庵野秀明監督作品『劇場版 NEON GENESIS EVANGELION - DEATH (TRUE) 2 : Air / まごころを君に』(キングレコード、2003)

『NEON GENESIS EVANGELION』において、人類の生存期間は、ネルフ地下のセントラルドグマの最下層(ターミナルドグマ)に、使徒が到達し、サード・インパクトを起こすまでの間となっている。使徒のテロス(目的)は、ターミナルドグマを侵犯することにあり、侵犯と共にファイナルとなる。エヴァンゲリオンの役割はこの到達時間を遅らせることにあるが、その間、歴史の裏側で別のシナリオが進行しつつあった。
『NEON GENESIS EVANGELION』で、主人公たちが格闘する場所は、L.C.L.溶液の入ったエントリープラグの中であり、これはジョン・C・リリーの考えた感覚遮断実験のためのアイソレーション・タンクの構造に近い。このアニメは、終始、主人公たちの内的空間を問題にしている。
TV版は、第弐拾伍話「終わる世界」と最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」で、物語を語ることを放棄し、この作品の持つ主題を直に語るという戦法に出たが、劇場版はこの第弐拾伍話と最終話のやりなおしである。(劇場版は『新世紀エヴァンゲリオン シト新生 DEATH&REBIRTH』でも終息せず、『END OF EVANGELION Air / まごころを君に』でやっと完結した。『劇場版 NEON GENESIS EVANGELION  DEATH (TRUE) 2 : Air / まごころを君に』の「DEATH (TRUE) 2」はDEATH篇の再編集版であることを示している。)
『世界の中心で愛を叫んだけもの』は、ハーラン・エリスンのSFであるが、最終話では愛をアイと表記していた。これは愛とi(虚数、孤独を暗示)という重層的な意味を持たせるためであると考える。(金井美恵子の『愛の生活』も同様のことをやっている。)
TV版の第弐拾伍話と最終話は、劇場版の第25話「Air」と第26話「まごころを君に」で再話されているが、ここで語られている「人類補完計画」を巡る見方には、大きな意味のズレが発生している。「人類補完計画」とは、「人類の心の隙間を埋めること」である。進化の行き止まりに到達した人類は、否応なしに他者とのATフィールドと呼ばれる心の壁を意識せざるを得なくなっている。ゼーレの考えていることは、「人類補完計画」によって、人類全体の自我をひとつに融合させることにある。
TV版の第弐拾伍話と最終話では、各人の心の隙間や問題点を暴露するところから始まり、最終的に碇シンジの心の補完が行われ、誰からも「おめでとう」と祝福を受け、ドームのような心の世界にひびが入り、世界と融合する。この描き方は、自己開発セミナーと同型である。まず人格破壊が行われ、次に理想的な人格のタイプが示され、最終的に世界と融和したゼーレの考える体制にとって安全な自我となるわけである。
しかし、劇場版は違う。「人類補完計画」に到るまでの凄まじい殺戮が行われ、人類が魂をひとつになるためには肉体を捨てなければならないことが示される。
「人類補完計画」は、ゼーレによって、カバラの「生命の木」モデルに基づいて遂行されている。「生命の木」では、アイン/アイン・ソフ/アイン・ソフ・アウルからの神的な光が流出し、ケテルから始まり、最後マクルト(地上の王国)に注がれる。これは、単一にして抽象的なものから、多様にして具体的なものへの流れであるが、「人類補完計画」はマクルトから時を巻き戻し、起源としての単一の光に還元させる試みなのである。
ゼーレのシナリオは、「裏死海文書」に基づいている。エッセネ派によるとされる「死海文書」は、1947年に死海のほとりで発見されたものであり、ラディカルな精神主義が顕著であり、地上における光の子と闇の子の闘いを予言している。「裏死海文書」とされたのは、この現実の「死海文書」と物語中の「死海文書」と切り離すためもあるが、「ナグ・ハマディ文書」を匂わす作戦なのかも知れない。「ナグ・ハマディ文書」は、1945年にナグ・ハマディで発見されたグノーシス派の文書であり、反宇宙的善悪二元論が見られる。
反宇宙的善悪二元論に基づき、地上の肉体と物質は、自身を神と勘違いしたヤルダバオトによって創造されたものとして、その廃滅と棄却が正当化できるだろう。
劇場版は、碇ゲンドウの考える碇ユイを中心とする別ヴァージョンの「人類補完計画」と、ゼーレのプランが錯綜しながら進行してゆく。最終的に、主人公碇シンジは心の補完を得て、すべてが融合した世界に到達するのだが、到達と同時に、この救済を拒否するのである。
「人類補完計画」は、人々の心をひとつにするかも知れない。そして、コギト(自我)の壁に阻まれた孤独というものがなくなるかも知れない。だが、それは孤独の消滅ではなく、物事を考えることができなくなっただけである。融合とは、考えることの停止であり、物事を対象化して視ることの停止である。碇シンジは、再び、心と心の軋みあう過酷な現実のなかに舞い戻る。
劇場版の示しているベクトルは、アニメという最初から事前に予定調和が仕組まれている人工現実の<外>なのである。
この後、庵野秀明が『ラブ&ポップ』や『式日』といった実写の世界に移動してゆくのは、<外>への志向の表れなのである。ただ、<外>の特性として、立ち止まったときに<内>に変質するということがある。そのため、立ち止まることなく、不断の移動をするしかない。

初出:2005年07月03日 10:06 ソーシャル・ネットワーキングサイト[mixi(ミクシィ)]内レビュー

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