不連続線と絶対の探求~竹本健治著『匣の中の失楽』をめぐって

零 相対化と絶対化のベクトル
 竹本健治の『匣の中の失楽』は、相反するふたつの意志のベクトルに貫かれている。
ひとつは、根底的なな相対化への意志であり、もうひとつは、絶対的なもの、超越的なものへの意志である。

壱 <現実>と<虚構>のあいだで
 まずは、相対化ということについて考えてみよう。
 読者は、まず「序章に代わる四つの光景」によって、以下のような光景を目撃することになる。
1.曳間了の霧の中でのモノローグ、<不連続線>を超える試みについて
2.真沼寛のデジャ・ヴュ、思考が盗まれる経験について
3.倉野貴訓と久藤雛子の目碁で起きた三劫、不吉な予兆について
4.ナイルズこと片城成が実名小説『いかにして密室はつくられたか』を書くことを、ミステリー・マニアのファミリーに宣言するシーン

 こうして、一章に辿りつき、曳間了が<さかさま>の密室で殺害されているという場面に出会うことになる。この密室が<さかさま>と呼ばれるのは、以下の理由による。
1.密室の情況からして、犯人が犯行現場から逃走することなく、三時間以上留まっていたと判断されること
2.『いかにして密室はつくられたか』が事件を先取りしていたこと
3.ミステリーマニアのファミリーは、第一の被害者曳間了のためにも、犯人は用意周到にして、練りに練った犯行計画を遂行する最高の犯人でなければならず、しかも連続殺人であることを望むという倒錯的な論理を展開していること

 「序章に代わる四つの光景」から一章に読み進んだ読者は、この一章をこの小説内の<現実>であるという前提で読んでいる。
 ところが、二章の冒頭で、『いかにして密室はつくられたか』の「序章に代わる四つの光景」から一章までを読んでいる曳間了が登場する。
 とすれば、これまでの物語は、<現実>ではなく、<虚構>であり、二章こそが<現実>ということになる。しかし、二章が<現実>であるという保証はなにもないのだから、二章こそが『いかにして密室はつくられたか』であり、<虚構>である可能性も否定できない。こうして、読者は<現実>と<虚構>の間で、宙吊りになるのである。
 だが、物語は宙吊りのままの決定不能な状態のまま、さらに密室で真沼寛が消失するという事件が発生する。鏡に血模様を残して。

 三章に移る。ここではやはり曳間了は死亡している。では、二章が<虚構>だったのかといえば、真沼寛は失踪したままとされているから、あながち<虚構>ともいえない。
事態は、ますます混迷の度合いを強めてゆく。
あたかも、ルービンの壷が、地と柄が無限に反転するように見えるように、『匣の中の失楽』は<虚構>と<現実>が無限に反転する幻惑の世界にわれわれを導く。

混沌の原因は、『匣の中の失楽』の中に仕掛けられた『いかにして密室はつくられたか』という装置にある。
 この作中作は、犯人に対して、<現実>にどのような殺人を実行すべきか指南するとともに、起きた事象を丸呑みして、<虚構>に変換する。
 観測者が観測対象に関わることで、観測対象は影響を受ける。
 それと同様に、『匣の中の失楽』は、この作中作によって、『匣の中の失楽』の中で起きていることを正確に観測することができない。

 『匣の中の失楽』に登場する登場人物は、ことごとく人形であり、そのことは「黄色い部屋」のおびただしい人形を見ながら、倉野貴訓も気づいたことである。
 この物語では、人間が描かれていない。
 主役は登場人物ではなく、<書くこと(エクリチュール)>それ自体にある。
 この物語は、あらゆる探偵小説的要素(密室、一人二役、暗号……)を一冊に詰め込んだ超ミステリーであるが、最大のトリックはそんなことにはない。<書くこと(エクリチュール)>それ自体にあるのだ。
 <書くこと(エクリチュール)>自体をトリックとする叙述ミステリーは、アガサ・クリスティーから折原一に至るまで多々あるが、 『匣の中の失楽』の場合、<現実>と<虚構>の二項対立をなし崩しにし、決定不能状態で読者を宙吊りにすることを目標としている。

竹本健治作品の重要なテーマに、<現実>の根拠がなくなり、あたりまえと思われていた前提が崩壊し、主人公が否応なしに、世界の意味、そして自己という謎に直面するということがあげられる。
 『匣の中の失楽』では、読者である<あなた>がアイデンティティーの危機に陥る。没入した作品世界での<現実>の基盤がなくなるのだから。
 竹本作品における探偵とは、世界という暗号を解く者を意味する。
 なぜ、世界が暗号なのかといえば、それが理解不能であるかのように見えるからである。竹本作品において、世界と、暗号解読者としての探偵は、親和的ではない。
 竹本作品の魅力は、世界という暗号と、それを解こうとする探偵との緊張関係、せめぎ合いにある。 

 中井英夫の『虚無への供物』は、七月十二日までの物語だった。 『匣の中の失楽』は、その翌日の七月十三日から始まる。両者の継承関係は明らかである。
 『虚無への供物』は、アンチ・ミステリーという新機軸を打ち出した物語である。それは、戦後の不条理な大量生と大量死への反転という意味合いが込められていた。『匣の中の失楽』に頻出する<さかさま(さかしま)>という言葉は、この作品が中井英夫の行った反転の継承・発展形であることを示している。
 <さかさま(さかしま)>という言葉は、J・K・ユイスマンスの『さかしま』をも連想させる。J・K・ユイスマンスの『さかしま』は、デ・ゼッサントというひきこもりを主人公にした物語である。現実憎悪と生活への侮蔑、生産第一の世界への反逆のために、デ・ゼッサントは高踏趣味の部屋をつくりあげる。『匣の中の失楽』では、ミステリーという趣味に耽溺する若者だけの匣という名の小宇宙が描かれる。

