や会社、刑務所での呼称の規制は、たとえ善意からであってもやはり規制であり、しかも関係性の規制なのである。それは、言ってしまえば人間性の喪失である。それゆえに私にはどうしても首肯しかねるのである。

相手の名前を呼ぶことと相手に対しどう思っているかの関係は、行為と心の相関関係として広く捉えると、セクハラ問題の本質にもかかわってくる。
 セクハラは一般的に上下関係の中で起こる。年上の男性上司と年下の女性部下というのがよく見られる構図かもしれないが、さらに洗練すると、(男女関係なく)年上が年下に、というのがひとつの法則だろう。これは、一般に年長が年少のことを真面目に扱わないということからくる。そして、人はそういう自分に対する見下しを敏感に察知する。体を触ったり、性的な話題を持ちかけるという行為それ自体よりも、それ以前に、そしてそれ以上に、行為を通して包み隠さずに表明される侮蔑の態度に嫌気がさすのだ。「ああ、自分は『こういうことをしてもいい人』だと思われているんだ」。こちらの気持ちは無視してもよいものと考えられているか、そもそも考えられていない。通りであそこまで失礼なことができるわけだ。

実際、セクハラとして告発された行為のリストだけを見れば「大したことないじゃん」「そんなことで?」と思ってしまうのは、ある意味無理もないことかもしれない。なぜならセクハラ問題の本質は行為それ自体にあるのではなく、行為者の相手に対する敬意の欠如にあるのだから。ともすればセクハラとして告発される行為でも、別の場面では親密な間柄で交わされる愛ある行為と解釈される。行為は同じなのである。では何が違うのか?心である。
セクハラ問題を考える上で行為にばかり気を取られている者は、「女性だからお茶汲みをしなさい」と命令することと、お茶汲みを買って出る人物に対し「女性だからといってお茶汲みをする必要はないよ」と声をかけることとの本質的な一致を理解することはないだろう。彼らは、もうひとつの声が人間の声であることを理解していない。

これはもっと深めれば言葉そのものにも関わってくる。言葉とそれを発する人とは不可分だ。「誰」が言うかも、「何」を言うかも、両方同じくらい大事だ。当たり前のことなのだが案外意識されていないこの事実を闡明するために、『花もて語れ』という作品を挙げてみよう。
 『花もて語れ』は片山ユキヲによって手掛けられた漫画である。本作のテーマは朗読。内向的な性格の主人公佐倉ハナが、朗読と出会うことで「声」に魅了され、成長していくという物語だ。この作品の中に、「声」を考える上で非常に示唆に富むワンシーンがある。

片山ユキヲ『花もて語れ 1』小学館、2010、106頁
同上、107頁

「声」とはまさにこういうものなのだ。声とは、「誰か」が「いつか」「どこか」で発するものなのだ。これらのどれ一つを取り除いても声は成立しない。
 声が文字として残る場合もある。そうすると、言葉だけが残り「詠み人知らず」の状態となることもあるだろう。私たちは時としてそんな言葉に慰められたり、勇気づけられたり、反省させられたりする。そして時間を超え、地域を超え、言語を超え、文化を超えて、こんな言葉を残すのはどんな人物なのだろうと思いを巡らせる。もっと正確に言うと、こんな言葉を紡ぐ人物は、どんな風に世界を見ているのだろう、と。私たちはやはり言葉を通して人を見ようとしている。言葉はあくまで手がかりにすぎない。

同じ呼び名でも、誰に呼ばれるか、いつ呼ばれるか、どこで呼ばれるかによって、帯びる意味は全く変わってくる。同じ呼び名でも呼ぶ人により、呼び方により、なんとなく馬鹿にされていたり、尊敬されていたり、貶されていたり、愛されていたりすると感じることがある。本当に大事なのは、相手に対する気持ちなのだ。あだ名や呼び捨てそれ自体が悪なのではない。表面的な規制で息苦しくさせるよりも、立ち止まって、こういうことを考えるべきではないだろうか。確かに、心持ちを教えることは困難である。だから、まず自分が行動する。そう、名前を呼ぶ。あなたの名前を呼ぶのである。


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