范蠡(ハンレイ) ―春秋妖将伝―

 その兵士は目を細めて、平原の向こうにいる呉の軍勢を見やった。
 遠目でもわかる巨漢が、名将と名高い伍子胥であろう。
 戦車と歩兵が整然と並び、軍規厳正は一目瞭然だ。
 兵士は戈を握る手に汗を感じる。「孫子の兵法」で有名な孫武が鍛え上げ、伍子胥が率いる呉軍はさぞ精強であろう。
 次いで、兵士は自分たち越の軍に目を移す。恐怖で出た汗が、別種の恐怖で退いた。
 古代中国・春秋時代の戦争は、現代の常識から大きく外れる部分が多々ある。
 しかしその光景は、過去から未来にかけてのあらゆる戦場と比較して奇怪なものであった。
 越軍最前列のさらに前に、二百人の男女が虚ろな目で横一列に並んでいる。
 老いも若いも様々だが、共通点は、簡素な貫頭衣を身に着け、抜き身の小剣を手にしていることである。
 その男女の前を、華美な甲冑に身を包んだ将が悠然と歩いていた。
 ひょろりと背が高く、雲の上を行くような不可思議な歩み。風に吹かれて、長い顎髭が空気に溶け込むかのようになびく。
 美形でも醜悪でもない、穏やかな顔。しかし兵士は、将の顔を見るのを恐れて目を逸らした。
 噂がある。その瞳に魅入られると、魂を残したまま魄を失うと。
 その将はふと1人の男の前で足を止めた。その男はがくがくと震えて今にも倒れそうだ。
 将は顔を近づけて、何事か話しかけた。何を言ったのか兵士には聞こえなかったが、男の震えは収まる。
 その時、呉の陣営で太鼓が打ち鳴らされた。開戦の合図である。
 越の軍勢でも太鼓が鳴ったが、前進するのは二百人の男女のみで、それ以外は待機だ。
 兵士は息を飲む。ついさっき知らされた作戦の内容を思い出して。
 二百人の男女は迫りくる呉軍を見据えると、手にした小剣で一斉に、自らの頸を切り落とした。

 紀元前496年、欈李の戦い。
 越軍は呉軍の目の前で罪人たちに自害をさせ、相手が混乱した隙を突いて攻撃し大勝した。
 この奇策というのも憚られる悪夢めいた計略で勝った将の名を、范蠡という。


【続く】

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