弐 脱構築と現象学
 竹本健治が『匣の中の失楽』(1978)で辿り着いた地点は、虚点と呼ばれるべきだろう。
 <虚構(内部)>と<現実(外部)>という二項対立の無効化、根拠を剥奪された決定不能状態、メタファーとしての不確定性原理……この地点は、後に柄谷行人が『隠喩としての建築』(1983)で行った脱構築(ディコンストラクション)が辿り着いた地点ではなかろうか。(柄谷の場合、ゲーデルの不完全性原理に言及することが多い。)

 柄谷行人の『隠喩としての建築』は、世界的視野からみると、ジャック・デリダの脱構築に呼応した仕事であった。
 ところで、ジャック・デリダの脱構築とフッサールの現象学との両立は不可能である。
 デリダは『声と現象』で、私が語るのを聞くという形而上学を批判し、フッサールを音声文字中心主義として否定する。

 たとえば、笠井潔の『バイバイ、エンジェル』に登場する矢吹駆は、自身の推理にフッサールの現象学的還元を導入して、本質直感を行う。矢吹駆は、ラ・ヴィ・サンプル(簡単な生活)を行っているが、これはすべてを削ぎ落とし、削ぎ落としきれないものに辿り着くための方法である。
 矢吹駆にとって、削ぎ落とすべき余分なものは、かつての自身が抱えていた革命の観念である。この観念は、現実から遊離すると、肥大し、やがて自身を飲み込んでしまう。
 やがて、人民のための革命が、革命のためには無差別大量虐殺も辞せずという倒錯に行き着く。矢吹駆は、そのために現実から遊離した妄想のすべてを削ぎ落とそうとするのである。
 彼の現象学もまた、本当のリアル、本当の自分に辿り着くための方法としてある。
 
 竹本健治においても、これはすべてを削ぎ落とし、削ぎ落としきれないものに辿り着く意志はある。
 たとえば、<クー>や<パーミリオンのネコ>、そして<ティナ>が過酷な運命にさらされるのは、より深い私、より深い現実に辿り着くためのハードルである。
 これは、デカルト的な方法的懐疑に似ている。デカルトは、すべてを懐疑し、懐疑しえない「考える私」を思考の出発点とした。<クー>や<パーミリオンのネコ>、そして<ティナ>が行っているのは、実存的な方法的懐疑である。
 
 ところが、竹本健治においては、徹底的な懐疑の果てに、<現実>の底に辿り着いた瞬間に、<現実>の底が割れるのである。
 『匣の中の失楽』の場合、章が変わるたびに、読者のなかで<現実>とはなにかが崩壊する。その果てに、見出されるものは、もはや<虚構>でも<現実>でもなく、決定不能の宙吊り状態である。
 竹本健治の辿り着いた場所は、着地点を許さない虚点である。

 たとえば、『腐蝕』および『惑星ルギイの胆汁』の主人公<ティナ>は、なんどでも過酷な状況下に、名前すら書き換えられて投げ込まれる。
 そして、ぎりぎりのところで、サバイバルを強いられる。
 そう、何度でも、執拗に。
 これは、作者の趣味だけの問題ではない。主義の問題でもある。
 竹本健治は、<現実>の基盤に攻撃を仕掛け、これを徹底的に相対化させる。もはや、まどろみの生を生きることはできない。主人公は覚醒する。
 しかし、一瞬見出された虚点は、ふたたび<つじつまあわせ>により、修復され、見えなくなるだろう。<現実>は回復し、あたりまえのことのように動き始める。
 だから、竹本健治の勝利は一時的であり、さらなる外部を目指し、世界との総力戦を続けるしかない。

笠井潔の思想的ポジシオンは、反「超コード化」にある。これは、一見過激に見えて、実は裏で「超コード化」と手を握っている。なぜなら、「超コード化」を逆転する身振りにおいて、ほとんど「超コード化」を保持しているからである。

 笠井潔の思想的核心は、ジョルジュ・バタイユにある。『哲学者の密室』以降、彼はマルティン・ハイデッガーと完全に手を切り、エマニュエル・レヴィナスに乗り換えたが(もっとも「飛沫の実存イメージ、エマニュエル・レヴィナス論」の頃から、その予兆はあった。)、ジョルジュ・バタイユへの忠誠は変わらない。
 バタイユの思想的ポジシオンは、反「有神論」にある。これは、一見過激に見えて、実は裏で「有神論」と手を握っている。なぜなら、「有神論」を逆転する身振りにおいて、ほとんど「有神論」を保持しているからである。

 彼らは神や定言命令に背く身振りにおいて、自身のダンディズムを追及し、むしろ積極的に怪物になろうとする。
 だが、怪物は、天使ではない。天使とは、超怪物なのだ。

 「超コード化」が崩壊し、神が不在の現代において、彼らの試みは反動的である。 彼らは、「超コード化」や「有神論」に存命の活路を与えてしまうだろう。

 一方、竹本健治の『匣の中の失楽』は、<虚構>と<現実>の二項対立をなし崩しにする<クラインの壷>としての「匣」が舞台であり、この「匣」を如何に脱出するか、がテーマとなっている。
 <クラインの壷>とは、制限された「脱コード化」であり、「匣」の脱出とは無制限の「脱コード化」を意味する。
 つまり、『匣の中の失楽』は、来るべき極限の自由空間~リゾームを告知する。

 カスタネダの師匠の呪術師ドン・ファンは、幻覚性の植物を与え、カスタネダの<現実>を揺さぶる。
 これにより、カスタネダは、文化人類学による構造分析の限界に気づき、呪術の世界に本格的に踏み込む。カスタネダは、最初、文化人類学のフィールド・ワークのために、ドン・ファンのもとを訪れたのである。
 こんどは、幻覚による世界を<現実>であると言い出したカスタネダを、ドン・ファンは叱咤する。そして、次のようなことを言う。
 お前はいつもこれが<現実>だといって、釘付けになっている。私のもくろみは、どこにも釘付けにならないようにすることなのだ、と。

