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父と車と思い出つらつら

父は某大手私鉄の社員だったので私鉄は無料で乗車できた。
改札で"パス"と呼んでいる写真入りの社員証を提示すると、定期券のように改札を通り抜けることができた。
家族も父と同伴するときは無料だったように思うが、自動改札が導入されるようになってからはどんなシステムに変わったのか、すでに親元を離れたので記憶にない。

ずっと沿線にある社宅に住んでいて、故郷の実家の近くに家を建てたのも私鉄の駅から7、8分のところだった。

いくつかある路線は駅で繋がっていて、浅草に遊びに行ったり、家族旅行はもっぱら日光鬼怒川方面だった。

現在の東京スカイツリー駅は、かつては業平橋という名だった。

子どもの頃に家族で浅草に出かけ、葵丸進で天丼を食べた思い出がある。
当時の浅草寺の仲見世通りは舗装されておらず埃っぽい土煙が上がっていた。

そう言えば母に連れられて、国際劇場でSKDの公演を観たことがあった。

夏の踊りという演目だったか…
華やかだけれど、少し寂しい感じがした。

花やしきで遊んだことがあったどうか…遠目に見ただけかも知れない。
高校生になってから行ったようにも思う。

ちまちまと手狭な敷地内に、隣接民家の屋根スレスレにコースターが走っていた。
あの頃(1975年ごろ)はもう寂れていたのだろう、都市近郊のあちこちに大きな遊園地ができていた。ディズニーランドはまだ先だけど。

話が脱線してしまった!
なんの話をし始めたのだったか…
そうそう、父と車だ。

そういうわけで、父は自動車免許証を持っていなかった。
なくても不自由しなかったのだろう。
が、四十八歳のときに一念発起して取得した。
千葉に引っ越して家を建てたので駐車場が確保できたのと、力試しのような気持ちもあったのではないかと思う。

父は鉄道員らしく真面目な努力家だったが、無器用で要領の悪いところがあった。
昭和九年生まれの父の世代の若かりし頃車は贅沢品だった。石原裕次郎主演の映画に出てくるような金持ちのボンボンが乗り回すか、仕事で必要な人が持つものだった。

運転免許証は今となれば誰でも条件が揃えば取得できるようなものだが、かつてはもっと難しかったように思う。
オートマチック車なんてなかった。

父の感覚では、車を操るのは器用な、男気のあるいわゆる「イケてる野郎」の専売特許だったのではあるまいか?と当時の口ぶりから察する。

齢四十八で果敢にも挑戦したのは、自分を試して自信を持ちたかったのではないか。

私は学校を出て働いていたので詳しい状況は知らないが、なかなか苦労したようである。
学科は暗記すれば良いのでどうにかなる、といっても四十八歳である。
さらに問題は実技で、年下の教官にかなり手厳しく指導されたようで悔しがっていた。
時間も費用も人の三倍かかったと話していたから、まさに血の滲むような努力だったのではあるまいか…

おかげで八十五歳で運転を止めるまで無違反、事故を仕掛けられはしたが起こしはしなかった。

父の運転は慎重だったが、あまり乗り心地は良くなかった。
神経質で、周辺の交通の状況や周囲のドライバーの動きや言動がダイレクトに響いてしまうらしく、黙ってやり過ごせない。
だから、同乗者は絶えず父の舌打ちや罵声や愚痴を聞かされる。
安全に運転していると分かっていてもハラハラしてしまい、落ち着いて落ち着いてと言いたくなるのだ。

むしろ黙って飄々と多少危険運転をしてくれている方が安心かも知れない。
堅物で小心で猜疑な父の憎む、世の矛盾である。

父は認知症はなかったが、亡くなる前の年に説得して車に乗るのをやめさせていた。
案の定、自分は大丈夫だと言い張った。
お父さんは安全運転をしている、だからこそ無事故無違反で有終の美を飾ろうと言った。
それでも納得しなかった。

ちょうど車検の時期だったので、これから二年ごとに車検を受ける車の維持費と任意保険とガソリン代と、たまに乗るタクシーの料金を天秤にかけてどっちが得かよく考えてと言った。
かつての勤め先から与えられていた"パス"は退職後も有効だった。
お父さんは電車にはタダで乗れるんだしさ。

これが決め手となり決心された。
私はディーラーに電話で、廃車にする旨伝え手続きにきてもらった。

引き渡すまでの数日に父は、三十数年愛用したトヨタのクラウンを、これまた愛用の毛ばたきで綺麗に磨き上げた。

※業平橋で検索したヘッダー画像は撮り人知らずのようです…
ありがとうございます♪

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