 私たちは、幻覚性の植物を必要としない。竹本健治という幻視者がいるからである。
 
 矢吹駆の目標地点は『薔薇の女』で示されたように、生前解脱にある。ところが、『薔薇の女』の段階では、まだ生前解脱は<生きられた>状態で描かれてはいない。その後、ハイデッガーやフーコーをモデルとする登場人物との思想的闘争を行った矢吹駆だが、生前解脱という目標地点に至るという点では、足踏み状態である。
 果たして、この地上に釘付けになったままで、生前解脱が可能だというのだろうか。
 
 竹本健治は、矢吹駆の遥か先を行く。『惑星ルギイの胆汁』では、とうとうナーガルジュナ(竜樹)を登場させ、シッダールタとの全面闘争に突き進む。
 ナーガルジュナの『中論』は、一切は<空>であり、実体を持たないことが説かれる。
 ナーガルジュナの立場からすれば、どこかに着地する、あるいはどこかに釘付けになることは、いまだ空性の理解に到達していないということになる。
 空性の理解なしに、生前離脱はありえない。

参 不連続線とはなにか
 『匣の中の失楽』の冒頭で登場する「不連続線」とは、何を意味するのだろうか。
 講談社文庫版の解説で、インド哲学者の松山俊太郎は、次のようにいっている。
 「この大作は、霧の迷宮の中で<不連続線>を求める、曳間の彷徨ではじまるが、<不連続線>とは、<認識の先天的な被制約性>の有力な一例としての、<現実認識の不可避に排中的な非連続性>という心理学的事実に苛立つ曳間が、この事実を超克するために、幼児体験から取り出した、一つの<象徴>である。
 つまり、<天気図>における<不連続線>とは、その名称とは反対に、不連続な二つの相を<連続させる線>だったのである。したがって、濃霧の中で象徴としての、<不連続線>を尋ねる行為は、精神の衰耗状態の中で<不可能を可能にするもの>に執着する、狂気に近い心境の、視覚的な表現と解される。」(P652~653)
 この論考に関しては、異論はない。ただし、松山自身が「作者の代弁者である曳間が「記憶におけるくりこみ原則」「記憶における超多時間原則」という二論文の梗概すら述べてくれず、影山の<時間理論>も不明である」(P653)といっているように、曳間の思想の内実が見えないことが、論考の制約となっていることは否めない。
 その後、『匣の中の失楽』は、講談社ノベルス版や、双葉文庫版が刊行されたが、曳間の二論文の中身については、依然ブラック・ボックスのままである。
 そのためか、『匣の中の失楽』論は多くあっても、「不連続線」に関する論考は、実は非常に少ないのである。

 笠井潔の小説『天啓の器』(双葉社1998.9、双葉文庫2002.7)の冒頭にも、「不連続線」に関する記述がある。
「僕は「不連続線」を超え、未実現の作品世界に到達する謎めいた通路として、あの濃霧の世界を創造した。現実に存在しないような濃霧は、また死の世界でもある。濃霧を通過することで、生身の僕は象徴的に死んだ。「不連続線」を超えた僕は、可能と不可能が交錯する神秘的な作品世界に到達することができた。一度は濃霧の中で死に、あの小説の作者として再生したとも言える。」(双葉文庫版P9~10)
 文中に「通過」という言葉がみられるように、笠井潔は文化人類学でみられる通過儀礼(イニシエーション)を念頭に置いて考えている。文化人類学での通過儀礼(イニシエーション)とは、成人になるための儀式や、結社への入社儀式に適用する。そこには、象徴レベルで、それまでの自分の<死>と、これからの自分の<再生>の交代劇が刻み込まれている。<死>と<再生>は、宗教学者ミルチャ・エリアーデが好んで取り上げたテーマである。エリアーデにちなんで、ミルチャというヴァンパイヤーを自身のSF小説に登場させた笠井潔が、「作家になる」ということに一種の通過儀礼を見るのは、ごく自然であった。問題は「不連続線」という言葉に、竹本健治はそれ以上の意味をこめているのではないかということである。
 だが、笠井潔は、そのような疑問を持たなかったのか、「職業作家としての長年の経験に照らせば、あの小説のキイワードである「不連続線」とは作家志願者の思い込み、稚拙きわまりない象徴図式に過ぎない。現実と虚構、あるいは日常と事件。正気と狂気、さらに生と死。この世界と、あの世界のあいだには「不連続線」があると信じられる者は、夢想的な子供だけだ。」(双葉文庫版、P10)と書く。
 笠井潔の解釈する「不連続線」には、現実世界と文学空間の境界線以上の意味が込められていない。曳間了が抱えていた認識論上の問題も、心理学の記憶に関する問題も、すっかり抜け落ち、単に濃霧の中で、独自の文学空間に参入するというだけの意味にすりかえられている。
 無論、『天啓の器』はフィクションであり、天童直己のキャラクター設定に竹本健治本人と異なる部分が含まれている可能性はある。そのため、次に「竹本健治」とはっきり明記された評論で、笠井潔が「不連続線」にいかなる理解をしているか、確認しておこう。

 笠井潔著『探偵小説論 II 虚空の旋回』(東京創元社1998.12)「第三章 「幻影城」の時代」によると、「青年たちの閉塞感と不全感は、もはや救済や解放の幻影さえ不可能ならしめるほど深化している。それは抽象的に、たんに「不連続線」と呼ばれるのみである。」(P84)といい、「ニヒリズムと呼ぶことのできない無力感、徒労感、虚脱感。それらもまた「匣」や「迷宮」に閉じ込められて脱出の可能性さえ奪われた、大量生の時代の青年に見合うものといえるだろう。」(P85)という。
 笠井史観は、「大量生」もしくは「大量死」の時代が、探偵小説を生んだという見解である。これは画期的なものではなく、「二度にわたる世界大戦による不安感や危機意識が、ドイツやフランスの実存主義を生んだ」という社会思想史の「実存主義」を「探偵小説」に置き換えただけの紋切り型の理論である。問題は、作品を読む際に、「大量生」や「大量死」という自らの理論のタームに引き寄せてしか、解読できなくなっている点である。この『探偵小説論 II 虚空の旋回』に収められた『匣の中の失楽』に関する論考でも、笠井史観に引っかかった部分だけが取り上げられ、『匣の中の失楽』という作品の固有性は失われてしまっている。その結果、「不連続線」の理解についても、単に「閉塞感と不全感」や「無力感、徒労感、虚脱感」であるということになってしまっている。
 仮に笠井潔説を採用すると、『匣の中の失楽』にある次のような記述が了解できなくなる。
「なぜ、こうも世界というものは連続しているのか。…(中略)…彼は、田舎から尋ねてくる叔父に、よく、『おじさんは、いなかからずうーっと、ここまで来たの?』という質問をしたものだった。叔父は、しばしば繰り返されるこの質問の意味がよく呑みこめずに、ただ『ああ、そうだよ』と答えるばかりだった。」(講談社文庫版P10~11)
 曳間了は、世界がずうーっと連続しているのではないと考えている。そのため、世界が連続していることを当然のように考え、疑うこともしない叔父やその他の人々に、異和をかんじている。「不連続線」に、世界がずぅーっと連続しているのではない、という意味が込められているのならば、これを「閉塞感と不全感」や「無力感、徒労感、虚脱感」という意味だけで受け取るのは、あまりにも杜撰な議論といわざるを得ない。これは、<不連続線>に、<認識の先天的な被制約性>を見出す松山俊太郎説からの後退である。
 笠井潔の批評における大雑把さについては、コリン・ウィルソンのそれを連想させる。
 コリン・ウィルソンも、文芸批評において、自らの思想に適合する部分だけを取り上げてしまう傾向があり、アウトサイダーの問題や、至高体験の問題だけをクローズ・アップさせてしまうという問題点がある。その結果、ラヴクラフトの作品を『夢見る力』で論じた際に、ラヴクラフトは(自分の評論と同題の)「アウトサイダー」という小説も書いており、アウトサイダーの問題意識はあったが、その作品群はペシミスティックで、絶望感が溢れ、
(至高体験のなんたるかを知っていないので)評価できないとこき下ろしたのである。その後、改めてラヴクラフトの作品を読んだり、自らクトゥールー神話を書くことで、彼は自分の批評が偏狭であったことに気づき、評価を修正するのである。

 『匣の中の失楽』が、埴谷雄高の『死霊』の影響を受けているという指摘は、すでに松山俊太郎による解説でもなされており、「作者は、羽仁和久に埴谷雄高氏を投影して、氏の用語である”Ach!"をもじった、「あっは」を連発させるという遊びを行っている。」(講談社文庫版P653)としている。ただし、双葉文庫版に収録された綾辻行人との対談で、竹本健治自身が明らかにしているように、「『死霊』よりむしろ、『闇の中の黒い馬』とか、あのへんの一連の短編のイメージを各所に取り入れた」(双葉文庫版P651)というのが正確なようである。
 いずれにせよ、冒頭の「霧の迷宮」に、埴谷雄高の作品のイメージが深い影を落としていることは間違いのないことである。埴谷雄高もまた、自らの文学空間で「霧」、「闇」等を多用して、自身のイデー(「妄想」)を表現した作家だからである。埴谷雄高は、イヌマエル・カントの批判哲学の読書体験から、哲学ではできないことを妄想としての文学に科そうとしたのである。
 カントの批判哲学は、(1)『純粋理性批判』による認識論、(2)『実践理性批判』による倫理学、(3)『判断力批判』による美学に大別できる。認識論から見ると、カント以前において、われわれの認識はすべて対象に従うというものであったが、カントは対象がわれわれの認識に従うというコペルニクス的転回を行ったことになる。その結果、われわれの直感が認識するものは現象に限られ、物自体すなわち本体(Noumenon)を認識できるわけではないとされるに至った。カントは、この立場から経験を超えて純粋悟性を拡大しう
るかのような欺瞞をわれわれに与える先験的仮象(transzendentaler Schein)を撃破しようとする。それは、具体的には(a)心理学的理念(魂の存在はあるか)、(b)宇宙論的理念(宇宙の果てはあるか)、(c)神学的理念(神の存在はあるか)である。これにより、われわれの知りえないことに関する形而上学の学説は粉砕される。カントにおいては、認識論のレベルで、一旦神の存在は知りえないとしてしりぞけられるが、実践理性の倫理的要請によって、再度神の当為が主張される。
 しかしながら、カントの厳格主義・批判主義によっては、埴谷雄高の抱えていたアポリアは解決されなかった。埴谷雄高の抱えていた問題とは、目的は手段を浄化するか、未来の人々のために、今日何千、何万の人々の死は容認されるか、といったテロリズムと革命に関する難問であり、ドストエフスキーの「大審問官」が提出した権力と自由をめぐる難問であった。したがって、埴谷雄高は、このアポリアを解くために、自身の位置を哲学から、妄想としての文学に移動させたのである。そして、彼が「霧」や「闇」、「影絵」といった世界を好んだのは、自身の妄想を展開するのにふさわしい場であったからである。ライフ・ワークとなった『死霊』の中で動き回る登場人物は、彼の中にあった観念が人間のかたちをとったものであり、人形であった。つまり、『死霊』においても、人間は描かれていない。

 曳間了が「なぜ、こうも世界というものは連続しているのか。」という観念を抱いていたとすれば、彼の時間概念はデジタルであることを示している。そして、曳間の疑問を理解しない叔父をはじめとする人間たちは、アナログ的な時間概念を持っていることを示している。
 このことは、『言葉と物』で示されたミッシェル・フーコーの歴史観との比較で考えるとわかりやすい。キリスト教やマルクス主義では、歴史は過去から未来へ直線的に連続して流れるという通時態重視の歴史観を持っている。ところが、フーコーの場合、歴史は地層のように、不連続性をもっており、それぞれの時代にはエピステーメーという認識の基盤が働いているが、地殻変動により、まったく新しいエピステーメーが生まれるという共時態重視の歴史観を提出した。そして、通時態重視の歴史観は、現在から過去を見た際に、明らかな断絶・不連続性があるにもかかわらず、つじつまあわせの欺瞞で、不連続性に穴埋めを行った捏造であると考えるのである。このフーコーによる<知のアルケオロジー>には、フリードリヒ・ニーチェによる系譜学の思想が深く影を落としている。
 フーコーがマクロ(人類の精神史)を対象にしたのに対し、曳間了はミクロ(個人のアイデンティティーがいかにつくられるかという心理学上の問題)を対象にし、同様の「不連続線」の思想を展開したのではないだろうか。
 
 ところで、フリードリヒ・ニーチェは、病者の視点から、キリスト教の中に弱さのニヒリズムを見出し、やがて道徳の系譜学を確立していった。トーマス・マンは『ファウスト博士』で、天才と梅毒の問題を扱ったのは、ニーチェのことが念頭にあったからである。また、ドゥルーズ=ガタリは、『アンチ・オィディプス』の中で、ニーチェの晩年のスキゾフレニーに言及する。
 ミッシェル・フーコーの場合、彼自身のホモ・セクシュアルというマイノリティーの問題を、彼の哲学を考える上で、無視できない。彼の展開した哲学は、クィアー・ポリティックスなのである。
 では、曳間了はどうか。彼の鋭敏すぎるデシタルな時間感覚の背景に、なんらかの精神疾患を疑う。
 相手の中に没入して、生の純粋持続を想像的に思惟する(要するに、捏造すること。欺瞞することである。)ことがないということは、相手が存在することはわかっていても、相手の実在感が湧かないということではないか。相手との心理の絡み合いがなく、単にそこに<ある>というように。

 ところで、「作者の代弁者である曳間が「記憶におけるくりこみ原則」「記憶における超多時間原則」という二論文の梗概すら述べてくれず、影山の<時間理論>も不明である」(講談社文庫版P653、松山俊太郎、解説)という事情は、その後、『匣の中の失楽』のさまざまなヴァージョンが刊行されたにもかかわらず変わっていないが、実は竹本健治は別のところで、この問題系を発展させていると、私は考える。それは、『闇に用いる
力学[赤気篇]』(光文社)の中において、『つじつまあわせの構造』(P211)という名称でなされているのである。
 『闇に用いる力学[赤気篇]』(光文社)で、竹本健治は次のように書いている。
 「人はものごとを捉え、理解し、体系化するとき、絶えずこのつじつまあわせを行っている…(中略)…そのベースになっているのは、彼独特の<命題のトポロジー的連環モデル>…(中略)…従来のモデルでは、Aという命題とBという命題が関連づけられる場合…(中略)…結局は線によって結びつけられるほかなかったけれど、彼が提唱したのは、命題というものが輪ゴムのような閉じたリングになっていて、AとBとの関連は…(中略)…両者がリングの連なりによってチェーンのように結びつけられることで表現される…(中略)…いちばんの利点は、従来のモデルでは命題と命題の連関が連続的なものとして表現されるほかなかったけど、このモデルでは関連そのもののうちに非連続性が織りこまれている」(P213~214)
 ここで<連続>と<非連続>ということばが見られることに注目しなければならない。
 こうして、『匣の中の失楽』の<不連続線>をめぐる探求は、『闇に用いる力学[赤気篇]』における<つじつまあわせの構造>の読解へと、必然的に発展していくことになる。

四 『つじつまあわせの構造』解説
 『匣の中の失楽』に登場する曳間了による「記憶におけるくりこみ原則」「記憶における超多時間原則」の発展形が、『闇に用いる力学[赤気篇]』で登場する日本綜合心理研究所認知心理学課の倉石恭平の唱える『つじつまあわせの構造』および<命題のトポロジー的連環モデル>ではないか、という仮説をもとに、『つじつまあわせの構造』および<命題のトポロジー的連環モデル>の中身を検証していこう。
 ただし、『闇に用いる力学[赤気篇]』においても、『つじつまあわせの構造』および<命題のトポロジー的連環モデル>を倉石恭平から直接レクチャーを受けることはできない。倉石恭平の研究には、なんらかの圧力がかかり、監視の眼がつくようになる。われわれが知ることができるのは、(1)倉石と同僚の茎田諒次の会話と、(2)倉石の影響で監視がついた茎田が、監視から逃亡する過程で、海老原夏樹とミューに倉石の研究内容を語ることからだけである。
 まず、(1)倉石と同僚の茎田諒次の会話からは、『つじつまあわせの構造』および<命題のトポロジー的連環モデル>が、「要素還元主義」から外れていることと、「実証的でない」ことがわかる。(P168)
 要素還元主義でないということは、部分に実体を求めるアトミズムでないということである。反・要素還元主義ということから、『つじつまあわせの構造』および<命題のトポロジー的連環モデル>は、全体に実体を求めるホーリズム的立場であるか、諸関係のネットワークで事象を捉える構造主義的立場であるということになる。倉石の専門である心理学分野でいえば、前者のホーリズムにはトランスパーソナル心理学が、後者の構造主義にはピアジェやラカンがいる。前者はオカルトを許容する傾向があり、科学者の自然発
生的哲学に陥っているが、後者には唯物科学に反する曖昧なイデオロギーの余地はない。後に示す理由から、倉石の認知心理学は後者に当てはまると推測する。
 次に、(2)茎田が海老原夏樹とミューに倉石の研究内容を語る場面から、倉石が研究していたのは「人間の精神における情報処理の様式」であり、「情報処理の総体こそが精神と呼ばれるもの」なのだが、「そういった情報処理がとのような原理に従って行われるか」を問おうとしていたことがわかる。(P290)
 倉石が注目した現象は、つじつまあわせということであった。ところで、これは私の読書体験の偏向のせいなのかも知れないが、竹本健治が『つじつまあわせの構造』というとき、コリン・ウィルソンのジェラード・ソーム三部作(『暗黒のまつり』・『形而上学者の性日記』・『迷宮の神』)に出てくる主人公ジェラード・ソームが書いている『自己欺瞞の方法と技術』を想起してしまう。自己欺瞞への批判は、実存主義者ジャン=ポール・サルトル
の『存在と無』にすでにみられるので、新実存主義者のコリン・ウィルソンは、これを継承したのだと考えるが、要するに自分自身に嘘をつき、非本来的な生き方をすることへの批判が、この中に込められている。つじつまあわせというのも、自己欺瞞の一種であるから、『つじつまあわせの構造』も『自己欺瞞の方法と技術』と同じ方向性を持った論文ではないか、と夢想する。
 しかしながら、『つじつまあわせの構造』と『自己欺瞞の方法と技術』の理論的差異も、明白に存在する。『自己欺瞞の方法と技術』は、(オプチミスティックな)実存主義からの自己欺瞞の批判である。これに対して、『つじつまあわせの構造』は、人間の精神を情報処理の総体として捉え、関係のネットワークで人間のよって立つところの体系を把握しようとする。『つじつまあわせの構造』は、実体主義と完全に手を切っている。
 『つじつまあわせの構造』が、構造主義的なアプローチに拠っているという根拠を示そう。「母親との緊密な接触のなかからどう対処すればより快適な情況を得られるかを赤ん坊が学び取るようにー、あるいは執拗に関連づけされて示されるうちに物事と言葉との秩序立った体系が体得されるようにー、そして<ごっこ>の繰り返しのなかで子供が自分の社会的役割を実験的に確認してゆくようにー、情報処理系の同一性はつじつまあわせの反復によって検証され、補強され、整備されたものになってゆくんだよ。」(P29
4)この文章のなかに、モーリス・メルロ=ポンティ『幼児の対人関係』における幼児の身体意識と他者の知覚の発達過程の説、ジャック・ラカン『エクリ』の主体の形成に関する鏡像段階説、ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力』のアブジェクシオン理論、ジークムント・フロイト『快感原則の彼岸』のFort/Da の遊びに関する理論の匂いを嗅ぎ取ることができる。
 構造主義的な精神分析学では、主体ははじめからあるのでなく、それは形成されると考えるのが特徴である。たとえば、ラカンは人間の主体は、鏡像段階を経て、幼児期に形成される。鏡の中に映った自分あるいは他者の反応を通じて、子供は自分自身の自己同一性を形成するというのである。また、クリステヴァは、当初、子供は母親との緊密な関係を持っているが、主体が形成されるためには、母親をアブジェクト(おぞましいもの)として自らと引き離すことも必要であると考えた。
 『つじつまあわせの構造』は、関係主義的であるだけでなく、主体をはじめからあるのでなく、形成されるものとする点で、構造主義的である。(実存主義ならば、主体がまずあり、そこから本質を選び取ってゆくスタンツになる。)
 さらに「情報が本来的に持つ矛盾性の大きな要因は…(中略)…<言葉>と<意味内容>との関係の曖昧性にある」(P269)という記述があるが、この場合、<言葉>とは構造主義的言語学で用いるシニフィアンのことであり、<意味内容>はシニフィエのことであることは明白であろう。そして、構造主義的精神分析学は、ソシュールの構造主義的言語学に基礎を置いているのである。
 また、「我々の自己同一性が決して静的なものではあり得ない」(P297)という記述や「自己同一性の強度は矛盾情報をつじつまあわせすることによってのみ立ちあらわれてくるのであって、そうなると両者は単純な対立関係にあるのではなく、極めてダイナミックな、相互依存的な関係にあることがわかるだろう。」(P297~298)という記述から、
『つじつまあわせの構造』は、より正確にいえば、ポスト構造主義的な生成論や自己組織化理論であると判断できる。補足をすると、自己同一性を静的(スタティック)に捉えるのが構造主義である。また、強度(アンタンシテ)という言葉は、ドゥルーズ=ガタリで頻出するテクニカル・タームである。また、自己同一性と矛盾情報を対立関係で捉える立場は、構造とその外部の、言い換えればコスモスとカオスの弁証法的相互作用で、構造の動的変動を説明する立場だが、『つじつまあわせの構造』はそれですらないといっている。バタイユの普遍経済学を「構造とその外部の弁証法」であるとして、かつて浅田彰は『構造と力』で批判したことがあり、これはバタイユ支持者(栗本慎一郎・笠井潔ら)を射程に置いたものだったことを想起するなら、このコメントの重要性がわかるだろう。さらに、極めてダイナミックで、相互依存的な関係ということから、『つじつまあわせの構造』は自己同一性と矛盾情報をまとめて、一気に装置なり、機械なりで捉える後期フーコーやドゥルーズ=ガタリに近いことがわかる。
 茎田の説明する倉石の『つじつまあわせの構造』は、「情報処理のために好ましく情報処理」(P290)するという法則が、人間の精神に見出されるとする。例えば、同じモノであることがすぐに認識されるために、<大きさの恒常性>(P291)がみられるが、これは意識下の情報処理によるものとされる。この情報処理は、<最小情報量の原則>(P291)に従う。個々の特殊な事象を説明する際に、それに近い一般的な例から説明する
が、これも<最小情報量の原則>(P291)である。
 さらに、「新たな情報を次々と無理なく既成の<情報ネットワーク>のなかに組み入れることができさえすれば、系全体のほうでもそれ自身の同一性・普遍性を強化するために、どんどん新たな情報をとりこもうとするだろう。」(P292)ということをいっているが、このあたりの記述はかなり構造主義的である。<情報ネットワーク>を、科学的な認識のためのモデルとして捉えても、哲学理論における体系と捉えてもいいだろう。この記述
から、ホーリズム的という仮説は却下され、構造主義的という仮説が正しいということがわかる。そのあと、茎田は「情報の同一化・普遍化の機能を…(中略)…その自己目的性を強調して<つじつまあわせ>」であるといっている。これは、<情報ネットワーク>のシステムの安定性を上げ、強化するための方法が、<つじつまあわせ>であるということである。
 思考の体系は、その同一性を強化するために、体系の例証となる情報を必要とする。問題となるのは<量の原則>と<質の原則>(ともにP293)であり、数多い例証と、より質の高い決定的な例証により、より体系が強化される。
 ところが、精神に取り込まれる情報の中には、いままでの思考の体系に矛盾する情報が含まれる。このような<矛盾情報>(P294)は、「系自身の同一性の正当性を揺るがし、円滑な機能を混乱に陥れ、系全体に多大な歪曲を及ぼす」(P294)ので、つじつまあわせがなされることになる。「情報を否定したり…(中略)…情報の意味をすり替えたり…(中略)…相手の言葉を受け入れる心の広さ」(P295)を示したり、もっと重大な<矛
盾情報>(P294)の場合、「情報ネットワークの大幅な編みなおし」(P295)に発展することもありえる。

『闇に用いる力学[赤気篇]』をもとに、『つじつまあわせの構造』および<命題のトポロジー的連環モデル>の素描を試みてきたが、いくつかの具体的事例について考えてみよう。

(a)「情報ネットワークの大幅な編みなおし」(P295)に発展するような重大な<矛盾情報>(P294)の例として、革命の観念を抱く者が、その論理的帰結としてのテロリズムや収容所群島の実態に直面した場合が考えられる。この場合、元の革命の観念を葬送して転向を図る者もいれば、未来への革命の切符を握り締めたままで、部分的な理論修正を行うものもいるだろう。いずれにせよ、その個人の精神の中で<無矛盾の原則>(P295)がなされる必要がある。
 また、ニュートン力学で説明できない現象に直面して、アインシュタインの相対性理論へ、さらにはボーアの相補性理論に、パラダイム・シフトしてゆくのも、「情報ネットワークの大幅な編みなおし」(P295)の例である。

(b)「矛盾情報のうち、我々にとって最も究極的なものは<死>という観念といえる…(中略)…なぜかといえば、それが<自己同一性>の無化を意味する情報だからであり、しかもそれは全く不可避に訪れるものであるにもかかわらず、決して体験できないものなのだから」(P297)という記述は、トルストイの『イワン・イリッチの死』、キルケゴールやハイデッガーの哲学を想起させる。
 『イワン・イリッチの死』は、平凡な日常生活を過ごしていた男が、あるとき自分が余命わずかであることを知り、漫然と過ごしてきた過去を反省し、苦悩する話である。
 キルケゴールは、その単独者思考により、実存哲学の祖となった人物であり、「私がそのために生き、そのために死ねるイデー」を見出そうとした。 『闇に用いる力学[赤気篇]』では、このイデーのことを<原器>(P297)と名づけている。
 ハイデッガーは、現象学的なアプローチで存在論を構築した人で、<死>を最も高次の法廷と呼び、<死>を前に日常性に埋没していた現存在が、自らの本来性に覚醒すると考えた。

(c)最後に「つじつまあわせを特定の方向に誘導する技術」(P299)であり、「マインド・コントロール」(P299)があげられる。これは 『闇に用いる力学[赤気篇]』が、『つじつまあわせの構造』という心理学的原理応用の犯罪を描いていることを示唆している。心理学的原理応用の犯罪であるということは、夢野久作の『ドグラ・マグラ』を連想させる。
 ここで、竹本健治は「マインド・コントロール」(P299)の基本となる原理を示す。すなわち、<原器損壊装置>と<命題美化装置>(P300)である。前者は「対象となる人間の原器を突き崩すための機能」であり、後者は「新たな原器のかたちを指し示す機能」(P300)である。
 たとえばティモシー・リアリーが『神経政治学』で、例に挙げているパティー・ハースト事件の場合、銀行頭取の娘がゲリラに誘拐され、洗脳され、やがてゲリラとともに銀行強盗になったわけだが、これは典型的なストックフォルム症候群である。
 ティモシー・リアリーは、学習によって新しい人格に再刷り込みするためには、前の人格を消去する必要があるといっている。 
 <原器損壊装置>としては、長時間暗室に入れ、外部からの感覚を遮断する、暴力で蹂躙する、さらには(これはパティー・ハーストには使われなかったようだが)薬物で頭脳を漂白するなどがあげられる。
 <命題美化装置>は、被害者にそれによらずには生きられないような条件下で、新しい価値観を与えるということである。
 倉石の『つじつまあわせの構造』によれば、マインド・コントロールを完全にするために、<他人から与えられ>(P301)た情報であるということを、隠蔽すればいい。
 ここで、私見を述べれば、あらゆる体系には、体系がそれによって立つ根拠があり、その根拠の根拠を問うことを禁止する必要がある(自己言及のパラドックスの回避のためのロジカル・タイプ=論理階梯の混合の禁止)。これにより、マインド・コントロールは、より完璧なものになるはずである。

伍 再び<不連続線>の方へ
 「なぜ、こうも世界というものは連続しているのか。…(中略)…彼は、田舎から尋ねてくる叔父に、よく、『おじさんは、いなかからずうーっと、ここまで来たの?』という質問をしたものだった。叔父は、しばしば繰り返されるこの質問の意味がよく呑みこめずに、ただ『ああ、そうだよ』と答えるばかりだった。」(『匣の中の失楽』講談社文庫版P10~11)
 『ああ、そうだよ』という叔父のことばに異和を感じるとすれば、曳間の方は『おじさんは、いなかからずうーっと、ここまで来たのではない』と考えているのだろう。
 曳間の時間概念は、デジタルで、過去から現在まで持続的に連続しているのではない。デジタルな時間概念ということは、少し前の自分と<いま、ここ>を生きる自分の間に差延が入っていることを意味する。そして、この少し前の自分と<いま、ここ>を生きる自分の間のズレは、対自存在という人間存在の在りように起因している。
 対自存在と即自存在は、ジャン=ポール・サルトルが『存在と無』で提出した概念である。サルトルは「即自存在は、それが有るところのものである。」といい、「対自存在は、それが有るところのものではなく、それが無いところのものである。」 といった。前者は物のあり方を示し、後者は人間のあり方を示している。この少し前の自分と<いま、ここ>を生きる自分の間のズレは、対自存在としての人間存在は、現在を自身を乗り越え、未来の自己を創出すべく投企(projet)するためである。
 『匣の中の失楽』には、埴谷雄高の『死霊』や『闇のなかの黒い馬』といった黒い水脈が流れ込んでいるから、当然埴谷雄高の<自同律の不快>という概念も引き継いでいると考えられる。<自同律の不快>とは、「それが有るところのものである」ことへの不快を意味する。そこには、自己が「それが有るところのものである」状態を、意識によって無化しようとする企てがみられる。
 つまり、曳間の学問(認知心理学)の中には、埴谷の<自同律の不快>というコンセプトが埋め込まれていると推測される。
 そして、曳間は叔父(を初めとして、人間たち)は、本当は時間は、デジタルで、過去から現在まで持続的に連続しているのではないはずなのに、<つじつまあわせ>を行い、あたかも時間が、アナログで、過去から現在まで持続的に連続しているかのような欺瞞が覆っていることに、異和を感じていた。
 「記憶におけるくりこみ原則」と「記憶における超多時間原則」に関する作品中のヒントは、これが「記憶錯誤(パラムネジー)」(講談社文庫版、P418)に関する論文であるということだけだ。「記憶錯誤(パラムネジー)」ということから、この二論文が、フロイトの『日常生活に於ける精神病理』の延長線上にある論文ではないかと推測される。つまり、無意識下での<記憶>の改ざん・変形に関する論文ではないか、ということである。以
下は、この推測の発展形である。
 叔父(を初めとして、人間たち)が行っている<つじつまあわせ>は、「記憶におけるくりこみ原則」をもとにしている。叔父(を初めとして、人間たち)といえども、現在から未来に向かうときには、時間が不連続で、持続しているわけではないということを知っているはずなのに、現在から過去の<記憶>を振り返るとき、時間の流れの欠落した部分に、嘘をくりこみ、あたかも過去から現在に向かって、連続的に、時の流れが持続しているかのように<記憶>を塗り替えるのである。<記憶>とは、情報の<記録>であり、ここにイカサマの情報が挿入されているということである。そして、個人のアイデンティティーというものが、個人の<記憶>によって形成されているとするならば、叔父(を初めとして、人間たち)は、まやかしのアイデンティテイーでしかないことを意味する。
 <記憶>がこのように捏造されたものであるのなら、個人の<記憶>は、個人が生きた時間=歴史より長いに違いない。「記憶における超多時間原則」とは、個人の記憶に、ダミーの時間情報が入っているせいで、実際の生きた時間よりも多いということではないか。
 「不連続線」をめぐって、理論構築をし、さらには実験に至る曳間の願望は、不条理な満たされることのない願望である。これは<絶対の探求>と呼んでもいいだろう。次々と相対化を仕掛けてくる竹本作品の中で、実は<絶対の探求>(バルザック)ともいえる不条理な願望が響き渡っている。曳間の「不条理線」をめぐる探求が、第一の主題である。さらには密室の突破をめぐるさまざまな仮説の中で、「1のあとに0が10の24乗くっついた回数壁にぶつかってゆけば、そのうち1回だけは(トンネル効果で)通り抜けられる」(講談社文庫版、P176)と影山が語る場面や、曳間の姉が「尖ったものを上向きにして、そこにビー玉やピンポン玉を乗せようとする」(講談社文庫版、P313)にも、<絶対の探求>ということを感じさせる。つまり、次々と相対化を仕掛けてくる竹本マジックは、あまりにも巨大すぎる<絶対の探求>がもたらしたものである可能性が強い。『匣の中の失楽』の登場人物たちは、アルベール・カミュの戯曲に登場する月と不死を手に入れるために大虐殺を行う皇帝カリギュラの兄弟なのである。
 曳間は催眠術を仕掛ける。人間たちを告発するために。あるいは人間たちを実験するために。彼らが<つじつまあわせ>をするのならば、連続殺人は起こるだろう。これは曳間のペシミズムである。曳間は、人間たちが<記憶>の中からダミーのデータを消去してくれることを願う。それは、ある意味、超人待望論である。不連続な時間の中で、アイデンティティーの危機をさらしながら生きることを意味するのだから。だが、そのような超人は生まれはしない。曳間の賭けは失敗するだろう。かくして、悲劇の幕は上がる。不連続な密室殺人が、あたかも連続しているかのように。

初出 竹本健治ファン倶楽部 軟体動物同盟 2004.3.20

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